第5話
「……ちゃん、起きて~」
うーん、まだ寝てたいよ……。
「くぅちゃん、起きて~。起きてよ~」
お姉さんがわたしを起こそうとしてる。
でも、まだ眠いし寝ていたい。
「もー、起きて~」
お姉さんはそう言いながらわたしのお尻をぺちぺちと叩く。
そして体をゆさゆさと揺さぶってくる。
……お姉さんごめん、全然効き目ない。
せめてあと5分は寝てたいのに……。
「くぅちゃん、そろそろ起きないとお姉さん困ってるよ……」
後ろの扉の向こうで、幼馴染のりくくんが声を出す。
りくくんも出られなくて困ってるみたい。
しょうがないなあ。
お腹も空いたし、起きなきゃね……。
「ようやっと起きたやで。いくら稽古がなくたってお寝坊さんは良くないやで」
壁のおじさんの声がする。
「あ……」
夢だった。
お母さんと別れてすぐの頃のこと。
なんで今日思い出すかなぁ。
「もうすぐ厩務員さん来て支度するやで。きちんと目を覚ましておくんやで」
「うん、わかってる」
おじさんにそれだけ言って、窓の外を見る。
そんなに暑くならないといいなぁ。
ここと違って本場はなんだか暑い感じがする。
見に来る『みんな』だって暑いのは嫌だろうしさ……。
「あー、言うてへんかったか」
おじさんが言い忘れを思い出したような声で言う。
「ん?なに?」
「人間の間に流行ってる病気のせいで、『みんな』は今日来られんのやで。他の人間も入れんのやで」
「えー、じゃあ試験のときみたいな感じになるのかな?」
「そういうことやで。それが走りやすいのもいるかも知れんやで」
思い出した。
おじさんが言い忘れてたんじゃなくて、わたしが聞いてて忘れてたんだった。
「おじさん前に言ってたね。『みんな』が来られないって」
「せやったやで。ワイも自分で言うてたの忘れてたやで。それに『みんな』はカメラの向こうで見てくれてるやで」
「それなら、頑張らないわけにはいかないよね」
「それに、くぅのお姉ちゃんはまた同じとこから見てくれるやで」
「パドックの奥の木があるとこだよね。なんであそこにいるのかな。もっと近くで見てくれてもいいのに」
「お姉ちゃんにはお姉ちゃんの事情があるんやで。声は聞こえないかも知れんが、ちゃんと応援してくれる言うてたやで」
「……そっか」
誰もいないとこで走るより、誰かがいてくれたほうがいい。
それがお姉ちゃんならもっといいか。
でも、事情ってなんだろね。
そうしてるうちに厩務員さんがやってきた。
わたしの頭絡をつないでから、手際よく装備をつけてくれる。
口にハミが入って、気合も入る。
バンテージも巻いたしメンコもかぶったし、鼻の上に黒いもふもふしたのもつけた。
鞍は向こうに着いてからだから、なんだか落ち着かないけれど、とにかく準備完了。
馬房と廊下を仕切る棒が外される。
厩務員さんが引き綱を軽く引っ張って廊下に出る。
「さあ、行くよ」って合図。
それに合わせてわたしも廊下に出る。
「あ、くーちゃん行ってらっしゃい。頑張ってねー」
アジアちゃんが真っ先に声をかけてくれる。
「うん、行ってきます。勝ってくるからねー」
わたしも歩きながら返事する。
「本場の奴らに負けんじゃねーぞ」とか「ぜってー勝って来るんだぞー」とか。
厩舎のあちこちから声がかかる。
「はーい、頑張って来まーす!」
そう言ってるうちに厩舎から出て、そのまま曳かれて車に載せられる。
前にはもうほかの馬が乗り込んでる。
他の厩舎の馬かな、見たことあるようなないような……。
ううん、気にしたところでどうなるわけじゃないか。
前に走った時は同じ車に誰が乗ったかとか気にしなかったのに。
やっぱ、少し苛ついてるなあ……。
自分で気がつくぐらいだから、相当なんだろうな。
少しは大人しくしなくちゃ。
車が大井の競馬場に着く。
降ろされて、厩務員さんに連れられて。
向かった先は待機馬房って言うみたい。
前にも来てるけど、ここに入っても牧草もお水ももらえない。
ひんやりした風が来るのが助かるけど、外に出たら暑いのもわかってる。
「無事に着いたようやで。知ってるようにしばらくはここで一休みやで」
壁のおじさんの声だ。
「わかってる。でもおじさんはどうやって来たの?」
「ワイくらいになればチョチョイのチョイでこのくらい……ってのは冗談やが、まっとうな手段で来てるやで」
「まっとうでない手段ってのがよくわからないんだけど、ともかく普通に来たってことよね?」
「せやで。鎧武者さんもヒッチハイクで向かってるらしいやで。間に合うかどうかはわからんが」
おじさん、わたしが苛ついてるのわかっててこんなこと言ってる。
笑わせてリラックスさせたいんだよね。
「でもさ、おじさんはお母さんの牧場にいなきゃいけないんじゃないの?」
せっかくだから聞いてみる。
わたしがまだ小さかった頃、牧場でおじさんはわたしのお母さんとよく話をしてた。
話をしてるより、茶々を入れてお母さんに蹴られてる方が多かったけど。
「あっちにもおらなあかんのは確かやで。せやけどくぅのお姉ちゃんに頼まれたからなあ……」
わたしのお姉ちゃんに?
「お姉ちゃんって、どういうこと?」
「そのへんの話はいずれせなあかんやで。……お、厩務員さんと先生来たやで」
おじさんに言われた通り、先生と厩務員さんと騎手のひとがやってきた。
これからわたしの装備の仕上げ。
ゼッケンと鞍を背中に置いて、腹帯で締める。
わたしの中で段々と気合が入っていく。
「そろそろ出番やで。頑張ってくるんやで」
おじさんの声。きっと『みんな』の気持ちと一緒なんだろうな。
「わかった。きっちり勝ってくるから」
それだけ言うと、厩務員さんに曳かれて外に出る。
パドックに出ると、周りには人間が誰もいない。
おじさんから聞いてたけど、本当に誰もいないんだね。
この前走った試験の時みたいな感じ。
あの時と違って、今日がレースなのはわかってるし、一緒に歩いてる馬に勝たなきゃなのもわかってる。
でも、なんだかレースじゃない感じもしてしまう。
だめだな。ちゃんと気合入れないと。
思ったように自分でもうまく行かなくて、イライラがつのる。
おじさんが言ってた、小林で一番強い馬の弟がどの仔なのかもよくわからないし、見たことない仔も何頭かいるし。
この間一緒に走った仔たちはすぐわかったけど。
あいつらには負けない自信あるけど、他はどうかな。
歩きながらチラチラと観察してみる。
まだまだお子様なのもいれば、自信ありげなのもいる。
特に、あの白いもふもふを鼻につけた仔。
やけに自信満々で歩いてる。
あいつには負けたくないな。
……ううん、どの仔にだって負けたくない。
勝ちたい。
そう思ったら、気合がだんだん入ってきた。
この間みたいに『みんな』が見に来てくれてるならもっと気合入るんだけど、そうも言ってられない。
自分できちんと気合入れなくちゃ。
歩くのを止められて、背中に騎手のひとが乗る。
そうして少し歩く。
掲示板のとこまで来たら、遠くの方から声が聞こえる。
「くぅちゃん、がんばれー」
わたしにしか聞こえないくらい小さな声。
でも、はっきり聞こえた。
奥の木がいっぱいあるとこから。
……お姉ちゃんかな?
お姉ちゃん、見てて。
わたし、勝ってくるから。
コースに入ってみんなが集まるとこまでゆっくり走る。
そこで気がついた。
前とゲートの場所が違う。
走る距離も長くなるんだね。
アジアちゃんたちといっぱい走ってきたんだし、少し距離が伸びたってどうってことはない。
この間みたいにスタートで失敗しないようにしなくちゃ。
厩務員さんに曳かれてゲートに入る。
1頭飛ばして内側に白いもふもふつけたのが入った。
ゲートの中から目で威嚇する。
効き目あるかわかんないけど、やらないよりはずっといい。
そうしてるうちに周りのゲートに馬が入れられて行く。
厩務員さんがゲートから出た。いつでもスタート出来るよ。
騎手の人に合図して、まっすぐ前を見る。
ガシャン!
ゲートが開いて、まっすぐに飛び出す。
その途端、外側の仔が体を寄せてくる。
白いもふもふの仔もこっちにヨレてくる。
「邪魔!!」
一発大きな声で威嚇したけど、ちょっとぶつかったかな。
外の仔は先頭に立って気分良さそうに走ってる。
その後ろにはもっと外側から来たのがいて、わたしは3番目。
白いもふもふのはわたしの後ろにいるみたい。
外から抜いて行けばいいかなって左を見たら、すぐ横にもいるし。
どうすんのこれ。
前も外も行き場がないまま、前について行ってるだけ。
3コーナーが近づいて、前がペースを上げだした。
ついてくのは余裕だけど、どうやって抜けばいいんだろ。
そのままペースを上げてついて行って、もうすぐ4コーナーの出口。
先頭の仔と内側の柵の間に隙間が見える。
「ここ!ここ突っ込んでいい?」
騎手のひとに聞いたら、手綱とハミで「そこ入るよ」って合図が来た。
了解、行くよ!
手綱でグイッと顔を内側に向けられて、柵にぶつかるくらい狭い隙間に飛び込んでいく。
その瞬間、先頭の仔たちが視界の隅に消えてった。
そのままスピードを上げる。
外側から白いもふもふが来てるけど、追いつかれそうな気がしない。
騎手のひとも「行け」って合図だけ。
ゴールまで一直線に走り続ける。
途中で気を抜いて負けるのなんて嫌。
絶対に勝つんだ!
そう思いながら走ってたら、騎手のひとが「もういいよ」って。
ゴールも過ぎてた。
わたし、勝ったんだ……。
スピードを緩めて、ゆっくり止まる。
そうして厩務員さんが待ってる方に向かって行く。
また写真撮るんだろうな。
早く済ませてくれたらいいんだけど。
厩務員さんの目の前で止まって、引き綱をつけてもらう。
そうしてるうちに騎手のひとが鞍とゼッケンを取ってくれる。
さっぱりした気分になる。
「さっさと写真撮ってもらって帰ろう」って言ったけど、一緒に写真に撮られる人がなんだかモタモタしてる。
「早くしてもう!蹴るよ!」
そうやって威嚇してたら、厩務員さんがわたしと人間の間に距離を取る。
「これじゃ蹴られないじゃん、もー!」
そうやってブーブー文句言ってるうちに写真撮られちゃった。
気がついたときには人間もカメラもいなくなってるし!
あー、厩務員さん振りほどいてでも蹴っ飛ばしときゃ良かった……。
「まあまあ、あの人はくぅが生まれるきっかけの人やで。そない邪険にしたらいかんやで」
馬房に戻ったら壁のおじさんが苦笑いしながら教えてくれる。
「だったら頑張ったご褒美にニンジンくらいくれてもいいのになあ」
「どっかのタイミングで何かご褒美はあるやで。それを楽しみにしとくんやで」
「そっかぁ……」
なんか納得出来ないけど、納得するしかなさそう。
なんだかなぁ……。
帰りの車の中で、おじさんが教えてくれた。
近いうちに夏休みがもらえるって。
小林でいっぱい練習しなくてもいいみたい。
のんびり出来るかな?
おじさんが言ってたご褒美かな。
楽しみってあるんだね。
あー、早く夏休みにならないかなぁ……。
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