第13話 丹緋ボアネは知る

 いってしまった。

 そう後悔しても、もう遅いのはわかっている。


「はぁ……」


 放課後の『盤上遊戯部』の部室で一人、僕はため息をついた。

 この場に真魚はいない。たぶん、今頃逸成に玉砕しにいっているのだろう。


「よぉ高校生。失恋か?」

「……橘先生」


 顔を上げて出入り口の方に振り返ると顧問の橘先生が缶コーヒーを二つ持って立っていた。


「その様子じゃ当たりか。漆墨は逸成を思い出した、と」

「……知っていたんですか」

「まあな。そもそも逸成をここに勧めたのは他ならぬこの俺だ。ここまで早く事が進むとは思わなかったが……」


 橘先生は僕の向かいに座り、プルタブをいい音をたてて開け、一気に飲み干した。


「……それでも記憶を思い出す取っ掛かりになればと思ったんだよ。まあ、それ以前の問題だったが」

「どういうことです?」


 それ以前の問題――そう聞いて、僕は自然とそう口にしていた。

 橘先生は小さく笑った。


「これは逸成にも言っていないが……逸成は一度記憶障害を治しているんだ」

「記憶が戻っている、ということですか!?」

「落ち着け丹緋。そうなんだが、思い出した頃が最悪でな……目覚めてすぐに思い出したはいいんだが、大けがして満足に体を動かせない時だった。それが相当ショックだったんだろうな。逸成はんだ」

「それって……真魚と同じ」

「ああ。心因性の健忘だ」

「……そんな」


 僕の心に罪悪感が芽生えてきた。

 何が『逸成は強いね』だ。逸成だって相応に心に傷を負っていたんじゃないか。


「まあ、そう自分を責めるな。逸成だってそんなお前の姿は見たくないだろうからな」


 橘先生はもう一本のコーヒーを開けて飲む。そして事故に遭って目を覚ました当時の逸成のことを語りだした。


 曰く、名前も思い出せないくらいに脳にダメージを負っていた。

 曰く、当たりが良かったのか、若さゆえかはわからないけれど、順調に回復して一度は記憶を取り戻したこと。

 そして、僕と真魚への罪悪感で、記憶を意図的に封じていたこと。


「……それから、逸成は何に対しても関心を抱くことはなかった。チェスに誘っても遠回しに断られた」

「それでも、ブランクがあっても真魚に勝てるんですね」

「アイツはチェスの天才だからな。その点では、ここに転入させて正解だったと思ってる」


 その言葉には重さがあったような気がした。先生のこれまでの努力が報われて、その達成感に浸ってるように見えた。


「――さて、そろそろ帰りの支度でもするか」


 橘先生は立ち上がって、大きく伸びをする。

 時計を見れば時刻は五時。チャイムには気が付かなかったけれど、もう下校時刻だ。


「鍵は閉めてくから、暗くなる前にさっさと帰れよ」

「……はい。ありがとうございます。それじゃあ」


 僕は荷物を持って玄関に向かう。繋ぎ廊下を渡っている際、HR棟の一つの教室から灯りが漏れていた。

 珍しいこともあるものだ。そう考えていつもならスルーする程度のことであるけど、何故かその時は好奇心に駆られた。たぶん、まだ二人がいるんじゃないかとか、考えてしまったからだろう。そしてこの考えは半分当たりで半分外れだった。


「……逸成」

「――あ、ボアネ。今帰り?」

「逸成こそ。丁度帰ろうとしていたところかい?」

「うん」


 逸成は教室の電気を消して、手提げ鞄を持って教室を出てきた。そして自然と肩を並べて廊下を歩く。


「真魚はいないのかい?」

「……まあ、傷つけちゃったからね」


 寂寥感のある逸成の言葉に、僕の思考はどう返すのが正解か答えを求めだす。しかし狭い世界に生きる僕にはさっぱりだ。


「……空海――いや、は思い出したんだね」

「……どこまで聞いたんだい?」

「たぶん、ほぼ全部」


 あーあ。と逸成は大きく伸びをして続ける。


「あんな別嬪さんになって引く手あまただろうに……」

「真魚、学校じゃ浮いてるよ」

「え、そうなの?」


 てっきり会話ができないだけかと思った……とさりげなくディスってるような気がしたけど、真魚が学校で浮いているのは事実だ。


「去年、盛大にやらかしたんだ」

「何をとは聞かないけど……相当すごいことしでかしたんだろうね」


 その予想は正解だ。今でも覚えているけど、あれは完全な悪手だった。何せ真魚のチェスの腕前が校内に広まったのはそれが理由なのだから。


「……それでも立ち止まらないだけいいと思うよ」

「それって──」

「橘先生から聞いたでしょ。僕の話」

「……知ってたのかい?」

「ハッタリ。でもその様子だと聞いたっぽいね」


 悪戯の成功した子供のように逸成は笑った。やはり逸成はあの頃と変わらない。

 丁度下駄箱に着いた僕たちは靴を履き替えて外に出た。


「まだ寒いねー」

「そのお陰か、奇麗な月が見える」

「あ、ホント……桜も奇麗だ」

「……『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』」

「急にどうしたの?」

「ただちょっと思い出しただけだよ。それにしても寒いね」


 夕日は八割がた沈んでしまい、冬を思わせるような寒風が僕らを襲う。

 春とはいえ、まだまだこの時間帯は寒い。


「──『散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき』」

「逸成、この歌の返歌を知ってたのかい?」

「ちょっとだけ興味持ってさ……勉強したことがあるんだ」


 茶目っ気いっぱいに、あの頃のような悪戯好きそうな笑みを浮かべた逸成は桜を見ながら言う。


「……桜の花のように、記憶だって段々と色褪せ消えていくものだよ。そして新たな記憶で上塗りされていくものだと思う。生きている限り永遠にね。だから僕は『覚えている約束は決して違えない』って、そう決めたんだ」

「けれど逸成の事故のように、決して忘れられない記憶だってあるよ」

「そういうのは時間が解決してくれることもあるよ。真魚さんが受け入れられたようにね」


 逸成は景色に向いていた視線をこちらに向けて言葉を続ける。


「そういえば、真魚さんとのチェス勝負を、のれから毎日受けることにしたよ」

「そうなんだ。ということは逸成、盤上遊戯部に入るのかい?」

「それはまだかな。真魚……さんが二回勝ったら強制入部、らしいよ」

「――逸成はそれでいいの?」

「勿論。負ける気はないからね」


 逸成は強がるような作り笑いを浮かべた。

 それからも他愛のない話をしながら帰路を歩く。久々に逸成とこうして話したからか、帰りの道中は一瞬に思えた。


「それじゃあ、僕はここだから」


 逸成はそう言って住宅街の一角にある、真魚の家に近い高層マンションへと入っていく。

 僕はそれを見送って、自分の家に帰った。

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