第9話 純妙逸成は思い出さない

「──どうだった『盤上遊戯部』は?」


 ボアネと漆墨さんのいなくなった『盤上遊戯部』の部室の中で、橘先生はリバーシで対戦しながらそんな質問をしてきた。


「とても楽しかったですよ」

「そうか……」

「でも、入る気はありません」


 僕は盤の隅を黒にひっくり返しながら言う。


「──それはどうしてだ?」

「僕にその資格がないから、ですよ」


 橘先生が盤面から僕に視線を向ける。

 その視線には呆れのようなものが含まれていた。


「……まだ気にしてんのか」

「気にしてるとかじゃなくて、僕の感情の問題です」


 僕は先生の目を見てしっかりと言う。

 先生は納得してくれないだろう。しかし僕はもうこの部室に来ないと決めている。

 たぶん漆墨さんとはもう少し関わるだろうけれど、ボアネと関わるのはもう数回程度だろう。


「やっぱ気にしてるんだろ」

「気にしてないと言えば嘘になります」

「……やっぱ気にしてるんじゃねえか」


 橘先生は盤面を一気に白く染める。


「ボアネとの再会を喜びたい気持ちはありますよ。けど確実に、僕は嫌われてますから」

「……そうか」


 先生が降参の意を示すように両手をあげた。


「でもいいのか? その……とやらの安否はさ」

「ボアネに、いつか聞こうと思ってます」


 僕は駒を片付ける。

 今日はチェス盤を片付けたりリバーシ盤を片付けたり……片付けることが多いな。

 この調子で、ボアネと空海の記憶も片付けることが出来たら──なんて。


「そうか──すまんな呼び止めて。送る」

「すいません。お願いします」

「先に出て、校門前で待っててくれ」


 鍵返したり色々してくるから、と橘先生は部室の鍵を弄びながら言う。

 時刻は七時過ぎ。空を見上げれば月と薄い雲が重なっていた。


「空海、か」


 僕がチェスを教えたの名をぽつりと呟く。

 彼女はきっと、もうチェスなんてやっていないだろう。


「……気にするだけ烏滸がましいかな」


 関わる気ない癖に、その名を呼ぶな……そう言われているような気がして、僕は小さく笑う。


 うん。そうだ。関わる気がないのに、思いだそうなんて考えるな。偽善者ぼく


■■■■


 マンションに帰ると、僕の借りている部屋には明かりがついていた。


「ただいま。母さん」

「おかえりなさい。ご飯出来てるわよ。遅かったのね」

「うん……橘さんに転入の件で色々相談してもらってたんだ」

「そう」


 僕は手を洗って食事の席につく。


「母さんはこれから仕事?」

「ええ」


 母の仕事は夜遅くからの方が多い。父は出張しているからこの家には住まないらしいけど、母もまたあんまり帰ってこないのだろう。


「そうそう。今日、丹緋さん家に挨拶に行ったわ」

「そうなんだ」


 僕は夕食を口に運ぶ。

 焼き鮭に白飯だけと質素な献立だけど、そこまで食に頓着しない質であるためか、結構好きだったりする。あんまり魚を食べないのも理由かもしれない。


「ボアネ君にも会ったわ。同じ高校なんですってね」

「うん。僕もボアネとは会ったよ。空海はいなかったけど……」

「そうなのね」

「そういえば空海は元気にしてるのかな」

「ええ、よくボアネ君と一緒にいるらしいわよ」

「そうなんだ」


 それを聞いて、僕は心の底からホッとした。

 それならもう、僕はボアネと関わることもない──それが、その考え方が、どこか悲しいことのように感じた。

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