第4話

次のレースはすぐだから、速く走る練習はやらないみたい。

壁のおじさんが教えてくれた。

それでも毎日練習はある。

今日も大きな木のそばに全員集合。

……全員って言ってもわたしとアジアちゃん、そしてコロッケ。

3頭で馬場に入る。

わたしとアジアちゃんはもうすぐレースだけど、コロッケはどうなんだろ。

そんな事を考えながら後ろを見ると、コロッケはあちこち見ながら走ってる。

「よそ見してたらぶつかっちゃうよー」

アジアちゃんが声を掛ける。

「なんか面白そうなものないかなーって見てたんだ」

「ねぇねぇくーちゃん、面白そうなものってあったかなぁ」

「んー……」

アジアちゃんに言われて少し考える。

「なんかあるの~?」

後ろからコロッケが話しかけてくる。


「……ない!」

少し考えたけど、面白そうなものなんかない。

「ないんだってさー。ちゃんと前見て走ろうよー」

アジアちゃんがそう言ってる。

「ないのかぁ。何かあったほうが楽しく走れそうなのになあ」

「なんにもないから走るのに集中出来るんじゃん。さあ行くよ!」

それだけ言って、背中の人にペース上げたいって合図する。


でも、背中の人はいいよとは言ってくれなかった。

そのまま今日の練習はおしまい。

もうちょっと速く走れたら良かったんだけどな。

なんだか、消化不良。


「……この間みたいにビシッと追い切りやったらレースまでに疲れてまうやで。せやからそんな練習も早いとこせんのやで」

夜になって壁のおじさんが教えてくれる。

「もっと強くなりたいのにな。そのためだったら練習きつくたって構わないのに」

「戦いの前に準備は大事でござるな。体調を整えるのも大事な準備でござるよ」

今度は鎧武者さんが優しい声で言ってくれる。

「準備を万全にしておけば何があっても慌てずにいられるでござる。拙者は乗り越して押上まで連れて行かれたでござるが、路線図を読み込んであったんで慌てずに戻れたでござる」

「随分遠くまで連れてかれたもんやで。ついでにスカイツリーでも見てきたら良かったんやで」

「あいや、拙者高い所は苦手でござる」

おじさんと鎧武者さんはこうやってわたしにわからない話をしてることが多い。

でも、わたし知ってるんだ。

こういう話してるときって、わたしをリラックスさせようとしてるって。

わかってるんだよ。自分でも苛ついてるって。

早くレースになんないかなぁ。


何日か経った日の朝。

レースに出る馬たちが出かけていく。

「くーちゃん、行ってくるねー!」

アジアちゃんの声だ。

「頑張ってきてねー!」

わたしも返事をする。

「本場の奴らに負けんなよ」とか「一発気合入れて来いよー」とか、厩舎のあちこちから声がかかる。

こうしてお見送りしてもらって車に載せられて、大井まで出かけていくのがわたしたち小林の馬。

大井にいる馬たちはこんな移動がないからそれだけ楽なんだって、壁のおじさんが言ってたな。

「……負けられないよね」

思わず声に出してしまう。

「練習して力はつけられるが、一番大事なのはその気持ちなんやで。気持ちだけは自分で鍛えないとあかんのやで」

「うん、そこは大丈夫。『みんな』にいいとこ見せなくちゃだもん」

「くぅが頑張って走ってくれたら『みんな』は喜んでくれるやで。とはいえ、出る以上は勝ちたいもんやで」

「今はすごーく気合入ってるのが自分でもわかるから、どんな相手でも勝ちに行くよって思えるんだ」

「うんうん、これなら明日のレースも心配ないやで」

……明日!?

「ありゃ、日程は先生から聞いてへんかったのか。明日がレース本番やで」

そっかぁ……。


走りたいし、レースで勝ちたいのは本当で、そこの準備は出来てるつもりなんだけど。

そのほかにも準備がいることがひとつあるんだよね。

試験とこの間のレースに出たからわかってるんだけどさ。

……ってやってる場合じゃない。

馬房の前に吊るしてある牧草の玉にかぶりつく。

そして勢いをつけてお腹の中に牧草を送り込んで行く。

「相変わらずええ食いっぷりやで。お母さんに感謝せなあかんやで」

おじさんが感心したような声を出す。

わたしのお母さんもこんな感じだったな。

思い出した。

お母さんとまだ一緒にいた頃のこと。

ふたりで馬房の牧草を食べてただけなのに、牧場のお姉さんから「食べ過ぎだ」って言われてたんだった。

「お腹が空いたら食べるのは当たり前じゃない」ってお母さんは言いながら、馬房の上にあるカゴの中の牧草を床に落としながら食べてたな。

わたしはそこまで届かなかったけど、お母さんが落としてくれたのをひたすら食べてたんだ。

「いっぱい食べて大きくなるのよ。牧草はいくら食べたっていいんだからね」

お母さんはいつもそう言ってた。

わたしも食べるのは大好きだから、いつもたくさん食べてた。

おかげでどんなきつい練習も頑張れるんだから、やっぱりお母さんには感謝だね。

こうしてがっつり食べてるのだってレースの前の大事な準備だけど、たくさん食べられなきゃ出来ないことだもの。

だって……。


夕方になって、アジアちゃんが帰ってきた。

「くーちゃん、やったよ!わたし勝ったよ!!」

今までにないくらい大きな声が厩舎に響く。

大急ぎで牧草を飲み込んで、返事をする。

「おめでとー!良かったね!!」

それを合図に、厩舎じゅうから「おめでとー!!」と声がかかる。

「明日はくーちゃんの番だよ。頑張ってねー」

アジアちゃん、わたしの予定もちゃんと知ってた。

ということは、わたし聞いてて忘れてたのかな……。


夜になった。

周りの馬房には桶いっぱいのご飯が運ばれてくる。

おいしそうな匂いもして来る。

でも、わたしのところにはご飯が来ない。

牧草の玉も厩務員さんがどこかに持ってった。

だいぶ食べて減らしたんだけど、全部は食べきれなかったな。

さっき言ってた準備がいることってのがこれ。

レースの前の日は晩のご飯がない。

牧草もない。

お水は少し飲めるけど、あまり飲んだらいけないのはわかってる。

だから、夜中にお腹が空かないようにいっぱい食べておかなきゃいけなかったの。

前からわかってたらもっと準備出来てたんだけどなぁ……。


「レースに寝不足で行ったら勝てんやで。少しでも寝るんやで」

おじさんに言われなくてもわかってる。

起きてたってご飯も牧草もないし、他にやることもあるわけじゃないし。

目をぎゅっとつぶって、何も考えないようにする。

朝になれば車に乗って大井に行くんだし、そしたらレースまであっという間。

お腹の虫なんて気にしない……。


……お腹、空いたなぁ……。

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