鯨よりも深く

増田朋美

鯨よりも深く

鯨よりも深く

ある日、杉ちゃんが、自宅内で食事の支度をしていた時の事であった。さて、そろそろ、カレーが出来上がるかなと思っていた矢先の事、めったにならないインターフォンが音を立ててなったので

、びっくりする。

「はい、何だよ。何か用事でもあるの?」

と、杉ちゃんがいうと、

「すみません、こちらで、いらない着物の買取という物はやっているのでしょうか?」

と、間延びした女性の声でそんな言葉が聞こえてきたので、杉ちゃんは又びっくり。急いで煮込んでいた鍋の火をとめて、玄関先へいった。

「あの、失礼ですが、こちらで着物を買い取ってくれると聞いたものですから、もって来たんですが。」

という女性は、まだ若い女性で、おそらく30代前後と思われる女性だった。

「はあ。僕のうちは、和裁屋で、買取屋ではないんだけどな。」

と、杉ちゃんがいうと、

「どっちでもいいじゃないですか。これ、母が長らく着ていた物なんですが、もういらなくなったので、引き取って頂きたいんですよ。」

と、彼女は答えるのだ。

「だから、引き取るのは、僕じゃなくて、カールおじさんみたいな人がやるの。僕はあくまでも、着物の仕立て屋で、着物を買い取ったり、販売したりする奴じゃないんだよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「でも、着物を商売としてくれる方なら、いらない着物を何とかしてくれるはずですよね。これ二本あるんですけど、どちらもいらないから、引き取ってください。何かの材料になるかもしれません。それでは、御願いします。」

と、彼女は紙袋から、反物を二枚取り出した。それは、二枚とも絽の反物で、夏着物にするにはぴったりだ。しかし何処か長さが足りなく、着物にするにはちょっと足りなすぎる。反物というより、帯にするための、布というような感じであった。

「はあ、ずいぶん見事な反物じゃないか。絽は夏には涼しくて、着るには丁度いいよ。でも、これでは長さが足りないな。」

「でしょ。それは、私も思っていたんです。帯に短したすきに長し。だから、うちに置いておけなくて。其れで、有効活用してくれる方に、持ってきてもらいました。一本いくらくらいで買い取ってくれますか?二束三文でもかまいません。もう、これは何とかしてほしいと思っていたんで。」

そういう女性は、何かこの布に対して、因縁のような物があるような感じだった。どうしても、それを処分したいというか、何か捨ててしまいたいとか、そういう気持ちでいるらしい。

「はあ、お前さんは、この布に、何か嫌な思いでもあるかなあ。」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ。母が持っていた物なんですけど、私は、必要ないと思って、それで持ってきたんですよ。」

と、彼女はそういうのだった。

「はあ。お母さまがどんな思いで持っていたのかな?」

「ああ、それはよく言われるんですけど、私は母が持っていた物は処分したいんです。」

そういう彼女に、

「でもお前さんのたった一人のお母さんでもあるわけだからねえ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「そうでしょうか。」

と彼女はいった。

「なんで?やっぱりお母さんと、嫌な思い出でもあるんだな?なんかあるんだろ?話しちまえよ。そうすれば又変わるかもしれないよ。お前さんの気持ちもな。」

杉ちゃんがそう聞いてみると、

「ええ、あの人は、母というものではないのかもしれません。私にとって、母らしい事をしてくれたのは、実の母ではなくて、伯母の方でした。」

と、彼女は答えるのであった。

「おばさん?つまり、お母さんの姉妹がお前さんを育てくれたわけか。」

杉ちゃんがまた聞くと、

「ええ。伯母が、私の事を育ててくれました。母は育ててくれる能力がありませんでした。だから私は、母が大切だとおもえなくて。母がのんべんだらりと過ごしていた間に、伯母のほうが私のせいでいろいろ苦労して、そういうさまを見てるんで。私、どうしても母が持っている物を許せないんですね。」

と、彼女は小さい声でいった。

「そうなんだね。お母さんは、なんか心の病気でもしていたんかね。まあ、そういうことなら、気持ちがわからないわけでもないよ。それでお前さんはお母さんと決別したいということね。其れなら、僕も気持ちがわからないわけでもない。だったら、いいよ。うちへ置いておきな。そういうお母さんの事、うけいれろといわれたってできやしないのは、僕もよく知っているからさ。」

と、杉ちゃんがいうと、彼女は、自分の気持ちがわかってもらえて嬉しかったのだろうか。とても嬉しそうな顔をして、

「じゃあ、持って行ってくださるんですね!」

といった。

「はい。金は払わないでいいから。僕が貰うよ。」

と、杉ちゃんがぼんやりというと、

「ありがとうございます。しかもこちらがお金を出さなくていいなんて。本当にありがとうございます。嬉しいです!」

と、彼女は玄関先に反物をおいて、頭を下げ、すぐに帰ろうとしたが、

「お前さんの名前くらい教えてもらえないかな。御礼をするとき、名前がわからないじゃ困るからさ。」

と、杉ちゃんがいった。

「はい。私は、高林あさ子と申します。よろしく御願いします。」

と、彼女はにこやかに答えた。

「高林あさ子さんね。分かったよ。じゃあ、ありがとうな。お前さんの人生全うしてくれよな。」

「ありがとうございます、そんな事言ってくれるなんて、嬉しいです。これから私は、私の人生を生きていけるように頑張ります!」

あさ子さんは、大変嬉しそうな顔をして、杉ちゃんに一礼し、ありがとうございましたと言って、そそくさと杉ちゃんの家を出ていった。杉ちゃんは不思議な物を貰ってしまったなという顔をして、その布を手に取ってみた。確かに、着物にしたら、何かに使えそうな気がする立派な絽の織物だ。でも中途半端な長さでもあるから、着物としては仕立てられない。なので、杉ちゃんは、これを別の物に仕立てようと思いついた。

それから数時間後。蘭が杉ちゃんの家を訪ねてきた。

「杉ちゃん、買い物にいこうよ。いつまで待たせるんだ?」

と蘭は、杉ちゃんの家に入ると、杉ちゃんは居間にいて、針でしくもくと何かを縫っていた。

「杉ちゃん何を作っているの?」

と蘭が聞くと、

「ようしできた!これで帯は完成だ。無事に鯨帯に生まれ変わったよ。これで誰か欲しがっている人に、あげちゃおう。」

杉ちゃんは、糸切狭で糸を切った。

「何を作ってたの?」

と、蘭がいうと、

「おう、鯨帯だ。鯨帯というのは、二枚の布を袋縫いして仕立てた、両面に柄がある帯の事だよ。」

と、杉ちゃんはいった。それは多分きっと、昼夜帯の別名だと思われるが、蘭はそれをいうことはしなかった。

「鯨帯ね。製鉄所の誰かに欲しがっている人でもいたの?」

と蘭が聞くと、

「まあね。最近着物にはまりだした女の子もいるからな。着物を着ることがやっとできるようになって、嬉しいって言っている奴もいるんだよ。彼女にプレゼントすれば、その布も、喜んでくれることだろう。」

と、杉ちゃんはいった。

「そうか。でも、この布、どっかで見たことあるんだよな。この絽生地といい、この七宝模様の連続と言い、何か覚えているんだよ。確か、何年か前だったと思うんだけどね、母親になったから、気持ちを切り替えるために、背中を預けたいという女性が、僕のところに来たような。」

蘭は、そのような事を語り始めた。

「でも、僕のところに押し売りにやってきた奴は、確か30代くらいの女性で、お母さんにろくなことしてもらえなくて、伯母さんに育てて貰っていたといっていたぜ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「うん。そうなんだよね。でも、僕のところにやってくる人たちはね。初めて母親になって、その記念にやってくる人ばかりとは限らないんだ。子供さんをもって何年もたつのに、いつまでも親の姿勢ができないから、ちょっと何とかしてくれないかと、言ってくる人はかなりいる。中には、長年子供さんを虐待してしまっていて、それを、何とかしなければならないので、そういうことをしないようにするために、背中を預けたいって,いうひとだっているんだよ。みんな何か事情があって、其れと戦いながら生きているんだからね。」

と、蘭はちょっと力を入れていった。

「それで、この布は、確かその女性が、帯にするために購入したと言って、僕に見せてくれた布なんだよ。娘が大人になったら、作ってやるんだって言ってね。僕の記憶が間違いじゃなければ。」

「そうか。そういうことだったわけか。じゃあ、僕のうちにこの布を持ってきた娘さんは、まださほど歳ではないのかもしれないな。ずいぶん、老け込んだような様子の女だったけど。確か、彼女の名は、高林あさ子とかいう。」

杉ちゃんがそういうと、

「そうかそうか。其れならまさしくそうだ。お母さんの名前は高林たか子だ。彼女の持っていた布が杉ちゃんの手に渡ってしまうというのはなんかすごい皮肉だけど。和裁の関係者は今はなかなかいないしね。」

と蘭はいった。

「本当は、高林あさ子さんに持っていて貰いたかったんだけど、たか子さんの思いは通じなかったのかな。」

「それじゃあ蘭。高林あさ子さんには、伯母さんがいたのか?」

杉ちゃんが急いで聞くと、

「え?伯母さん?高林たか子さんには、お姉さんも妹さんもなかったはずだよ。」

と、蘭はいう。

「でも、あさ子さんは、伯母さんがいて、伯母さんに育てて貰ったといっていたぞ。じゃあ、彼女はどうやって、養育されたんだ?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「いや。確か、高林たか子さんが、ご主人と協力して育て上げたはずだ。たか子さんは、あさ子さんに暴力を振るわないように、背中を預けたいともいっていたんだから。」

と、蘭は答えた。

「ははあ、なるほど。つまり高林あさ子さんの、伯母さんがいたというのは、高林さんがお母さんを認めたくないための嘘ということかな。もし、小さな子供だった場合、お母さんの代わりの人がいると妄想してしまうことだってあり得るな。それによって生き延びたという例もないわけじゃない。そうなると、治療は母親以上に難しい事になるぞ。それは、もし、影浦先生のような人が、見つけたら。」

「うん、つまり、解離性障害ということになるな。」

杉ちゃんの言葉に蘭は直ぐにいった。

「何か、強いストレスになることがある場合、自分はここにいない、別の人のもとにいるんだと妄想することを強いられると、そこにいると思い込んで、其れから抜けられなくなる精神障害だ。」

「そうか。僕はそこらへんはよく知らないが、影浦先生に見せるとどうなるんだろうか?」

杉ちゃんがそういうと、

「うん。入院治療が必要になるかもしれないな。」

と、蘭は心配そうにいった。

「そうか。其れも大変だな。これ、帯にしないほうが良かったかもしれないな。僕、ちょっと軽率すぎたかもしれない。なんか、お母さんの事をもっと気にかけてくれるようにもっていってあげれば良かったのかも。」

と、杉ちゃんが、ちょっとため息をついてつぶやくと、

「すみません。回覧板です。よろしくお願いします!」

と、玄関前で、区長さんが間延びした声でいっているのが聞こえてきた。区長さんは杉ちゃんたちとあまり顔をあわせたくない人らしく、回覧板をいつも玄関先でおいて、すぐに帰ってしまうのだ。杉ちゃんが誰もいない、玄関先へいって、回覧板をとって、また戻ってくると、

「何か書いてあった?」

と蘭は聞いた。杉ちゃんが回覧板を見せると、そこには訃報と書かれている。誰が亡くなったのだろうかと蘭はよく見ると、なんと、高林たか子と書いてあるのだった。死去年齢は、まだ55歳。よほど重病ではない限り死ぬような年齢ではない。死因になるような事は何も書いてなかったけど、蘭は、先ほどの杉ちゃんの話を聞いて、ピンときた。

「もしかしたら、高林たか子さんは、自殺したのかもしれない。50代で、大病するのは、よほど不幸な家庭でもない限りしないはずだし。」

その可能性は、十分あり得る話だった。だって、この回覧板によると、お香典はご遠慮くださいと書いてあるからだ。もし、自然死であれば、こんな書き方はしないはずだ。ちゃんとお香典を伴う、葬儀の仕方にするのが、この地域では当たり前の事だからだ。

「よし、ちょっと、彼女の家にいってみよう。確かね、僕、まだ顧客名簿に、彼女の住所を残してあると思うんだよ。」

そう言って蘭は、スマートフォンのアプリを開いて、顧客名簿を開いた。

「和彫りは、刺青師と付き合いが長くなるんだ。手直しというか、書き直しすることも多いので、お客さんの住所や電話番号を簡単には消せないんだ。」

蘭がそう言いながら、顧客名簿を眺めると、確かにかなり古いところだったが、高林たか子という名前があった。それによると住所は新浜区だ。タクシーで行ける距離である。蘭は、急いで障碍者用のタクシーをチャーターして、今泉にある、高林たか子の家にいってみることにした。運転手に手伝ってもらって二人はタクシーに乗りこんで、高林たか子の住所を読み上げる。運転手がはいわかりましたと言って、その住所に連れて行ってくれた。確かに高林たか子の家はそこにあった。でも、本来葬儀があるはずであったら、黒い旗がたっていたり、花輪が置いてあったりするはずなのだが、そのような物は一切ないし、自宅受付をする葬儀屋の係員もいなかった。

蘭が、急いでその家のインターフォンを押してみると、

「どちら様でしょうか?」

と中年の男性の声が聞こえてきた。多分、高林たか子さんのご主人だと思われる。

「あの、僕は、刺青師の伊能と申します。芸名は、彫たつです。たか子さんから、何か聞いていると思うんですけど。あの、たか子さんが、亡くなったと聞いて、お悔やみに参りました。」

と、蘭がいうと、

「そうですか。刺青師の先生が来て下さったんですか。なんで、たか子は、そのようなつながりがあったことを、教えてくれなかったんでしょうか?確かにたか子が背中に、花をいれていたのは知っていました。まさかそれを入れてくれた先生が、わざわざ来てくれるなんて。どうぞお入りください。」

男性の声がそう聞こえてきたため、蘭は入りますよと言って、玄関のドアを開けた。そこには段差があって、家の中には入れなかったので、玄関先で止まっていると、ちょっとやつれた姿をした男性が、部屋の中から出てきた。

「あ、ご主人でいらっしゃいますか?高林たか子さんの。」

と蘭が聞くと、男性は、はいそうですと答えた。

「先生が、車いすの方であったとは、全く存じ上げませんで、このような家の作りになっていることをお許しください。本当なら、先生にお線香でも御願いしたいところですが。」

「まあ、そういうことはしょうがないが、本当に、高林たか子さんは、自殺して亡くなられたんですか?」

なんでも聞いてしまう杉ちゃんが、そういうことを聞くと、ご主人は、はいといった。

「どうして、高林たか子さんは、自殺しなければならなかったんですかね?」

と、杉ちゃんが聞くと、ご主人も何か話したかったのだろう。杉ちゃんたちに向って、こう話したのである。

「ええ、あさ子が、たか子にお母さんは本当のお母さんじゃないと怒鳴ったからだと思います。あさ子は、たか子ととても仲のいい親子だと思っていましたので、あさ子はそんな事を口にするとは、思いもしませんでした。たか子もそう思っていたと思うんです。ですが、あさ子は、そのような事をしても、ほかの人がするような幸せは、えられなかったんでしょう。だから、たか子にそういうことを言ったんではないかと思います。」

「そうなんですね。でも、お父さん、残念ながら、あさ子さんがそのような事を口にするようなことは、あなたの責任ではありません。それは、あさ子さんが、解離性障害という物に罹患していたからです。たか子さんのせいでもありません。残念な結果に終わってしまったと思われるかもしれないけど、かえってこうなってくれた方が良かったのではないかと思ってください。あさ子さんが、病気とはっきりわかって、治療が必要とされるのだとわかれば、あさ子さんは、専門的な援助を受けることができるようになります。そうすれば、お父さんではなく、専門的な知識を持った医療者が、あさ子さんを適切に治療してくださるはずです。」

蘭は、できるだけ、ご主人を励ますようにいったが、彼は、まだ落ち込んでいるようだった。

「お前さん、あさ子さんは何処にいますか?」

と、杉ちゃんがいきなりそんな事をいうので、蘭も、ご主人もびっくりする。

「ええ。自分の部屋にいます。今自分の事を整理したいからと言って。」

「そうですか。じゃあ、僕たちは、ここから入ることはできないので、お父様が、あさ子さんをここへ連れて来て頂けますか?」

と、蘭がいうと、

「わかりました。」

ご主人は、しっかり頷いて、別の部屋へ入っていった。男性というものは意外にこういう時決断が速いのが特徴である。杉ちゃんも、蘭もそういうところは安心することができた。お父さんがどうやって彼女を説得したかはよく聞こえなかったが、数分後に、高林あさ子さんが、杉ちゃんたちの前に現れた。

「よろしくお願いいたします。」

と、まるで逮捕されるような表情で、彼女は杉ちゃんたちにいう。

「はい。こちらこそ。でも、これはお前さんの人生がおわったというわけではないんだよ。新しい、人生の始まりだからな。」

と、杉ちゃんが明るく言うと、

「分かりました。」

と、彼女は、小さな声でそういうのだった。杉ちゃん一行は、なにも抵抗しない患者を連れて、運転手に手伝って貰いながら、彼女をタクシーに乗せて、影浦医院へタクシーに走ってもらうように頼んだ。

「お前さんに貰った布は、鯨帯にさせて貰ったからな。あれはやっぱり、お前さんにつけてもらった方がいいよ。幾らお前さんが、お母さんはいないといっても、お母さんは高林たか子さんであることに、変わりはないんだからな。」

と、杉ちゃんがいうと、彼女は、

「はい。」

と、小さな声で一言いっただけだった。でも、その目は、本物の鯨よりも落ち着いてくれているようだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯨よりも深く 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ