37 変貌

「アル……わたし、ネオを怒らせてしまいました」

「気にしなくていい。パティのせいじゃない」

 しゅんとするパティに、アルは何でもないことのように言った。


(それよりもこれからどうするかだ)


 二人はパティの部屋に入っていた。

 アルは椅子に腰かけ、頬杖をつく。


(ネオに注意喚起はできた。あの様子からネオはナターシャが魔のものだと知らず、また関わりもないのだろう。そもそもなぜ、王はここへ来るように僕に言ったんだ?……王はナターシャのことを知っているのか?)


「……アル?」

「ああ、何でもない。パティ、ゆっくり休んで。僕が見張っているから」

 パティの呼びかけに、アルは一旦考えるのを止めると、子供にそうするように至極優しい声で言い、再び考え事をする姿勢をとった。

 パティはアルの姿を横目に見ながらソファに座り、アルがいる安心感から、いつしか体を横たえていた。

 


 ネオは客人二人を追い出し、一人になったことでようやく安堵していた。しかし頭の中は煩かった。


(ナターシャが魔のものだと? ばかなことを――)

 ネオは頭を振った。


「ナターシャは魔の気配がします」

 そう言ったパティの声を、ネオは必死に振り払う。

 ナターシャはこの屋敷の天使のような存在だ。ずっとそうだった。


「そうだ、おかしなところなど何一つない」

 口に出し、ナターシャを肯定したが、考えないようにしていたことを思い返していた。


(ナターシャは笑う時、もっと声を立てて笑っていた)

 いつからだろうか。気が付くと、ナターシャは少しずつ変化していた。

 ナターシャの笑い方は無邪気な子供そのものの笑い方だった。

 まだ未熟な妹は何かにつけて母親に叱られ、よく泣いていた。

 泣いていたナターシャを慰めるのはネオの役目だった。だが半年ほど前から涙を見せることはなく、妙に大人びた顔をするようになった。成長期の子はそんなものだろうと思っていた。しかし、拾ってきた子猫の世話をしなくなったことは引っかかってはいた。


(まさか……魔が関わっているから?)

 ネオは片手で頭を押さえた。

(そんな筈はない、そんな筈――)

 答えの出ない問いかけが頭の中で繰り返し、闇が覆い被さるようだった。

 

 

 パティは不意に目覚めた。

 夜も更け、物音もしない。部屋は灯りがついていたがアルの姿はなかった。

「アル?」

 

 しかしアルからの返答はなく、しんと静まり返った部屋にパティの声だけが響き渡った。

 パティが目覚めたのは重苦しい空気を察知したためだった。

 はっきりとした魔の存在を感じる。


(近くにいる――)

 パティの額に冷や汗が滲む。

 パティはベッドを降り、部屋を見回したがやはりアルはいない。


 パティはベッドの傍らにあったランタンを手にし、静かに扉を開け、暗い回廊へと出た。


「アル! どこなのですか?!」


 パティは恐怖とアルがいないことで軽くパニック状態になり、知らずの内に大きな声を出していた。隣に用意されていたアルの部屋の扉をどんどんと叩き、彼の名を呼ぶ。しかしいくら叫んでもアルは姿を見せなかった。

 そこで、背後の扉ががたりと開いた。


「何してるのよ、煩いわね」

 不機嫌な顔で、化粧を落とし、寝間着を着ているフレデリカが眉を寄せた。


「フレデリカ様」

「あら、パティ様でしたの。何をなさっているの、こんな夜更けに」

 フレデリカは目を擦り、口元を手で覆い、欠伸をした。

「すみません、ですが、魔のものの気配がして……アルの姿も見えないのです」

「魔のもの? いやあね、パティ様。寝ぼけているのね」

 フレデリカはくすりと笑った。

「そんなものがいる筈ないですわ。それにここは屋敷の中なのよ」

「で、ですが――」


 パティはその瞬間、ぎくりとした。

 回廊の灯りの中にぼうっと浮かび上がった、一人の少女が身じろぎもせずにこちらを眺めていた。

「ナターシャ……? あなたも起きてしまったの? 何でもないわよ」

 ナターシャは姉の問いには答えず、うっすらとした笑みを浮かべ、パティを見た。


「パティさん、気づいていたのね」

 ナターシャは囁くように言った。

 驚くほど落ち着き払った、大人びた声音だった。


「ふうん。ぼーっとした子だと思ったのになあ。天使って意外と鋭いのね」


「ナ、ナターシャ?」

 フレデリカは、何を言っているかよくわからない幼い妹に、眉根を寄せた。

 フレデリカは妹が寝ぼけているのかと思い、近付いて行った。


「その子に近づいてはいけません!」


 パティはナターシャのすぐ傍まで行って、その肩に触れようとしたフレデリカに向かって叫んだ。

 それと同時に、ナターシャは背中に腕を回し、小ぶりの剣を取り出し、突如、剣を振り上げた。フレデリカは咄嗟に腕を前に出したので、肘がすぱっと切れ、血が滴った。


「きゃあ!」

「フレデリカ様!」

 倒れたフレデリカに駆け寄り、パティは彼女を支える。

 

「もう少し大人しくしているつもりだったのに、あなたが悪いのよ」


 小さな少女はぺろっと舌を出し、片手に剣を持ち、腕を伸ばして構えた。

 ナターシャの目は、黒い瞳の中に赤が少し、浮かんでいた。彼女は出会った時には茶色の瞳をしていた。


「違う……ナターシャじゃない。あの子はあんな目じゃない!」

 パティに支えられながら腕を押さえ、フレデリカは見たことのない化け物を見るような目をし、ナターシャに向かって叫んだ。


「煩いお姉様ですね。ええ、そう。私ね、生まれ変わったの。あの人が、そうしてくれた」

「あの人って、誰ですか?」

 パティは恐ろしさに震えながら、ナターシャに問う。


 ナターシャは愛らしく首を傾けた。

「言わないわ。天使って思ったより鬱陶しいのね。アルタイア王子以外は要らないから、もういい」

 ナターシャは後ずさったパティたちを赤い瞳で見た後に、

「死んで――」

と抑揚のない声で言った。

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