エピローグ③

天音あまね春火はるひ

名前だけがクラス名簿に刻まれた彼女が桔梗が丘高校に登校したことは一度もない。四月当初、そんな彼女を不思議に思う生徒は数名いたが、校外学習を終え、夏を迎える頃になると彼女を気に掛ける者などほとんどどいなくなってしまった。


 天音母の話では、彼女が学校に来ない理由はその特異な体質によるもので原因は成長期に伴うホルモンの特質化が疑われているが、治療法は未だ発見されてはいない。


異変が始まったのは彼女が小学校高学年の頃。

とつぜんの体調不良や病気を患うことが多くなり、中学校に入ってからは病院と自宅で過ごすことが日常であったという。それでも彼女は高校への入学を果たすため懸命に勉学へ励み、何とか試験を突破し、入学式当日を迎えた。


目標の達成と待ち望んでいた夢の学校生活。

真新しい制服を身に纏い、鏡の前で何度も身だしなみを整えて「いってきます」と言った彼女は意気揚々と玄関の扉に手を掛け、未来への一歩を踏み出したのである。



…そして、家を飛び出してから数秒後に…彼女は倒れていた。



大事には至らなかったが再び病院と自宅で療養する日々が続いた結果、自室に閉じ籠るようになったのだという。


「春火さんのこと。お母様はどのように考えているのですか?」

「私? そうね…いつかあの子が自分から出てくるまで待つしかないわね。

 私にできることなんて少ないのだから…」


深みのある黒髪を片耳に掛けながら答えると天音母は二階を見上げた。

気を遣って、言葉を掛けて…どうにかして娘を取り戻そうした母親の顔は夕焼けのように寂しかった。


「…では、すみませんが今日も失礼します」

「ええ。——————あ、ちょっと待って」


鞄を肩に掛けながら玄関に向かった所で天音母は私を呼び留め、キッチンに向かうと先日私が渡した授業記録を持ってきた。


「はい、これ。今どき直筆のノートなんて珍しいわね」

「ええ。まぁ、祖父の言いつけでして…」


多くの生徒は小学時からタブレットと電子ペンで授業記録をとっているが、私は違った。自身の覚えが悪いためでもあるが直筆で字を書くという行為は我が祖父に対する尊敬の表れであった。


『字つづらぬものにわれかず』


これは前総務大臣を務めた祖父の格言である。

この「吾」という部分は悟りや語りといったものを差すらしいが、祖父亡き今となっても私はこの格言を理解できずにいた。


「深いわねぇ」


…ところがだ。これを聞いた天音母はかなり意味深な感想を述べたのである。

俗物的な者が使う上辺だけのものではなく、確たる何かを見たような天音母の言葉に私は思わず、


「お母様には分かるのですか?」


と熱烈に尋ねていた。

尊敬する祖父への新たな理解は、さながらグループファンが推しの隠された人生背景バックボーンを知るようなもので、その興奮は私の薄い理性を簡単に溶かしてしまった。


そして、そんな私に対する天音母の反応は


「♪」


…さも息子の初恋相手を知ったような愉悦と悪戯いたずら心満載の笑みを天音母は浮かべていた。


「そうね~。分からないことも無いのだけど…一つ条件があるわ」


「しまった…」と後悔した時にはもう遅く、天音母はしたり・・・顔を浮かべ、囁くように条件を告げた。


「娘の話し相手になってくれないかしら」

「は…話し相手ですか?」


突然のラブロマンス的な流れを前に私は知らず内に鞄を落としていた。

このような古いドラマや映画でしか見たことがない展開は単なる演出的なフィックションの一つであり、現実に決して起こり得ないような状況だと信じていたからだ。


「————。」


…天音母の発言を前に私はただ頭を悩ませるだけであったが、一方の天音母は鞄を拾い上げて「はいはい、落ちましたよ~」と介護的な要領で私の手に鞄を握らせていた。


「もちろん方法は任せるわ。部屋の扉越しに話しても良いし、実際に言葉を交わさなくても―――あ。それこそ、このノートを使っても良いかもしれないわね。あとは‥‥」


具体例を挙げながら話し続ける天音母は、まるで理想の男性像を語り始めた女生徒のように和気としていた。


「分かりましたっ! とにかく、方法はどうであれ〝娘様に他人とのコミュニケーションをとって欲しい〟という事でしょうか?」


これは止めなくてはならない‥と私は天音母の目的を言葉にするが、まるで雲のような天音母の流れを止めることなど私には不可能な話であった。


「ええ、その通りよ。さすがは秋人君ね…話が早いわ・・・・・~」


そう言って笑顔でノートを渡す天音母を前に私は一つ悟った。



この人には決して敵わない…という事を。


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