4 パティの決意
夕刻、アルはようやくスラナ村に到着した。
馬車の後方に乗せた天使は、結局一度も目を覚ますことはなかった。
スラナは大きな村ではないが、女たちの入れる刺繍は各国でも知られており、メイクール国の誇れる技術だった。メイクール国の王族の着る大抵の服にも、スラナの女たちの入れた刺繍が施されていた。
スラナ村は王都から近いこともあり、アルも度々訪れていた。
「アル様、旅の無事を祈っています」
村人の一人がアルに親しげに話しかけた。
アルは馬車を村の入り口に止め、振り返り、にこやかに、有難う、と言った。
国民に愛されているアルの周囲には自然と人が集まって来る。それはよくある光景だった。
「いよいよ旅に出られたのですね。あなたがいないと、寂しくなります」
「アル様、今日はうちに泊まっていって。ベッドカバーの刺繍を新調したのよ」
周囲に集まった内の一人、小さな女の子がアルの腕を引っ張った。アルは屈み、優しい瞳を向けた。
「ああ、そうしよう。ミーナはいつも元気で、僕まで嬉しくなるよ」
小さな子の頭にぽんぽんと触れると、少女は嬉しそうに笑った。アルはミーナに引っ張られるようにして、彼女の両親が営む宿屋に到着した。
「これはアルタイア王子様。まあ、少し見ない間にご立派になられて!」
ミーナの母親である女将が大きな声で言った。
「女将も元気そうで何よりだ。今夜は泊まらせてもらおう。よろしく頼むよ。着くなり何だが、もう一つ、部屋を用意して欲しい」
「あら、お連れの方でもいらっしゃるんですか?」
「実は馬車に天使を乗せているんだが――」
「天使!」
と女将はまた大きな声を上げた。
アルは馬車を宿屋の前に付け、天使の少女を宿屋の二階に運んだ。運ぶ最中でさえ、少女はぐっすりと眠りこけていた。
これは明日の朝まで起きそうにないな、とアルは思った。
しかし宿屋のベッドにそうっ彼女を降ろした時、突如、天使はがばりと起き上り、瞳を開き、息がかかるほど間近まで顔を近づけたのだ。
「……セルリアン、様。勝手なことをして、申し訳ございません……だけれど、わたし、どうしても――」
少女は瞳を薄く開いていたが、寝ぼけていて、言葉もよく聞き取れなかった。
その寝ぼけ
天使は曖昧な口調でそういうと、そのままベッドに横になり、再び寝入ってしまった。
呆然とすると同時、アルの心は温かくなり、ふ、と口元を緩めていた。
翌朝、まだ陽も昇り切らない内に、アルは宿屋を後にした。のんびりした旅ではないが、それほど出発を急いだのには理由があった。
早くあの天使の傍から離れようと思ったのだ。これ以上、あの少女に関われば、なぜか離れられなくなるような気がした。
朝日が昇り、充分に時間が経った頃、パティは目を覚ました。
パティは大きな伸びをしてベッドに腰かけ、目を擦った後、ようやく知らない場所にいることに気づいた。
天世界には夜がない。そのため、眠る時間も皆それぞれ違う。好きな時に起きて、好きな時に眠る。気儘な暮らしをしてきたため、パティには十分に睡眠を取る癖がついていた。
「ここ――どこでしょう?」
パティは見慣れない小さな部屋を見回した。
「わたし、地の神バグーラさまに地上に降ろしていただいて――」
パティは眠る前の記憶を辿った。
(では、ここは地上!)
パティは確かめようと、慌てて窓を開けた。
そこは天世界で見る光景とはまるで違っていた。
窓の下には芝生が広がり、草花がちらほらと生え、一人の女性が洗濯物を物干し竿に干していた。
ようやく人間の住む地上に来られたのだ。あれほど夢見た世界に、今、いる。そう思うだけでパティは興奮し、胸が高鳴った。
パティは目を閉じ、手を合わせ、指を絡めて祈った。地の神バグーラに改めて感謝をした。
扉を開けて階段を降りると小さな女の子がいた。
「こんにちは。天使のお姉さん」
ミーナは愛らしい笑顔で言った。
「こんにちは。まあ、小さくて可愛い人間ですね」
そう言うと、ミーナはにっこりと笑んだ。
「有難う。お姉さんも綺麗よ。でもその言い方、まるで人間が珍しいみたい」
「ええ、とても珍しいです。わたし、つい昨日、天世界から降りたばかりでして。あなたが初めてお会いする人間です」
パティの言葉にミーナは頭を振った。
「そうじゃないよ。だって昨日、アル様があなたを運んでいたもの」
「アル様?」
とパティが訊ねたところで、奥から女将がやって来た。
「あら、やっと起きたのかい。天使って、随分とのんびりしているんだねえ」
洗濯物を干し終えた女将は、食堂にいた天使に言った。嫌味を言った訳ではなく、さらっと思っていることを言っただけだった。
「わたし、パティと言います。こちらの家主様ですね」
パティは丁寧に頭を下げ、きらきらとした瞳で言った。
再び現れた人間に、パティは興味深々に顔を近づけた。
「……なんだい?」
パティはじっと女将の顔を見ていた。
女将はパティの幼いが整った顔に少々緊張した。
天使の膚は雪のように白く、瞳は大きく七色に輝いていた。
「人間は醜い者だって天世界では言われていますけれど、そうでもないです。でも小さな人間より、お顔は少し汚れています」
パティは、女将の顔の皺や染み等を見て、年頃の女性に恐ろしいことを口にした。
「失礼な子だね!」
女将はパティから慌てて離れた。
「働き詰めだからね。顔だって老けていくさ。けど、あんたを助けたアルタイア様は、そりゃあ、お美しく気品溢れる方だよ」
「助けた? わたしを、アルタイアという方は助けたのですか?」
訊ねるパティに、女将は憮然とした。
「それも覚えてないのかい。まったく、礼儀知らずの上に、恩知らずな子だよ」
小首を傾げるパティに、女将は苛々と言った。
「アルタイア様は眠っているあんたをここまで運んで、世話賃まで出してくださったんだ。アルタイア様は馬車道であんたとぶつかったそうだよ。そのまま道端に放っておいたら、魔物に襲われたり、馬車に轢かれて死んでいたかもしれない」
女将は言いながら、どいてどいて、と強引にパティを押しのけ、食事の支度をする。
スープやパンの準備をてきぱきとする女将を、パティは後ろから黙って見ていた。
急に大人しくなった天使が女将は何だか気になり、彼女の方をちらと見やった。
パティは俯いて何事が考え込んでいた。
「アルタイア――」
少し経つと、パティは顔を上げ、胸の前で手を絡ませ、祈るような格好で静かに呟く。さっきまで煩いほどに口を開いていた娘は、別人のように静かだった。
「あの、アルタイアとは、どのような方なのですか?」
「アルタイア様か、アル様とお言いよ」
口調はきつかったが、女将は怒ってなどいなかった。女将は、パティがアルに感謝し、素直に興味を持ったと感じていた。
「アルタイア様はね、心穏やかで利発な、メイクール国の王子様だよ。蜂蜜色の髪と瞳をした、美しくお優しいお方さ」
「蜂蜜色の瞳――」
パティは微かに覚えていた。
そうだ、それは美しい瞳だった。優しく、甘やかな瞳の奥に、静かな、悲しみを映したような光があった。
(どうしてだろう)
ほんの一瞬であったのに、その色が深く心に残っていた。寝ぼけていたのに、記憶に刻まれるほどに。
「アルタイア様はどこにいるのですか?」
パティは、女将が言ったようにアルタイア様と言ったが、どうもその呼び方はしっくりこなかった。
「さあねえ。王子様は旅に出られたんだ。メイクール国の風習で、世界各国を巡るんだよ。今どこにいるかなんて、分からないねえ」
パティはそれを聞いて、黙った。
「王都に行ってみたらどうだい?」
しゅんとなったパティが何だか可哀そうに思え、女将は優しく言う。
「王都を進んだ先、お城にいる人なら、王子様の行き先を知っているだろうさ。それに、王都はここよりもずっと華やかだし、きっと楽しめるよ」
パティは心地良い胸の高鳴りを覚えた。
それはさっきまで感じていた人間世界への憧れや興味とは全く異質の感情だった。
「お城に行けば、分かるのですね」
ほとんど意識もなく、パティは声を紡いだ。
パティの瞳は淡い夢を見ているように、その七色の瞳はただ一人の人間の王子の姿を追っていたのだ。
「わたし、アルタイア様……、そう、アルがどこへ行ったのか知りたい。アルに会いたい――」
アル、そうだ、彼のことはアルと呼ぶのがしっくりくる、とパティは思った。
透き通るような天使の声は軽やかにパティの唇を滑り落ちた。
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