お茶のあとに… 第一話

 口を開けて息を吸おうとするのに、何も取り込めない。

 風邪を引いたときのように体が重く、指さえも思い通りに動かせない。

 ただ、抗えない眠気がのしかかってくる。


 視界はぼんやりと霞み、色を失っていく。

 それなのに、脳裏に浮かぶ顔は鮮明で声さえ聞こえそうだ。


 死ぬのか?


 浮かんだ言葉が胸を締め付ける。

 あれもこれもどれも未完成のまま。

 何もかもが中途半端で、どれ一つ作ることが出来なかった。


 悔いが、残る。


 指先には何のぬくもりもない。

 何も抱くことが出来なかった。


 だけど。


 だけど。


 ふと訪れる安堵感。


 口元に笑みを湛える…。



 ◇


 エルフィーが部屋に入ると、部屋の主のように堂々と立つアイザックを睨みつける。


「何をしに来たんだ?」

「お前に、文句を言いに来た」


 二人は身分の差はあるが、幼い頃からの付き合いもあり、他人がいない時は口調が砕けてしまう。

 アイザックは王太子になったエルフィーを普通の友人のように扱う数少ない人物だ。

 今ではエルフィーにとって貴重だった。


「文句?何かあったか?」

 ざっと最近の出来事を思い浮かべてみるが見当が付かない。

 パーティーもあったが、特に問題なく過ごしたはずだ。


「お前の弟。フィンリーのせいで我が妹は心に深い傷を負った」

 エルフィーの弟であれば、尊称を付けて呼ばなくてはいけないのだが、アイザックはかなり嫌そうな顔でその名を口にした。

 そして、穏やかでない言葉にエルフィーは身を乗り出す。


「ダーシーに何かあったのか?」

 アイザックの妹、ダーシーとは何度も顔を合わせている。

 身分の差があるのでパーティーで会っても挨拶だけだが、幼馴染みと言っても良い間柄である。

 幼い頃から何度も遊んだことがあり、4人で出かけることもあった。


 アイザックは仰々しく腕を組み、顔をしかめる。

「もう少ししたら分かる」




 アイザックとエルフィーは侍女に案内されて、ある一室に入る。

 そこには涙を流し、ハンカチで口を押さえ、唸り声をあげそうな形相のダーシーが立っていた。


 彼女付きの侍女、ミリーが汚れてしまったドレスを拭っている。

 ドレスが胸から下へぐっしょりと濡れている。一緒に黒い何かが付いているが、よく見ればそれは茶葉だった。


 ダーシーの傍には茶器一式があり、フィンリーが不貞腐れた顔で二人を迎えた。

「兄上、何か御用ですか?」

「これは、何が起きたんだ?」

 状況が今一つ飲み込めないエルフィーは辺りを見回す。

 どうみても、お茶の途中とわかる。

 しかし、ダーシーのただならぬ様子に何か重大なことが起きたのではないかとフィンリーに詰め寄る。


「ダーシーに一体、何をしたんだ?」

「兄上が言ったじゃないですか、お茶でも淹れてみろって」


 そういえば、とエルフィーは思い出す。

 王城に来てもフィンリーと話をすることなくダーシーは本に夢中と聞いたので、お茶でも淹れてもてなしてはどうだ?と言った。


 テーブルの茶器を確認する。

 しかし、カップは空だった。

「申し訳ございません。カップは落としたようで、拾い上げたあとでございます」

 ミリーが頭を下げる。


「うげー」

 聞いたことのないような濁った声がダーシーから聞こえた。

 慌てて振り返ると、アイザックとミリーが両脇から抱え上げる。


「ここじゃだめだ、もう少し我慢だ!」

 抱えられたまま部屋から連れ去られる。

 何が起きているのかさっぱり分からず、エルフィーは茫然と見送る。


 ただ、立ち去る前のダーシーの顔は見たことがないほど青白かった。



 絨毯の床に広がる痕を見て、どうやらお茶を零したことは察せられた。

 ダーシーが座っていただろう椅子の上には死守したのか、分厚い本が置き去りにされている。

 また、小難しい本を読んで…。

 苦笑しながら、エルフィーは本を取りページを捲る。


「で、ダーシーにお茶を淹れたのかい?」

 努めて冷静に問いかけると、フィンリーは渋々といった体で頷いた。

 兄の助言を実行しただけなのに、ダーシーは期待とは違う反応を示した。そのことにフィンリーは全く納得がいかない。


「飲んでくれなかったの?」

「全部、吐き出した」

 エルフィーは思わず目を閉じる。

 ダーシーの胸からスカート部分までに広がるシミと茶葉。

 嫌な予感がする。


「フィンリー、自分でそのお茶は飲んだのかい?」

 ふるふるふると首を振る。

「今まで、私にお茶を淹れたことはなかったよね?」

 こくん、と頷いた。

「私にも淹れてくれるかい?」


 これは実際に見るしかないと覚悟を決めた。


 テーブルに残っている茶器を使い、フィンリーはお茶を用意する。

 こんもりとカップに茶葉を入れる。

 そこに湯を注ごうとしたところで、堪らずエルフィーは待ったをかける。


「待って、フィンリー。君の侍女たちはそうやってお茶を出すのかい?」

 よくわからないといった顔でフィンリーは頭を傾げる。

「もうわかった。大丈夫。うん」

 襲われる衝撃を何とか抑え込み、エルフィーはアイザックとダーシーに心の中で謝罪する。


 ダーシーのドレスに付いていた茶葉の量はかなりものだった。

 彼女は一応、フィンリーの事を思い、口をつけてくれたのだろう。

 しかし、あまりの苦みと茶葉の舌触りに驚愕し、吐き出すに至ったに違いない。


「えっと、フィンリー」

 何からどう説明しようか頭を痛める。

「お茶を飲んだことはあるよね?」

「先ほどから、兄上が何を言いたいのかさっぱりわかりません」

 うん、こっちもどう話したらいいかさっぱり見当つかないよ。


 今にでも挫けそうになる思いをエルフィーは必死に耐えていた。

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