バトラー・ロイヤル~老齢執事のセカンドライフ~
中澤めぐみ
プロローグ
眼前に広がるのは灰色の空、遠くからは避難を促すサイレンが鳴り響いていた。
……ああ、またこの夢ですか。
戦時中に嫌になるほど聞いた空襲警報、夢の中の私は戦時中の世界にいました。
当時の私はまだ十歳にも満たない幼い子供、戦争がどういうものかも分からず、このサイレンが鳴れば悪い奴らが攻めてきて逃げなければ殺される、その程度の認識だったと思います。
この世界がその時と同じであれば私も子供の姿であるはずですが、それを確認する術を夢の中の私は持ち合わせていないのです。
どんなに体を動かそうとしても微動だにせず、視界に映るのはは灰色の空のみ、何度も見た夢と今回も変わり無いようです。
この先も同じなら……そう思った通り
「藤吉郎」
どこかやさしさもありながら感情をほとんど感じない、私の名前を呼ぶ女性の声と共に視界の右側から人影が近づいて来たのです。
服は少し土汚れがあるものの、それはシルクのように滑らかな生地で出来た白いローブのようでした。袖からのぞく手先もとても白く、細くすらりとしているのでまるで人形が立っている様です。
その人物は更に私の近くに寄り、身を屈めると顔がはっきりと見えてきました。
さらりと前に垂れる長い白銀の髪、長めの前髪から覗くまるでルビーのような真っ赤な瞳、美しく整った顔はほとんど表情は無いのに何故かとても悲しんでいるように感じました。
「大丈夫よ藤吉郎、私がついているから」
そう言うと私の胸部辺りに両手をかざしました。その手の甲からは光が現れ、だんだんと広がっていきました。光で視界が白くなって消えていく最中
「貴方のことをずっと見守っているから……」
そういって微笑む彼女の姿は光と共に消えていきました。
「―――!」
名前を呼んだはずなのに、声にならない叫びと共に私は目を覚ましました。
視界には見知った天井と伸ばされた腕、その腕の先は筋張んでシミだらけの手の甲のみ、その手を下ろし、痛む節々に気を使いながら私はベッドからゆっくりと身を起こしました。
夢の世界は昔のはずなのにその彼女だけは全く異質なものでした。
戦時中のこの国に異国の方がいるはずもなく、ましてやあの様な容姿の特徴を持った国の人間を私は知りません。
ただ、この夢を見るのは大体が私の人生の節目を迎える前、新たな生活に少しの不安を感じる時に見るのです。とても悲しい夢のはずなのに何故か見た後に気持ちが落ち着き、名も知らぬあの女性に支えられている気がして心強くなれるのです。
そんな思いにふけながら壁にかかった時計を見ると時間は午前5時少し前、ほぼ起床予定時間通りであることに安堵しつつ部屋を見回します。私に与えられたこの部屋は従者の私には勿体無いほど広く、歴史ある建物ではございますが40年程前に水道や電気などの設備も完備し、洗面台や冷暖房等もしっかり整っておりまして、部屋を出ずとも支度が出来るのは大変助かります。
身なりを整え鏡に向かうと、自分の頭髪はほとんどが白く、顔に刻まれた皺に姿に改めて歳をとった事を実感いたします。それでも周囲の方々は私の年齢を知ると大変驚かれます。そして背も曲がらず、仕事もしっかりされて、どうしたらそんなに若々しくいられるのですかと尋ねられるのです。正直私にもそこまで言われる程の若さを感じておりませんし、何か特別なことをした覚えがございませんので、「何事にも実直に取り組む事でしょうか」と言葉を濁すしか御座いませんでした。
そして最後に背広にそでを通し、改めて鏡と向かい合います。本日着たのは黒い燕尾服ですが、普段の仕事で着るのは気取らない服装がほとんどです。昔は着ている時の方が多かった燕尾服でしたが近年、仕事中着る機会と言えば特別な日に限られます。例えば屋敷でのお客様を呼んだ立食会、何かの記念日にお客様やご家族の方を驚かすための演出のひとつ、などといったほとんど仮装用の服となっておりました。
ですので服装を考える際、本日は私にとって特別な日であり、懐古と屋敷の方々を少し驚かせたいという気持ちでこの燕尾服を選んだのでございます。
洗面所から出て再び自室を見渡します。私物は机の傍らにある大きめの手提げかばんにほとんど入れておりましたので、元々私物は少なかったとはいえ部屋は整然としており、唯一残った私物と言えば机の上に置かれた一通の手紙。中には四枚の便せんと一枚の写真が入っており、送り主は私の大切な女性からでした。便せんには彼女の運営する孤児院の子供たちの様子と私がそちらへ来ることを心待ちにしている旨が綴られており、写真にはその孤児院の子供達と一緒に笑顔のでいる彼女が写っておりました。写真に写る彼女はジーパンとTシャツ姿で白髪が混じるも豊かな長い髪を後ろにゆったりとまとめ、その刻まれた皺の方が不自然に見えるほどの若々しさにあふれ、昔と変わらず美しい姿でありました。
一時期同じこのお屋敷に勤めていた時期もありましたが、先に彼女が屋敷を出ることを決め、私も一緒になる決意をしましたが、彼女は自分のせいで執事としての責務を離れることは絶対しないで欲しいと言い、行く先も教えず私の元を離れていきました。
それから一年程経った頃、手紙が届き彼女は孤児院を運営している事を知りました。
彼女は「身寄りがなかった私に手を差し伸べてくれた貴方のように、私も子供達に手を差し伸べられるようになりたい」と、彼女らしい行動力に感服いたしました。しばらくは手紙の交換そして資金の援助のみを私はしていましたが大旦那様との約束を果たした事でそれを期に私も直接孤児院の助力をしたいと懇願したところ彼女はようやく了承してくれたのです。
そこから私は屋敷の仕事の引継ぎやここで出来るかぎりの事を済ませていきました。
そして本日、私の執事としてこの屋敷で勤める最後の日となりました。
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