第8話

車が止まって、少しうるさかった音が消える。

「やっと着いたかぁ~……」

思わず口に出てしまう。

北海道の育成場から小林の近くの育成場に連れて来られた時は丸一日以上かかったんだもんね。

今回はその逆だから、やっぱり丸一日以上。

狭い車の中だから寝るったって寝られるもんじゃないし、じっとしてるのは少し退屈。

少し待たされて、やっと車から降ろされる。


「頑張って来いよ」って送り出されたのに、まだなんにも頑張れてない気がして。

これでまぶしいおじさんやお姉さんにどんな顔したらいいんだろう……。

そんな事を思っているうちに、まぶしいおじさん達がやってきた。


厩舎の中に連れて行かれて。

お部屋もらえるのかなと思ったら、少しここにいてって。

そうしてるうちに、まぶしいおじさん達はわたしの腫れた方の脚をなでたり機械を当てたりしてる。

「んー……」

まぶしいおじさんはなんだか難しい顔をしてる。

そんなにひどいのかな?

なんだか不安になってきた。

大したことないんだけどな。


「湿布貼っといて」

しばらくして、まぶしいおじさんは近くにいた女の人に声をかけた。

そうして女の人は湿布を腫れてる脚に貼ってくれる。

「良くなろうね。頑張ろうね」って言いながら。

わたしは軽く頷きながら、少しホッとしてた。

大きなケガだったらどうしようっては思わなかったけどね。


お姉さんがニコニコしながら注射してきたら嫌だなあって。

前にここにいた時は走った後にお姉さんによく注射されてたから。

注射が嫌いなんじゃないし、お姉さんも嫌いじゃないんだけど。

なんだかね。


お部屋をもらって、ようやくひと息つく。

「厄介なケガやのうてホンマに良かったやで。湿布だけやったら大したことないやで」

壁のおじさんの声だ。いつ来たんだろう。

「ワイくらいになればチョチョイのチョイで来られるんやで。鎧武者さんもそのうち来る言うてたやで」

「その、チョチョイのチョイってのがよくわからないんだけど」

「まっとうな手段やから安心やで。鎧武者さんはまたヒッチハイクや言うてたからいつ着くかわからんやで」

ここは気にしちゃいけないとこなんだろうなあ……。

「それはそうと、わたしはいつまでここにいることになるか、おじさん何か聞いてない?」

少し焦ってるのが自分でもわかる。

『みんな』が期待してる大きなレースに間に合わなかったらどうしよう。

「脚が治って体力もつけば戻れるやで。その辺はまぶしいおじさんと先生にお任せやで」

「そっかぁ……」

「心配せんでも先生がレースのことは考えてくれてるやで。せやからまずはその脚を治すことやで」

「うん、わかった」

腫れたままじゃ誰が見ても不安だろうし、治さなきゃ多分小林には戻れないだろうし。

痛くないから大したことないのはわかってても、走れないのはきついなぁ。

「まあ、運動不足にならん程度には走らせると思うやで。それもあってここに来てるやで」

それならいいかな。


「さて、くぅの弟の様子でも見に行くとするやで。すぐそこの馬房にいるやで」

「弟が来てるの?もう?」

「くぅもこのくらいには来てたやで。洗い場のそばやからそのうち顔も合わせるはずやで」

「ねね、弟ってどんな感じ?わんぱくだって聞いてたけど」

「最近じゃすっかり大人しくなったやで。寝違えてもそのまま寝てるくらい大物やで」

おじさん、半分呆れてるのが声でわかる。

「りくの弟がやんちゃ過ぎてずいぶんと振り回されてたやで。あれで色々思うとこがあったみたいやで」

「りくの弟が?見てみたかったなぁ」

「そこら辺の馬房にいるはずやで。もっとも、りくとはえらい違ってて、なんか変なヤツやで」

「それはそれで見てみたい気がするな」

「そのうち見ることもある気がするやで」

それだけ言って、おじさんの気配が消える。

まったく、言うだけ言って消えちゃうのはなんとかしてほしいなあ……。


しばらく経って、壁のおじさんの言う『運動不足にならない程度』の運動に出された。

手抜きして走るのよりもゆっくりだったけど、まるで動かないのも退屈だし。

これくらいなら脚もなんともない。

もちろん、それまでの間も女の人が毎日湿布を取り替えてくれてた。

「早く良くなろうね」って、口に出なくても言ってくれてるのが伝わってくる。

レースに出たら、この人のためにも頑張らなくちゃって思っちゃうよね。

運動が終わればシャワーで体を洗ってもらえる。

大して汗もかいてないけど、洗ってもらうとさっぱりするからね。

洗い場のすぐ横が、わたしが前に暮らしてた馬房。

今はどんな仔がいるんだろ。

『カメラ』もそのままなのかなぁ。

洗ってもらいながら、そんな事を考えてた。


馬房に戻ろうとしたら、壁のおじさんの声がした。

「ほれ茂吉、お姉ちゃんが通るやで」

「え?アレ?アレがお姉ちゃん?」

アレってなんだよもう。

今度馬場で見かけたらシメとかないと……。

てか、おじさんもきっちりしつけといてほしいなぁ。


「まあまあ、まだ1歳の子供やで。くぅも去年は大して変わらんかったやで」

馬房に戻ったら、おじさんが笑いながら話しかけて来た。

「わたしはもうちょっと大人だと思ってたんだけどなぁ」

「そう思ってたのは自分だけやで。だいたいみんな年相応に子供なもんやで」

「そりゃおじさんからしたら子供だけどさぁ……」

なんか納得がいかない。こういう時、お母さんなら蹴っ飛ばしてるとこなのかな。

「くぅ殿は若いのによく出来たお方でござる。そういう事は気にしないのが一番でござるよ」

今度は鎧武者さんの声だ。

「馬運車をヒッチハイクして一安心と眠っていたら、琵琶湖まで連れて行かれてたでござる。やっとの思いで蝦夷地へ行く馬運車を見つけて乗り込んだら札幌止まりで、そこからはバスに乗って来たでござるよ」

「えらい長旅やで。ワイみたいにチョチョイのチョイで来たらええんやで」

「や、それでは拙者の面目が立ち申さぬでござる」

……このやり取り、何回聞かされるんだろ。

なんだか呆れてしまって、水桶に口をつける。

でも、わかってるんだ。

おじさんたちはわたしがイライラしないようにしてるんだって。

だから強いことは言えない。

「まあ、茂吉にはよう言うておくやで。そろそろ大人になってもらわんと困るやで」

「よく言っておいてね。今度アレなんて言ったらシメるって」

「おおこわ、誰に似たんや。シュシュもそない怖いことよう言わんやで」

それには答えないでおく。

おじさんには教えたくないかなー……。


晩ご飯とおやつを食べ終えると明かりが消える。

そうすると自然と眠くなる。

眼をつぶっていると、いつの間にか夢を見てた。


茂吉がいた馬房にわたしが入る前。

わたしはお向かいの馬房に入ってた。

あの馬房には栗毛のお姉さんが暮らしてた。

晩ご飯の後にいつもいろんなお話をしてもらってた。

「レースに勝つには周りの仔たちに片っ端から威嚇してやることよ」

お姉さんはニッコニコしながらそんな事を言う。

「てめえらちょっかい出して来たらタダじゃおかねぇ!って怖い顔して言ってやるの」

「お姉さん、それで勝てるの?」

わたしが聞くと、お姉さんは少し考え込んだ顔をする。

「うーん……」

それで勝てるならわたしもやってみるんだけど。

「効き目ないこともあったわね、うん」

そう言ってお姉さんは笑う。

勝てないならやらないでおこうかなと思っていたら、お姉さんが思い出したように言い出した。

「あ、でもね。効き目ある時はすごいんだから」

「そうなんですか?」

「うんうん。2頭もゲートから逃げ出したことがあってね。あれは気分良かったなぁ」

お姉さんはそう言って、少し遠い目をする。

お姉さんはもうすぐ競馬場じゃないどこかに行くことになるって言ってた。

それがどこかわからないけど、もし何かあったらまた威嚇してやるんだって。

「わたしはそうやってママから教わってきたからさ。これからだってそうするの」

「そうなんですねぇ」

わたしは相槌を打つしかなかった。

ママから教わったことかぁ。

わたしだと何だったかな。ご飯の食べ方と毛づくろいの仕方くらいかな。

それでご飯食べるのは誰にも負けないようになったけど。

それだけじゃだめなのかなぁ……。


夢から醒めたら、まだ周りは真っ暗。

壁のおじさんも鎧武者さんも気配がない。

まだ脚は少し腫れてる。

女の人が貼ってくれた湿布がなんだか目につく。

……早く良くなろうね、だよね。

そう思って、わたしはまた目を閉じる。

明日になったら、治ってないかなあ……。

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