第8話 丹緋ボアネは見ぬふりをする

 完全敗北。

 そう表現するのに相応しい実力差を見せて逸成は真魚を破った。

 校内一のチェスの腕を持つとされる真魚に連勝したという、スクールカースト上位陣が知れば瞬く間に学校内に伝播するだろう事実より、僕は衰えを知らない、更に上達している逸成のチェスの腕前に驚きを禁じ得なかった。しかし同時に納得もした。

 真魚は覚えていないだろうけど、彼女にチェスを教えたのは他ならぬ逸成だ。片付け中に言っていたけど、逸成は昔──それこそ僕と出会うより前──からチェスに触れていたのだ。才能だってある。真魚でもそう簡単に勝てる相手ではないのは道理とも言える。

 とはいえ今日の対局では危ないシーンも幾度かあった。もしもこのまま真魚が勝ったら……なんて思って、逸成を応援していたのは内緒だ。二人とも忘れているから杞憂だとは思うけどね。

 帰り。逸成が橘先生に呼び止められて僕と真魚の二人で玄関に向かう中、真魚は先の対局を楽しかったと言った。

 逸成が部活に入るのはほぼ確定したと言ってもよいだろう。


「……そっか」


 咄嗟に出た言葉にどこか突き放すようなニュアンスがあることに言ってから気づいた。そう言ってしまったことに後悔しても遅いけれど、その後から僕らの帰り道が別れる所まで、僕と真魚の間で会話はなかった。

 いつも通りの筈なのに、それがとても苦痛だった。




 家に帰ると、玄関に見慣れない靴があるのを発見した。

 来客なんて珍しいと思いながら自分の部屋に行こうと歩みを進めていると、突然リビングの扉が開いた。


「おかえりボアネ」

「ただいま母さん、と……!」


 僕はリビングにいた来客に驚き、思わず言葉を失った。

 だってその人は──


「お久しぶりね、ボアネ君……大きくなったわね」

「……逸成の、お母さん」


 ──逸成の実母、純妙すみたえ苑子そのこさんが家にいたのだから。


「お久しぶりです」

「ふふ、元気そうね」

「そりゃあもう。毎日真魚ちゃんと一緒にいるんだから、退屈はしてないでしょ。ねぇ?」

「う、うん……」

「それもそうよね」


 それじゃあ、そろそろ。と苑子さんは廊下に出る。

 丁度帰るところだったようだ。


「今日はすいません。お邪魔までしちゃって」

「いいえ、私もお土産もらってますから!」


 お土産……? と気にはなったけれど、僕は見送りをせずに自分の部屋へと入る。

 ……苑子さんのことは、少しだけ苦手だ。

 とても静かで優しいのだけれど、その静かさが昔からとても怖かった。理由はわからないけれど、それは今でも変わりない。

 少し心拍数の上がった心臓に手をおいて、落ち着くよう深呼吸をする。

 それから制服を脱いで寝巻きに着替え、僕はリビングへと向かう。


「……帰ったの?」

「ええ。ごめんなさいね。長話する気はなかったんだけど」


 昔話に花咲いちゃってと母さんは笑う。


「そういえば逸成君、ボアネと同じ高校に転入したそうじゃない」

「……うん」


 もう会ったよ。とは言えなかった。


「仲良くしなさいよ。恋敵かもしれないけど、逸成君も新しい環境で大変だろうからね」

「……うん」


 知ってる。逸成が今のことでいっぱいいっぱいになっているのは。

 彼の癖なのだけど、逸成は忙しくなればなるほど笑顔を見せる。チェスを指している時に見せる不敵な笑みではなく、ものすごく明るい笑みを。

 知っているのは僕だけ。逸成も自覚していないだろう癖だ。


「じゃあ、夕飯作っちゃうわね」

「……うん」


 僕は台所に向かう母さんを尻目にテレビをつける。この時間帯はニュースしかやっていないからあんまりつけないのだけれど、騒々しい胸中へのノイズとしてはとっても最適だった。

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