第12話 漆墨真魚は夢から醒める
「“彼”が……純妙君……」
──脳の処理が現実に追い付き、先ず始めに出たのはそんな言葉だった。
だけど色々納得できる。彼が私より強いのも、彼に負け前提で私が挑んでいたことも、それで納得できてしまう。
だって純妙君は、夢で私を負かす“彼”その人なのだから。
「……真魚」
ボアネが盤上遊戯部の部室から出てきた。
「ボアネ……」
「聞いていたんだね」
返ってきた言葉はどことなく暗かった。
「さっきのは……」
「……本当のことだよ」
「でも、ボアネと私は昔から──」
そう言いかけて、私はふと気づく。
私もボアネも、自ら他人と関わるタイプの人間でないことに。
思えばそうだ。確かに家の近い私とボアネだけれど、私は口下手でボアネも内向的な人間。私達だけで仲良くなるというのは本当にあり得ないことなのだ。それこそ、第三者が仲介でもしなければ……。
「……昔って、どれくらい前かな」
「……」
そう言われて、私はボアネと何時出会ったか覚えていない自分に気が付いた。
だけど記憶にはボアネの幼少の頃の記憶もあって──
私がそう言葉を紡ぎだす前に、ボアネは哀愁の籠った瞳で私を見つめて言った。
「真魚。僕が真魚と出会ったのは、小学校に上がってしばらくしてからなんだよ」
私の思考を正すように。
「そして真魚と僕を繋いだのは、他らなぬ逸成だよ」
私の記憶を調律するように。
「チェスを教えたのも、真魚を救ったのも――逸成なんだよ」
その言葉には重みがあった。
私が記憶の奥底に封じていた“彼”との思い出を全て引っ張り出してしまうくらいには。
「覚えてる? 逸成が家の事情で転校することになったとき、真魚が大泣きして引き留めようとしたの」
「……」
忘れる筈もない。忘れられる訳がない。
だって、その数日後、逸成は──
「その数日後、逸成が事故に遭ったこと」
「……」
気づけば、私は無言で膝から崩れ落ちていた。
けれどそれくらい私の中では衝撃的だった。今でも思い出すのが辛いくらいだ。
「……忘れられる、訳ないじゃない……」
「知ってる」
「だって、約束までしたのに……頑張っていたのに! その約束も果たさないで、事故に遭って、意識不明で……」
「うん。逸成はすぐに目覚めなかった。
真魚が変わったのはそれからだったね」
そうだ。私は何かが切っ掛けで逸成に関する記憶をすべて忘れて、生活し始めたんだ。
そう唯一つ──
「でも、変わらないところもあった」
──唯一、逸成から教えてもらったチェスだけは好きでいた。
そう認識した途端、急に視界がぼやけてきた。涙が出てきたのだ。
「……」
ボアネは無言で泣く私から背を向けた。きっと私が見られたくないのを悟ったのだろう。
私はそのボアネの行動に甘えて、気が済むまで廊下の真ん中で泣きじゃくった。
■■■■
「……ごめんねボアネ。こんなことにつき合わせちゃって」
「ううん。僕の方こそごめん。酷な話だったよね」
私の心情を気遣ってか、ボアネは本心から申し訳なさそうに謝罪を口にする。
5時間目開始のチャイムはとうの昔に鳴り終わっている。それでも側にいてくれたのは、昔馴染みが故だろう。
「いいよ。私が、忘れてたのがいけないんだから──」
「そんなわけない!」
強い否定が廊下に響く。
ボアネは大声を出してから「しまった」と顔を青くしたけれど、次の瞬間には真面目な表情で言った。
「真魚が悪いわけない。真魚だけが悪いなんてあり得ないよ。そしたら僕も逸成も同罪だ。僕は真魚に何も教えなかったし、逸成は忘れているんだから」
「でもボアネは私を気遣ってのことで、逸成も事故で辛い思いをして……」
それを一人、私だけが忘れていたということが、私には何よりも耐えがたい苦痛となった。
「馬鹿だなぁ……それだけ逸成が大切だったてことの裏返しでしょ。だからこそ、ショックが大きかったんだよ」
ボアネはそっと寄り添うような優しい言葉をかけてくれた。
確かに……そうだ。私は逸成が意識不明と聞いて、それで記憶喪失になったのだ。その話は受け入れられない。と、拒絶して。
「でも、真魚は立ち上がった。思い出したってことは、乗り越えられてはいないけれど、事故と向き合おうって、そう決めたからでしょ」
「……そうだね。ありがとう、ボアネ」
「どういたしまして」
私は教室に戻るため立ち上がる。授業は完全に遅刻。出席扱いされるかも微妙な時間だ。
「僕はこの時間サボるけど、真魚はどうするの?」
「私は戻る。たぶん、ここでサボったら、今日はもう教室に入れそうにないから」
「……そう」
ボアネは「行ってらっしゃい」と私を送り出す。その様子はどこかいつもとは違うような気がしたけれど、私は「いってきます」とはっきりと返事をして教室に向かった。
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