【2-10】




 家に帰ると、真弥は制服を脱ぎ捨て自分の布団に頭を突っ込んで、彼女が今まで一度もこんなに大きな声をあげたことがないくらいに、激しい泣き声だった。


 美弥はそんな妹のことをそっとしておくことにした。何も声をかけない方がいいことを自分の経験で知っているから。


「ただいま」


 美弥がいつものように夕食の準備をしていると、母親が帰ってくる。


「お帰りなさい」


「真弥は?」


「あの、ママ、真弥のことで……」


「なに?」


 美弥は今までのいきさつに今日の話も付け加えた。真弥が帰ってきてから泣きじゃくっているだけのことも。


「そう、真弥にはショックでしょうね」


「ママ、真弥のそばにいてあげてくれる? 私じゃ何も言ってあげられないし、それに、真弥にあんな思いさせたの私だから……」


「あの子はそのことでは美弥を恨んだりする子じゃないわ。ちょっと話してくるから、お夕飯の支度お願いね」


 母親は、姉妹の部屋に入っていった。


「真弥、起きてる?」


「こら真弥、服を脱いだままで。ちゃんと着ないと風邪を引くわ?」


 母親は真弥の布団をそっとはがした。


 渋々、パジャマの袖に手を通して、真弥は真っ赤な目を向けた。


「ママ……」


「辛かったでしょう」


「だって……、わたし今まで……、何してきたの……」


 彼女の声は震えたままだ。半年以上、自分は何をしていたのだろう。伸吾だって真弥がいないことで、病院でどれだけ心細い気持ちでいたのか……。


「それが真弥の彼に対する誠意じゃない?」


「でも、わたし、これからどうすればいいのか分からない……」


「真弥の初恋?」


「そうだよ、初めて好きになった人だもん。初めてわたしに声をかけてくれたんだもん」


 伸吾が現れるまでは、ひとりで耐え続ける日々。学校でのそんな彼女に初めての安心できる存在であったから。


「お母さんね、今の真弥と同じ思いをしたことあるわ」


「え、ママも?」


 真弥は顔を上げて、母の顔を見上げた。


「もう、何年経つのかしらね。お母さんがまだ美弥と同じくらいだったかな。お付き合いを始めた人がいたの。嫌なことも、お互いに言い合ったりして、本当にいい人だった。そのうち、お互いにそれとなく意識しちゃって、それがお母さんの初恋なの。遅いでしょ?」


「わたしも遅いってよく言われる」


「そうね、友達はいたけど、それとは別って意識したのは初めてだったな。いろんな所に出かけて遊んでたけれど、初めて私のことを好きだって言ってくれたときには、嬉しかったよ」


 テーブル上のお皿を片づけて、お茶の入ったマグカップを真弥の前に置く。


「お母さんもね、昔は真弥と同じで、本当に自信もなくて、こんな私のこと好きになってくれる人なんていないってずっと思ってた。でもその人、大学生のとき、私に結婚してほしいって」


「ママ、嬉しかった?」


「そうね、私でよかったらって。涙が出るくらい嬉しかった。でも、雪の日……」


「どうしたの?」


「前の夜からの雪だった。当日はデートの日でね。待ち合わせの時間に遅れることは、お互い分かってた。でも、その人、少しでも早く着こうとしていたんでしょうね。運悪くスリップした車にはねられて、空に行ってしまった」


「そんな……」


 絶句する真弥。母親の過去など今まで一度も聞いたことなど無かったのだから。


「お葬式でも相手のご両親はお母さんのことを責めることはしなかった。逆にせっかくの話を台無しにしてしまってと言ってくれた。でも、もしあの日に約束をしなかったらって今でも思うわ」


 母親は、真弥に両手を差し出して見せる。


「本当ならあなたたちがいる私に両方の薬指にリングがあるのはおかしいのよ。左側はお父さんから頂いた物。右手のはその人がお母さんにくれようとしていた指輪なの。せめて形見にって頂いた物よ」


「まだママはその人のこと好き?」


「もう時間が経っているけれど、忘れることはできない。こうしてずっと引きずってしまうのだから」


「パパはそのことを知ってるの?」


「ええ。だけど何も言わないでいてくれている。お母さんの気持ちの整理をじっくり付けていいと言ってくださる」


「だから、ママは雪のお天気になると、急に心配性になるんだね」


「そうね。今でもその日になると、お墓参りするわ」


 真弥はその気持ちが痛いほど分かった。


「でもね真弥、お母さんとあなたは決定的に違うわ。伸吾くんは『生きている』のよ。彼はあなたの手術の結果を聞いている。だから、真弥も信じなさい。必ず戻ってくると。それができるのはあなただけよ」


「ママ……?」


 見上げた母親の顔は、娘以上の覚悟を決めたように見えていた。

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