「苦くて、甘い…」

「パ…お父さん」


 仕事に出かける直前、娘のアイが私を呼び止めた。

アイが小学校中学年に進級して以降、早朝からの夜まで仕事尽くしであったため娘とこうして顔を合わせるのは久しい気がした。


「どうした。アイ」


威厳ある父としての役を被って私は娘に問いかけた。

早朝の寒さに堪えようと鼓動が高鳴り、身体が徐々に熱を帯びていく。


「今日も…いつもと同じなの?」

「ああ。同じだ」


私は変わらない。変わってはいけない。

あの日の誓いを忘れてはいけない。


「行ってくる」


コートの影で左胸を掴みながら私は家を後にした。

玄関の扉が閉まる直前「気をつけてね…」と残した娘の声が閑散とした朝に溶けていったが、


「‥‥」


…拙い父親は舌を噛み、それを聞かなかった事にしてしまった。






「——————嬢ちゃん、今日が何の日か知ってるかい」


「2月14日。本日はひとし様と各国首脳を交えたのAI技術省視察が控えておりますが…」


「そんなつまらない事よりもバレンタインだよ、バレンタイン。

意中の奴にチョコ渡す…とか、そういうのは無いわけ?」


「・・・スミマセン。ヨク分カリマセン」


金髪の淑女———シーラさんと高校・大学時代の友人である咫狸あたりの会話を遠くから眺めながら私は妻のことを思い出していた…。




『…———秋人あきとさん。チョコです!』


 電車内、街中、…そして今年は大学の講義室。

妻———春日はるひからのバレンタインは唐突で場所・時間を問わずに渡されるチョコに私は毎度驚かされていた。


「春日さん、どうして毎回唐突なんですか?」


大学三年。三回目のバレンタインの際に尋ねると彼女はこう答えた。


「インパクト、ですかね。少しでも印象を与えたくて…。

それに早く渡さないと…私、いつ倒れちゃうか分かりませんから…ハハハ」


温暖化によって寒暖差の激しくなった二月。

この時期になると彼女は決まって体調を崩してしまう…。


「春日さん…」


消え入りそうな笑い方をする彼女が見ていられなくて私は彼女を抱きしめてしまっていた。


「え、あ…秋人さん?」


「最初に貰った焦げたチョコの味も、

 去年貰った歯が痛くなるくらい甘すぎるチョコの味も、

 僕は全部覚えています」


「えっと。ごめん…なさい?」


「そうじゃない」と僕は首を振る。


「つまり、その…僕らのバレンタインっていうのは気持ちの送り合いだと思うんです。だから、もし君が倒れたその時は…僕がチョコを届けに行くよ。その代わり…」


「…そのかわり?」


「春になったら…元気な君からチョコを貰いたい、です」



貰うこと、返すこと。

そのどちらもあるというのならば順番が変わろうと問題はない。

時間をかけて、悩んで、気持ちを込めて、勇気を出して、二人で笑い合うこと。


僕らのバレンタインとは、そういうものであっても良いはずだから…。






「(…おい、アキトー。ラブとロマンスは場所を考えるもんだぜ)」


咫狸あたり。もう遅いよ。

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