二、木霊インフルエンサー

 ここ最近続いた雨でよれて凸凹になったポスターの中の女が俺を見ていた。



 元々薄い石版印刷の色彩が水による劣化で更にぼやけ、霧の中の幻影のようだ。

 みかんソーダのオレンジ色の瓶を手にした女はうつむき気味に微笑んでいる。夏の新商品ならもっと明るいモデルを選べばいいのに、と思う。


「誰かに似ているんです?」

 助手の慧雲えうんが横から現れ、ポスターと俺を見比べて白い頬に微笑を浮かべた。

「忘れた。広告科はこんなもんも収集してんだな」


 怪異運用技術開発局の一画にしては禍々しさのない明るい室内には、元の壁紙が見えなくなるほど様々なポスターが並べられている。

 映画の再上映、煙草、ビール、市民プール。一見しただけではよくあるポスターだが、おそらく印刷の工程に付喪神の一種が使われているのだろう。


「蒐集家の集まりですからね。研究に託けて古今東西の広告を搔き集めるのに躍起になってますよ。字の如く、まるで鬼のようにね」

「冗談に妖怪を使うはやめろって言ってんだろ」



 俺は広告の見過ぎか、眩んできた目をこすって廊下に出た。


 天井とリノリウムの床にくぐもった声が、手毬をぶつけ合うように反響している。

「ここからは科長の許可なく立ち入ることを禁止します……ここからは科長の……」

 男とも女ともつかない声に視線をあげると、壁の隅に取り付けられた直方体の鉄の籠に汚れた犬のような生き物がいた。


山彦やまびこか」

 慧雲が首肯を返す。

「広告に重宝してたんですけどね。一匹に決まり文句を言わせるだけで各地の山彦が一斉に同じ音声を再生してくれるんですから」

一時期無声映画トーキーの弁士代わりもやってたよな」

「安上がりですしね」

「俺は味気なくて好きじゃなかったけどな」


 山彦は狭い檻の中で自分の尾を追いかけながら回転している。

「職を奪われた活動弁士の抗議もありましたが、何よりサトリに音源を傍受させて公開中の映画の内容を売り捌く海賊版が出回りまして。著作権の問題で取り止めになりました」

「結局利権絡みか。世知辛え話だ」

「資本主義ですから」



 突き当たった堅牢な扉の中央には“録音器具の持込禁止”の字が彫り抜かれていた。

今日贄川にえかわ局長に確認していただくのが、山彦に代わる広告用の妖怪だそうです。既に政府で試験的に運用されているそうなんですが……」


 慧雲の声を遮るようにけたたましく扉が開き、黒い着物を纏った老人が飛び出してきた。

「あんた、ここの局長か?」

 老人の枯れ枝に似た腕が思いの外強い力で俺に縋りついてくる。

「悪いことは言わない。あれを使うのはやめておけ。あれは妖怪どころじゃないぞ、もっと恐ろしい……」


 絶句する俺に代わって慧雲がそっと老人を振りほどいたとき、再び鉄の扉が開き、背広姿の職員が現れた。

「先生、後は我々がお話ししますから」



 職員は老人をいなし、俺たちを中に招いて素早く扉を閉じた。

「あの爺さんは?」

「高野山の僧侶だそうです」

「坊さんが何でまた?」

 答えはなく、防音加工された部屋に沈黙だけが染み渡った。



 部屋の中央の台にはいくつもの蓄音機が並んでいる。

 百合の花のように開いた真鍮の部分を覗き込むと、俺の顔が間抜けに歪んで映った。

「レコードも針もついてねえな」

「はい、この蓄音機に使っている怪異は木霊こだまです」


 職員が頷いて、蓄音機に触れる。

「山彦と違って木霊は実態が確認されていないのでは?」

 慧雲の問いに職員がゼンマイを巻きながら答えた。

「はい、未だに視認はできていません。音エネルギーのようなものだと仮定して運用しています。局長には既に実用化の許可願に判を押していただいていますが」

 俺は慧雲の視線から身を逸らす。

「押したかもしれねえ。忙しかったから忘れてたかもな……」



 蓄音機からぶつりと何かを切るような雑音が響き、ゆっくりと音声が流れ出した。

「国家安全、富国強兵、日本のより良い未来のため皿屋敷 菊夫に清き一票を……」

 よく通る女の声に呼応するように、部屋中の蓄音機が一斉に喋り出す。

「選挙の街頭宣伝か?」

「この間当選した衆議院の議院ですね」


 雑音が二、三度混じり、音声が貫禄のある初老の男のものに変わった。

「我が国の死刑制度は西欧から度々野蛮であると非難されておりますが、抑止力としては依然……」

 職員がさっと蓄音機に飛び掛かり、ゼンマイを抑えた。喉元を抑えられたように全ての蓄音機が沈黙する。

「今のは忘れてください」

 職員が片手で額の汗を拭って俺たちを見た。俺と慧雲は同時に肩をすくめる。



 職員は蓄音機の埃をハンカチで拭い、声を落として話し出した。

「木霊による音声の再現は、宣伝広告だけでなく離れた場所にいる者たちの会談にも有効ということで国会に試験的に導入されたんです。今のがその音声です。サトリによる傍受も起こらず、問題はないと判断されたのですが……」

 職員はそこで口を噤んだ。


「歯切れの悪い言い方だな」

 ネクタイを緩めながら職員は溜息をついた。

「先程話していた政治家の声が誰のものかわからないんです」

 俺は片方の眉を吊り上げた。

「議論に参加している最中は誰も違和感を持たなかったのですが、その後に『そういえば先程の発言者は』と聞いたとき、誰も手を挙げなかったのです」

「発言者がしらを切っているのでは?」

 慧雲が顎に手をやって聞いた。職員は首を振る。


「それから最初の街宣もです。富国強兵、国家安全という部分はウグイス嬢の音声を録音した際の台本にはないものでした。声も本人のものと少々違うとか……」

 沈黙の中でゼンマイの唸る音だけが響いた。



「そして、街宣車の音声を聞いて飛び込んできたのが先程の御老人です。あの声は誰のものだと」

 俺はものすごい力で俺にすがりついてきた僧衣の老人の表情を思い出す。

「あれは自分が出家する前日夢枕に立った仏の声だ、と言ってきたんですよ」

 職員は眉根を寄せてハンカチを握りしめた。

 俺と慧雲は互いに顔を見合わせた。



“録音器具の持込禁止”の文字を再び見ながら部屋を出ると、汚れた犬に似た妖怪は籠の中で転がって寝息を立てている。呑気なものだ。


 廊下を抜け、ポスターが張り巡らされた部屋に戻ると、職員たちの喧騒がさざ波のように聞こえ、俺はようやく息をついた。

「つまりあれか? 訳のわかんねえもんが選挙だ議会だに介入して、人間たちに指図するってか」

 慧雲は机に置かれた本を手に取って眺めている。

 本の表紙に描かれた金色の雲の前に跪く坊主を見つめ、慧雲は苦笑した。


「当たり障りのねえ広告にだけ使えって言うしかねえな」

「完全に廃止しろとは仰らないのですね」

 俺は卓上の灰皿を引き寄せて煙草に火をつける。

「そんなこと言ったらまた天の声が何言うかわからねえ。怪異運用技術研究局の局長を変えろって言うかもな」


 煙を吐きながら俺は思う。

 芸術、娯楽施設、新発売の飲食物。

 一見当たり障りのないものの宣伝広告にも恣意性は含まれる。行間に敷き詰められた見えない何かの天啓に導かれた民衆たちの暮らしはどうなるのだろう。


「こんな危険性なんざ話したところで誇大妄想だと思われるだけだろうな」

 慧雲は本を机に置いて、壁のポスターに目を向けた。

「言わぬが花ですよ。同じ画像や言葉を見たって、想起するものはひとそれぞれです。万人が受け取ることをどうこうしようなんか出来っこないですから」


 ポスターの中で物憂げな笑みを浮かべる女を見て、慧雲は小さく笑った。

「局長に何かと融通してくれる事務の女の子、いるでしょう? 彼女には局長がバツイチってことは黙っていますよ」


 慧雲は片目を瞑る。俺は舌打ちして目を逸らした。


 かつて少しの間だけ一緒に暮らした女がふとしたときに見せた表情にそっくりな作り笑いを浮かべる女と、毒々しいオレンジ色のみかんソーダから逃げるように。

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