8:『しゃんと立てよ』
尋常を凌駕する突進力で迫る巨影へ、対処する手は限られている。
最も容易い横移動による無力化は、今回は不可だ。背後に、身動きのできない当代の英雄が横たわっているために。
「だったらまあ、ねじ伏せるのが早いかね」
ユーイは、力の抜けた眼差しのまま、矢筒のベルトを緩め背から下ろすと、左手に持つ。
右手に弓と矢を握ったままなので、なんとも間抜けな立ち姿である。
であるが、野生に生きる者にとって、滑稽であろうが異様であろうが獲物に変わりない。
血を見て痛みに興奮する鼻息を止まらせることなく、縞背猪が草原を抉っては迫りくる。
頬を打ち据える圧は、まるで波濤。
まるで岸壁を打ち据え暴威がごとく、間もなく辿り着く威力がユーイの体を痺れさせてくる。
もはや一息、という距離にまで迫り、
「よし、こい」
矢筒を構え、すれ違うように、右斜め前へ踏み出した。
左手を、踊らせるように振り、猪の行く手に残すようにしながら。
猪の眼前にひらひら舞うのは、矢筒のベルト。
その革で作られた輪は、進む主人の進行方向に引かれながら、
「よぅし掛かった!」
巨大な牙に引っ掛けられた。
猪自身の突進力で、牙を捕らえた輪は根元まですっぽりと入り込み、ユーイがひきつけることからその頭の向きが変わる。
馬を引く手綱の如く、だ。
急激で意図しない転回は当然、突進力に対して遠心力を生む。
常軌を逸する前に出る力が仇となり、巨体に掛かる横荷重は自重を加味して大きく膨らむこと。
結果、草原に叩きつけられた横腹が大地を滑り抉る轟音と、唸る獣声が織り交じって響き渡り、
「上手いこといったなあ」
新人たちを蹂躙せしめんとした怪物は、その腹を空に向けて横たわることになったのだった。
※
無力化したといっても、それは一時だ。
回った目が回復したなら、すぐさま立ち上がり再び暴威を振るうだろう。
ユーイはすぐさま、腰の山刀を抜き放ち、力なく下がった四つ足の腱を叩ききる。
身動きを封じた後で、止めを刺すべく、首筋にナイフをあてがう。買ったばかりの、鉄爪熊のナイフだ。
「確実なのは首の動脈を切っちまえばいいんだが、こいつらは皮も肉も厚いからな。ちゃちな刃物じゃ役にたたんぞ?」
「おっさん、俺のナイフじゃダメかよ?」
「刃渡り長いのにしとけ」
「おっさん、変なナイフ使ってるじゃん。それ、いいのか?」
「たまたま買ったんだが、掘り出し物だぞこりゃあ。皮や肉に食い込んで引っ掛け切るから、解体にはうってつけだ」
絶命と血抜きを行えば、今度は処理となる。
手慣れたユーイの手捌きに、逃げまどっていた少年少女たちが集って、興味の瞳を輝かせていた。
気安いのは、壮年の首にかかるのが自分らと同じ『白色』であるためか。
子供、と言っていい彼らの好奇心に囲まれながら、ユーイは感慨に耽る。
かつては、煩わしい何もかもを捨てて新天地に飛び出していったほど己が為ばかりであったが、こうして何かを教えるというのも悪くないものだ、と。
……丸くなったなあ。
苦笑いしながら、荷からロープを取り出す。
「よし。あそこの木まで運ぶぞ」
「ええ? おっさん、こいつ重いぜ」
「デカいのは、吊るして解体するのが楽なんだよ。熊もそうだぞ。手伝ってくれたら、こいつは山分けだ」
首へ括りながらの宣言に、彼らは色めき立って自分のロープを取り出し始める。
そんな素直な様子に、口端を和らげていると、
「ユウィルト・ベンジ」
背から、名を呼ばれた。
窺うような、震えるような、深く沈む声音。
暗色は深いが、それでもつい先刻に聞いた声を間違うわけもない。
「なんだい。藪から棒に人の名前を呼びつけるなんざ」
レンフルフ・バゾファンム。
振り返れば、彼が、苦渋を噛みしめるように睨みつけていた。
少年らも、声の主が己の徒党の代表であることに気付いたようで、怯えたように手を止める。
剣を杖代わりに足を引きずる彼は、吐き出すように、
「なんで! なんで今更なんだよ!」
激高を剥き出しにする。
※
レンフルフにとって、戦時下に活躍していた『十一の爪先』は憧れであった。
自らの『先駆ける足』という徒党名に、そのあやかりをするほどに。
その中でも、弓を操り探索者として特化し、この身を直接的に救ってくれた男へ、特別な敬意を掲げていた。
男の名はユウィルト・ベンジ。
脅威へ、我が身を省みずに立ち向かう背を目の当たりにさせられ、その姿に憧れて、今の自分はいるのだ。
であるが、その背に追いついてみたならどうであろうか。
「ギルドの稼働と同時に出奔とか……! あんたが残ってくれてりゃ、現場はもっと安定していたはずだ! 森のヤバい奴らだって間引けただろうし、そうできてりゃあ俺だって……! 俺の足だって……!」
ギルドは、もっと開拓の速度をあげて、発展をできていただろう。
だから、悔しくて、許せなくて。
「そりゃあまあ、すまんかった、としか言えん」
しかし、過ぎてしまったことだ。
敬う相手に頭を下げられては、それ以上に言葉を重ねることもできなくて。
だから唇を噛んで、こぼれそうな激情を呑み込まんと努めれば、
「だがな、お前さんがいただろう」
「は?」
「志も実力も、間違いなく俺より高いじゃねぇか」
彼は、こちらの自由の利かない足を指す。
「そうなっちまうまで現場を支えた証拠だろう、その足は。俺だったなら、我が身可愛さに程度の良いところでケツをまくるぜ?」
つまり、
「探索者の理念を、誰よりも実践してみせた勲章だ。そいつをぶら下げた『男』に説教されたんじゃ、何を言い返せるもんか」
お前は、立派に『出来た』のだと。
「どうして腐っているかなんて知る気もないがな、そうして腐っていようが、現場に出てみりゃ爛れの下の『地金』は隠し切れやしないしな」
お前は、立派に『出来ている』のだと。
「ああ。お前は、俺が見る限り当代随一の『探索者』さ。だからな」
認めているのだと。
「『しゃんと立てよ、ぼうず』」
覚えているのだと。
※
ペイルアンサにおける最大徒党『先駆ける足』は、その組織規模から組織図が作られ、リーダーを頂点に数人の幹部が存在していた。
そのうちの一人、セイサーク・リョオス。彼女は慌てる空気を隠しもせず、ペイルアンサへ至る街道に、旅装である厚手のスカートを翻していた。
「急いで戻らないと! 幹部の全員が出払うなんて予定外だわ!」
時刻はすでに夕暮れ。西の空が、紅を引き終わって藍を招く頃だ。
目に刺さる日差しとは裏腹に、風は冷たさを帯び、影が濃く伸びている。
「落ち着けよ、セイ。いくら駆けても、たかが知れているだろうに」
「だって、レン一人なのよ⁉ 前に留守番任せたら、大ゲンカして中堅どころがゴッソリ抜けちゃったじゃない!」
「そりゃ……まあ、そんなこともあったけどなあ」
もう一人の年嵩となる幹部、ツェッドが無精髭をしごいて苦い顔を。
「ただでさえ、徒党の維持が厳しくなっているのに、これ以上なにかあったら……!」
「なんでぇ。幼馴染なんだから、揃って村に帰ってめでたしめでたしでいいだろ」
「なに言ってんのよ、バカ! あんな足じゃ、野良仕事も何もできないわよ!」
「かくして、椅子にふんぞり返って酒を煽る仕事が適任、と」
へら、と悪戯気に笑う同僚を、セイサークは軽く睨みつける。けれども彼もまた、リーダーの本当の顔を知っていると断じられるから、睨むだけ。
「そんなに心配しなさんな。どうせ、銭勘定も出来ずに日銭を使い切っちまうひよっこどもに、悪態つきながら消耗品でも買い揃えてやっているさ」
「その悪態がダメなんじゃない! 嫌になって徒党を抜けられちゃあ、彼らのためにならないでしょ!」
「へぇへぇ、その通りですわ副リーダー」
「わかったなら、駆け足! ほら、丘が見えてきたわ!」
街道から少し逸れた先に盛り上がる、小高い丘。
あの向こうでは、おそらく新人たちが今日の成果を誇り合い、帰路へつこうと身支度を整えているだろう。
セイサークとしては、彼らよりも早く街に入り、荒れるレンフルフとの接触を減らしたいところである。
だから、スカートを摘まみ、急げ急げと石畳を蹴り進むと、
「あ……ん? なんか、様子がおかしくねぇか?」
「どうしたのよ。別になにも……」
訝るツェッドが足を止めるから、苛立ちながら速度を落とした。
そうして彼が指さす先を見れば、確かに様子がおかしい。
夕に暮れる平原の只中で、人影がぐるりと輪を作っているのだ。
「何かしら、あの人だかり……それに、縞背猪じゃない、あれ……!」
「なんだあ? 平野に出てくるヤツじゃないだろ。誰が仕留めたんだ? 初級の小僧じゃあ束になっても敵わんぞ」
はじめ、すぐ傍らに転がる巨大な獲物を囲んでいるのかとも思ったのだが、少年少女らの視線は明らかに外れていた。
では、と追いかければ、そこには二つの影があり、一方が一方に縋りついている。
「レン……⁉ どうしたのかしら!」
縋りつくのは、どういうわけか我らが頭目であり、もう一方は見覚えのない壮年。
並ぶツェッドが、あれは、と不審と驚きを混ぜこぜにした声音となり、
「え? なに、知り合いなの?」
「どうかな。一度、一緒にメシを食ったことはあるが、向こうは覚えているかどうか」
「ちょっと……何が言いたいのよ」
問いに、己の混乱を確かめるよう治めるよう息をつく。
「ギルド再建の立役者、『十一の爪先』から遁走した最年少、気に入らなければ貴族相手だろうが『指を切り飛ばす』狂犬」
「え? それって」
「歳は喰ったが間違いない。『指飛ばし』のユウィルト・ベンジだ」
かつて。
まだ、自分もレンフルフもほんの子供の頃に、村を、命を救ってくれた恩人たち。
その中でも彼が特に心酔する、かつての探索者の名である。
宵の迫る平原のなか、ひよっこたちの戸惑った瞳に囲まれながら、幼馴染は崩れ落ちすがっている。
「なにが、あったっていうのよ……」
セイサークの問いは、けれど応える者はなく、春風に遠く聞き馴染んだ声の嗚咽が届くばかりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます