第31話 お風呂の時間。

 シャワーを浴びていると、浴室の扉が開く音がした。……は?


「失礼、します」


 控えめな声。足音。背後に椅子を置いて、座る音。やけにそれがはっきりと聞こえた。


「ま、マジで入ってくるのか」

「う、うん。好きにしろ、って言ったから。はい、これ」

「あぁ、……まぁ、そう……だな」


 言ったことは守りたい。手だけ差し出して、腰にバスタオルを巻いた。

 多分、有希もしっかりと巻いている。だろう。


「う、うわっと」

「大丈夫か?」


 反射的に振り返ると、椅子がずれてひっくり返ったカエルのような体勢の有希がいた。

 安心した、ちゃんとタオル巻いていた。巻いていても、身体のラインを、誤魔化せるようなものじゃない。

 白く傷一つない。視線が滑るように動いてしまう。そっと目を逸らしてしまう。


「いま、貧相だって思ったでしょ。ないことはないんだからね。あるにはあるんだよ」

「聞いてねぇ」


 気にしたこと無いわ、考えたこと無いわ。単純に気まずかっただけだわ。


「ほら、髪から洗うからそっち向いて」

「あ、あぁ」


 言われた通り座り直すと、すぐにシャンプーを泡立てる音が聞こえた。


「……ねぇ、覚えてる? わたしと出会った時のこと」

「そりゃ、覚えてるさ」


 髪と髪の間を通って、地肌に優しく指を立てられる。


「痒いところはありますかー?」

「無い」


 頭の上ですぐに泡が立ち始めたのがわかった。規則正しい、髪と指が擦れる音。


「ふふっ。なんか楽しくなってきた」


 言葉は本音のようで、正しく、弾むような声だった。


「それは……良かった?」

「なんで疑問形?」

「いや、だって……何でもない」

「もうっ。なに? ドキドキしちゃった?」

「しないと思うか?」


 鏡とか無くて良かった。いや、湯気で曇って見えなくなるか? どちらにしても、無くて良かった。

 ただ、見えないというのも意外と厄介なもの。どうにも、後ろにいる有希のことを考えてしまう。手の動きを、細かく感じてしまう。


「流すね」

「あ、あぁ」


 かと言って、摘まみ出す気がどうにも起きない。大人しく、この状況を受け入れてしまう、受け入れたい自分がいる。

 丁寧に、勢いが物足りないシャワーが顔に掛からないように降り注ぐ。有希の鼻歌が浴室に反響して響く。


「次はお背中いくね」

「……頼む」


 ナイロンタオルが擦れて泡が立つ音。優しく、ごしごしと丁寧に擦られる。


「ふふっ、遥君、ちょっと息荒い?」

「ん、んなことねぇ」

「その声で凄まれても」

「勘弁してくれ。少しくすぐったいだけだ」

「ふふっ。すべすべ」

「あんま触るな」

「くすぐったがり屋さん」

「勘弁してくれ。僕も一応男だぞ」


 思わずぼやく。


「ふふっ。きゃーこわーい」


 背中にシャワーが当てられる。だというのに、有希の呼吸が、やけに近く感じた。そして。


「こんな貧相なの、いらないでしょ」


 やっぱり、抱き着いて来た。いつもより遮るものが薄いというのに。こいつは。じっと心を整える。心成兵器を扱えるようになれば、こういう場面でも多少の感情や本能のコントロール、心を介してできる。


「……いらない、か」


 有希が抱き着いている。それに関する認識や感覚を頭から締め出して。湯気でも吸いこんだのかと思いたくなるくらい、靄がかかっていた頭が晴れていく。


「思い出した」

「何を?」

「有希が、抱き着いてくるようになったの、いつからだったかなって」

「いつから、だっけ?」

「僕が、初めて二本目の剣を出せるようになった時」

「……あぁ、あの時」


 あの時……色々あった。今に繋がる色々の起点は、きっと、あの時だった。


「あの辺りだな、彩芽の担当になったのも」

「そうだったね」

「……いつまで抱き着いているんだ」

「ちょっと、人の温もりが、恋しくてさ」

「はぁ。程々にしとけよ」


 心のコントロールだって、所詮は誤魔化しているに過ぎない。


「ん。君は、優しい」


 寄りかかるように、縋るように絡めてくる腕。何となくその手を握ってみる。


「ふふっ」


 囁くように笑って、握り返してくる。


「あの時は、大変だったな」

「そだね」

「あの日、彩芽も初陣だったんだよ」

「そうだったね。今思っても、ハードな初陣だね」

「無理矢理ついて来たんだぜ」


 確か、『それが、更科の姓を持つ私の務めです』とか言っていたなぁ。いつからだろ、無駄にピリピリした顔でそんなことを言わなくなったの。

 有希の手、少し乱暴に扱ったら壊れてしまいそうな、そんな危うさがあった。なのに有希は、しっかりと僕の手を握って離さなかった。


「湯船、入る?」

「入るって言ったら一緒に入る気なのか?」


 有希、君は今、どんな顔をしているんだ。


「……ちゃんと大人しく上がるよ」

「あぁ」


 少しだけ、安心した。もし一緒に入ると言われたらどうしようかと思った。

 ふと、彩芽の顔が頭に浮かんだ。


「……なぜだ」


 今更言えたことじゃないが、いや、抑えてはいるが。それでも。


「部隊員に恋慕の情を抱くのって、なぁ……しかも、告白されて揺れてるのか? 僕」


 心を武器として扱うんだ。誤魔化しはしても、自分の気持ちくらい、わかっている。だからこそ。隊長としてどうなんだ。本当。

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