第20話 勉強には集中できない
「ここ違います」
「これ計算ミスしてますよ」
「文章をちゃんと読んでください」
開始してから一時間くらいは経っただろうか、俺は有栖にこの言葉を何度も言われた。しかしこれには理由がある。
有栖は俺が国語を教えた時の距離から少しも動いていないのだ。なので彼女が俺の問題集を覗き込むと腕に何やら柔らかいものがずっしりと当たる。
その度に俺の脳内では数学の場合『Xの二乗+おっぱい』とまともな思考が出来きなくなる。そんな思考のまま問題を解いているので、後から自分の解答を見直すと意味のわからない式と答えが完成していた。
「光星くん…これはちょっと酷いです」
「……いつもは解ける」
「みんなそう言って言い訳するんですよ」
言い訳といえば言い訳かもしれないが、腕に胸が当たっているのに意識しない方が無理だろう。有栖は自分の胸が人の腕に当たっている事に気づいていない。
「まさかここまで出来ないとは思いませんでしたよ」
「有栖は本当に頭が良いんだな。俺の間違えた所とかにすぐ気づくし」
「そういうのは見れば分かります」
「有栖は欠点とかってなさそうだな」
頭も良くて勉強も出来る。さらには性格も良くて声も良いときたら欠点の付け所がない。全人類が羨ましいがるすべてを持っているといっても過言じゃないだろう。
有栖は俺のその発言が気に入らなかったみたいだ。
「私にだって欠点くらいあります。それに欠点なんて見つけても良い事なんて何もありませんよ。みんな欠点を直すために頑張っているんです」
「そんな事を言いたかったんじゃない。有栖に出来ない事とか無さそうだなって事を言いたかったんだ」
「……そうなんですね。少し熱くなりました」
そこでようやく、有栖との距離が普通の距離に戻る。ここなら問題を覗かれても腕に当たる事はないだろう。
「……水泳が、苦手です」
「ん?」
「ですから水泳が苦手です!」
俺が有栖に出来ない事はなさそうと言ったからか、自分の出来ない事を俺に教えてくれたようだった。水泳が苦手とは驚いたが、それ以外の運動は出来るという事なのだろうか。
運動が苦手な光星は、いつも授業中は面倒くさいけれど笑いものにならないよう取り組んでいるので、運動が全般出来るというのは羨ましい。
「運動とかスポーツをやる機会なんてあったんだな」
歌手になるために学校にもあんまり行っていなかったと言っていたが、いつ運動なんてやる機会があったのだろうか。
「高校に入るまではそんな機会なかったので、入学前に確認したんです」
「確認って?」
「私の知人に運動が全部出来る人がいるんです。その人に教えてもらったり一緒にやったりしたんですけど、その時に何をしても出来なかったのが水泳でした」
その友人もかなり凄いが、有栖が凄いのは入学前に一緒にやっただけで水泳以外のスポーツは全部出来たという点だろう。
「その知人も驚いてたんじゃないか?」
「そうですね。……確か、人生選び放題だねって言われました」
「やっぱりそうだよな」
そんな有栖に比べて、運動は頑張ってはいるが結果はついてこず。勉強は嫌いなので成績が悪いわけではないが対して良いわけではない。俺という人物は何をするにも中途半端な男なのだ。
「何か俺も誇れるものが欲しいもんだな」
「もう持ってると思いますけど」
「生憎とそんなものは持ってないぞ」
「お気づきになられてないんでしたら、口にはしませんけど」
有栖は何で気付いてないの?と言いたがな顔をしているがそんなものを持っているとは思わない。そんなものを持っているなら教えて欲しいものだ。
「そんなものを持ってるなら気づくし苦労しないだろ」
「なんでそんなにマイナス思考なんですか?」
「……自分に、、いや何でだろうな」
自分に自信が持てれば気づけるかもしれない。そう言おうとしたが、あまりに無責任すぎる発言なので口には出さなかった。
「私で良ければいつでも相談とか受けますからね」
有栖は俺が何かを隠していると察したのかそう言ってくれた。その発言はまだ勇気を持つことのできない光星にとってはとても助かる言葉だった。
「そうか助かるな」
「これくらい当たり前なんでしょう?光星くんが私に教えてくれたのですよ?」
「そうだったな」
屋上で有栖から相談を受けた時に、俺がこれくらい当たり前と言ったのだ。その事を覚えていて今度は俺のために使ってくれた。それがなんだか妙に嬉しく感じる。
「…そろそろ続きやるか」
「光星くんが出来るようになるまでちゃんと見てますからね」
お姉さんみたいな事を言ってくれたが、有栖と話し込んだ事で頭も落ち着いた事だし、今なら特に問題なく解く事が出来るだろう。また勉強に取り組む。
「本当に出来てますね。さっきまでは一体なんだったんですか?」
「それはだな……」
胸が当たっていたから集中出来なかったと本当の事を言おうと思ったが、それを言うと有栖が真っ赤になる未来が見えるのでやめておく。
「……き、緊張するしたんだよ。女の人とこんな近くで勉強するの始めてだし」
「あら光星くん、意外と可愛い一面もあるんですね」
こっちが優しさで本当の事を言わないでおけば、ニヤニヤと
「緊張したなら仕方ないですね!うんうん、仕方ないです!」
「そういうのやめてくれよ」
有栖が勝ち誇ったような表情で煽り続けてくる。こうなったら仕返しは必要だろう。次の一言目がまた揶揄うような発言だったら、有栖の顔を真っ赤にしてやる。そう決心した。
「いいんですいいんです。緊張したから出来なかっただけで、本当は出来るんですもんね」
「本当は有栖の胸が俺の腕に当たってからなんだよ」
「へっ?」
揶揄うような明るい楽しそうな声色から一瞬で有栖の顔の表情と声が変わる。
「……それは本当ですか?」
突然の告白だったので、まだ信じていなかったらしい。
「当たり前だ。むしろ本当に当たっていた事に気づいてなかったのか?」
「えっ、それはその、あれですか?」
意味のわからない文法の言葉を口に出しながら、少しずつ自分の状況を理解していっているようだった。
「それが本当の事かどうかは分からないですし」
「だが残念ながら本当の事だぞ」
「光星くんがついた嘘かもしれないですし」
今日の有栖はいつもより手強かった。否定し続けるのでトドメの一言をプレゼントする。
「……フロントホック」
「………………、ん?」
目の前でフロントホックがどうかを確認されると居心地が悪い。目のやり場に困るので視線を逸らしたが、どうやら当たっていたらしい。
腕に柔らかいものだけでなく、何か硬いものが当たっていたので言ってみたが、本当にフロントホックとは思わなかった。
「じゃあ、本当に?」
「だからさっきから言っているだろ?しかも有栖から当たってきたんだからな?俺は不可抗力だ」
「本当に私から当てたんですか?」
「そうだな」
その言葉を最後にブワッと顔が赤くなる。有栖は辺りをキョロキョロした後、最初は目の前にあった教科書で顔を隠していたが、最終的に机に頭をつけて手で顔を覆い隠していた。
「でも気付いてなかったんだろ?だったら仕方ないって」
「うぅ」
先程の仕返しで煽り返す。有栖はどこから出てきたのか分からない
(撫でたい…)
なんだか猫や小動物を見ているような気持ちになりながら、再度揶揄う。
「わざとじゃないんだろ?うんうん仕方ない仕方ない」
「わたしの真似をするのはやめてください」
Sっ気とはこういうものなのだろうか、何度でも揶揄いたくなる衝動に襲われる。それは有栖が可愛い反応をするからというのもあるだろう。
あんまりやりすぎると口を聞いてもらえなくなりそうなのでここまでにしておく。
「酷いです」
「ごめんって有栖が俺を揶揄ってくるからつい」
「たまには私も光星くんをドキドキさせたかったのに……」
俺をドキドキさせるつもりであの発言をしていたらしい。もし本当に緊張していたらあんな言われ方をしたら光星でも恥ずかしくなるだろうが、実際は胸のことだったので事無きを得た。
「俺をドキドキさせて何になるんだよ」
「私ばっかりドキドキしてる気がするので、やり返したかったんです」
「え、じゃあ有栖は今までドキドキしてた事があったの?」
「……そんなの教えません!」
掃除の時にハプニングがあったが、その時はドキドキしたと言っていた。その他にもドキドキするような事があったのだろうか。
それが分かるのは有栖だけなので考えたところで意味はない。
「あんた達、図書室では静かにしなさいね。さっきから他の方に迷惑だよ」
近くを通った図書館司書に注意を受ける。周りを見ると確かにこちらを向いて迷惑そうにしている人達が数名いた。
「俺たち出た方がいいよな?」
「そうですね。今は一旦図書館から出ましょう」
荷物をさっとまとめて図書館を後にした。時刻は4時だったので、今からどこかに行くというのは難しいだろう。
「夜ご飯作るにはまだ早いしかなり時間空いたな」
「そ、そうですね」
「何処か近くで行きたいところとかあるか?なるべく人のいなそうな場所で」
「なんで……あぁそういう事ですか」
人目の避ける場所に行くという事に関して、有栖も理解してくれたようだった。休日に2人で会っているのがバレたりしたら今度こそ言い訳のしようがない。
今でも関係性を危ぶまれているのでこれ以上目立つわけにはいかないのだ。なので行くとしたらなるべく人目の避けた場所に行きたい。
こんな街の中で人目のない場所に行くというのはかなり行動範囲を狭まれるし、難易度の高い事だ。
「私、ゲームセンターというところに行ってみたいです」
さっきまで真っ赤になって照れていたが、外の空気を吸ってると落ち着いたのか冷静な状態に戻っていた。
「じゃあ行ってみるか」
「案内お願いします」
急ではあるが、有栖とのゲームセンター行きが決まった。
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