第1話 バトラー


私は自室を出て、庭が見渡せる廊下をゆっくりと歩いておりました。

窓から差す朝日はとてもまぶしく、赤い絨毯を際立たせており、はて、昔はこんなに深みのある赤色をしていたかと思いが過りました。もちろん定期的にクリーニングは行っておりますし、私の勘違いであることが大いに御座いましょう。ただそう思ってしまうということは、それほど長くここにいたからこそで、この絨毯の赤み以外にも窓のから見える薔薇園のバラの美しさ、屋敷の照明や細工のひとつひとつの美しさや造形の深さに改めて気付かされ、私はその度に感傷的になってしまうのです。



私が執事としてこちらで務めるようになったのは今からもう50年以上前になります。二年前に亡くなった大旦那様とは十代後半からの親友で御座いました。父の事業の関係で行われた晩餐会で出会ったのが始まりで、当時の彼はとても気が弱く、頼りなさそうに見えたものです。

十年程経ち、私が高慢で不甲斐無いばかりに父から受け継いだ事業を潰してしまい、資産はおろか自信も希望も失っていた時に手を差し伸べ、屋敷の執事としての責務を与えて下さったのは彼でした。久しぶりに再会した彼は恰幅が良くなったのもありますが、強さと気品を感じる企業のトップに相応しい姿になっておられましたが、私と再会した時の優しい表情は昔と昔と全く変わりませんでした。

ですが当時、決して礼儀作法がお世辞にも良いとは言えず、しかもまともに働いた経験もない私でしたので、大旦那様にわがままを言い、二年間英国にて執事としての作法を一から学びに行きました。

二年間の留学を経て、変わった私を見て驚いた大旦那様の顔は今でも強く記憶に残っております。



そんな感傷に浸りつつ仕事を片付け、昼過ぎにはほとんどの仕事や引継ぎも終えて屋敷を見回っていますと、慌ただしくも可愛らしい足音が近づいて参りました。

「黒羽、妖精タイマーやろうよ!カードがいい?ゲームでもいいよ!!」

私の元にやってきた御方は大旦那様のお孫様にあたる方でお名前は優様で御座います。

今年、小学校に入学されたばかりで、ご学友の間では「妖精タイマー」といったゲームが流行っているようで、そのゲームはトレーディングカードとコンピューターゲームの2種類あり、私は度々そのゲームの対戦相手をさせて頂きました。ですが最近の流行りやゲームのシステムについていくのは難しく、何度もご教示頂いておりました。

内容は妖精を中心に獣人、人間、魔女といった種族も交えてそれぞれの体力値を賭けて個性や技能を駆使して戦うもので、大まかな流れは判ったもののそれぞれの相性やタイミングによって変わる技能になかなか対応出来ずに負けることがほとんどでした。

お誘いを受けたい気持ちは山々でしたが今日に関しては時間を取るのは難しく、お断りの言葉を口にしようとしたところに

「優、駄目よ、黒羽さんは今日は忙しいの」

そうおっしゃっりながら私の前へ歩いてくるご婦人は優様のお母様で御座います。

長い黒髪をゆったりとした三つ編みでひとつにまとめ、濃い寒色の長いスカートのワンピースを纏われた落ち着いた御姿で、実際もとても物静かであまり感情を表に出さない御方です。

奥様は不貞腐れた表情の優様の肩をそっと手を添え、自分の元へ引き寄せながら

「黒羽さん、書斎にいる夫が貴方を呼んでいるわ」

そう教えて下さった奥様にお礼言葉を述べようかと思いましたが、その表情にまだ何かご用件がありそうな感覚がしたため、次の言葉をお待ちしておりましたが奥様は言い淀み、視線を逸らされてしまったので、お礼を述べ御二人に背を向け書斎に向かうことにいたしました。ですが数歩進んだところで

「待って黒羽さん!」

今までの奥様から聞いた事が無かった声量に私は少し驚きましたが、心を落ち着かせ振り返り

「奥様、どうかなされましたか?」

改めて向かい合った奥様は先ほどの場所から少し身を乗り出し、片手を胸元へ置き一息つかれたあと

「あ、あの…ありがとう黒羽さん、貴方の支えがなかったらこの子をここまでを育てられなかったわ」

顔を赤らめながら涙目でおっしゃる奥様をみて、奥様が嫁がれてからの葛藤や優様を生み、育てるまでのご苦労を近くで知るものとして、私もこみ上げてくる感情を抑え込みながら

「私には、勿体無いお言葉です。」

と、深くお辞儀をしてその場を離れました。



数日前は大事な人の待つところへ早く向かいたいという気持ちで一杯でしたが、いざ最後の日となると離れるのがとても惜しくもなってしまう、なんと我儘な性分でしょう、そんな昂る気持ちを抑えながら私は旦那様がいらっしゃる書斎へと足を踏み入れました。


部屋の奥中央の机があり、そこにある黒い革製の椅子に浅く腰を掛けながら旦那様はノートパソコンに視線を向けられておりました。前を少しだけ残し撫で付けた黒髪にグレーのスーツに身を包んだ御姿は若いながらも一家の大黒柱、そして企業を束ねる者としての威厳を感じさせました。

「黒羽さん本当に大丈夫かい?」

旦那様は私にそう問いかけるとノートパソコンをたたみ、顔をこちらへと向け言葉を続けます。

「僕は前にも言ったけどさ、ここを手放した後も貴方にはうちの家族を支えて欲しいと思っているんだよ」

この邸を手放す事は大旦那様が亡くなる前から話は上がっておりました。その後は邸を壊すか居住以外の用途に使用するかは次の購入者次第なのでわかりません。そして旦那様の御一家は近々マンションへ移られる予定でございます。

「大旦那様との約束を果たしたら邸を出る、これは今も変わりません。お仕えしたくないわけではありませんがもう一つの約束を果たさなければいけませんので...申し訳ございません」

「いや、責めてる訳じゃないんだ…僕はだからこそ新しい居場所での援助をさせてほしいんだよ。父もきっとそうしたいと思っているだろう」

私はあえて何も言わず首を横に振りました。

決心は固いと察した旦那様は軽くため息をつき

「そうか…忙しいのに呼びつけてすまない、今までありがとう黒羽」

「勿体無い御言葉でございます。旦那様、大変お世話になりました。」

そうして踵を返し書斎から出ようとしたところ旦那様が声を掛けられました。

「なあ黒羽、僕はち…親父が誇れるような人間になれてるかな…?」

「ええ、大変立派になられて、お父様も誇らしく思っていますよ」

その言葉に旦那様はそうか?と少しの疑いつつ、照れ臭そうな表情を浮かべられました。





すべての業務を終え、私は自室へと戻りました。

これから着替えても日照時間もだいぶ長くなっていますし明るいうちに邸を出発できそうです。

彼女が待つ孤児院は電車で一時間弱と大変遠いというわけではありませんが、彼女曰くなかなか最寄りの駅から入り組んだ場所にあり、土地勘のあるもので無いと辿り着くのが難儀らしいのです。迎えに来てもらう手間を掛けさせたくない、そう私は前から詳しい経路さえ教えてくれれば迎えの必要は無いと言いましたが説明も難し等、色々はぐらかされる感じで結局は最寄りの駅に着き次第、連絡をして迎えに来てもらう手筈となりました。


今朝と変わらぬ状態の部屋を改めてゆっくりと見回しながら私服一着のみを掛けてあるクローゼットへ向かおうとしたところ、足元に違和感を感じました。地震かと思いましたが部屋のものが揺れるどころか部屋の全てが歪に見えているのです。その時、私が一番に疑ったのは自身の身体の異常でした。

まさかこんな時に、きっと周りの方々に迷惑をおかけするだろう、そして彼女にもしかしたら会えないかもしれないと...嗚呼、なんと不甲斐ない事か!

そう心の中で嘆いても無常にも歪みは段々と酷くなり、私は平行感覚を奪われ後へと引かれるように傾き、そのまま床へ倒れ込んでしまうのかと衝撃を覚悟しましたがそれは無く、まるで床に大穴が開いたかのように倒れた状態の私は吸い込まれて行きました。ゆがんだ視界は今度は遠くなり、全てが白い、いいえ、まばゆい光の空間に吸い込まれて行きました。私はその眩しさにすでに瞼を開くことすら出来ない、瞼を閉じていても感じる程の眩しさなのです。


数秒、はたまた数時間、意識があったのか無かったのか、それさえも分からないほど光にあらゆる感覚が囚われた状態から急に臀部、背中、後頭部へと衝撃と痛みが走り、体中に重力を感じました。恐る恐る瞼を開くと目の前は薄暗い不揃いの石が敷き詰められた天井が見えます。そしてゆっくりと上半身を起こしました。衝撃を受けた割に身体は容易に、むしろ普段のように身体の節々に痛みも感じず滑らかに動きました。上半身を起こすと目の前に人が立っている事に気づきました。


その人物は十代半ばと思われる少女でした。何よりも目立つローズピンク色の長い髪を高い位置で二つ結いにし、白いフリルのシャツと髪色に似た短めのフリルスカートに身を包み、腕を組みながら私の事を見下ろしておりました。その顔はとても異国の可愛らしい少女そのものではありましたが表情はとても自信に満ちていると言いますか、とても気の強そうな感じさえいたしました。そして開口一言


「私はローザ、お前のご主人様よ!」





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