第31ミッション 愛人

 『コールドピッチ』という言葉を知っているかな。初対面の相手に協力者になってほしいと持ち掛ける、諜報員が使うテクニックの事だ。

 本当なら自分の正体を明かして協力者へするには、対象者に接触して信頼を築いてからが、最も安全だ。だが、接触がそもそも難しい相手にはこの方法を使うしかなくなる。

 彼はある国の官僚だ。独裁国家である某国では国外に出ることすら厳しく制限されているため、今回の家族旅行は『諜報員われわれ』にとっては千載一遇のチャンスだった。彼を糸口にして、某国の内情を紐解いていきたい。

 Kは甲板のベンチに座りターゲット家族を監視する。彼が妻子と離れた所で声をかけた。


「失礼、少しお話ししたいのですが……」


 Kが交渉へ踏み込んでいる間、里桜は甲板で海を眺めていた。この旅行が商談ありきのツアーだという事は里桜は予めKから聞いていた。一緒に船内を廻り楽しめないのは惜しいが、仕事ならば仕方がない。

 最初はカフェやシアターやエステなど、豪華客船の設備を満喫していたが、それも半日で飽いてしまった。どこへ行っても家族連れやカップルが多く、虚しさが募り、人気のない船尾へ向かった。モーターの水飛沫が話し声すら掻き消してくれていたのだが、自分に話しかける声は打ち消してくれなかった。


「金持ち彼氏は一緒じゃねぇのか?」


 振り返るとニヤけた顔の敦彦が立っていた。里桜は返事をせずに体の向きを戻す。


「なんで一人なんだ?初日からケンカか?」


「先輩こそ一人じゃないですか……」


「ああ、あいつはエステ行ってんだよ。したところでブスはブスなのにな……」


 敦彦の悪態に里桜は平然としていた。彼が人の容姿や能力に対して見下し発言をするのは、学生時代から見られた事だ。


「恋人にそんな事言わないほうがいいですよ」


「いんだよ。あいつ、俺にぞっこんだからさ。ブスだけど、親が社長やってて金はある。卒業後はその会社に就職、あいつと結婚、次期社長確定!勝ち組人生だろ?」


 ドヤ顔をする敦彦に嫌悪感を抱く里桜。彼が女性と付き合う理由ははっきりしている。己に利益があるかどうかだ。自分と別れた後に付き合った女性は『見た目が良かったり』、『融通が効いたり』と、彼にとって都合がいい相手だった。噂では推薦状を取るために教員と関係を持ったとまで囁かれていた。

 そんな彼が金目当てで彼女と『付き合って』いても、なにも疑問は持たない。


「なぁ、リオン。俺と付き合わないか」


「えっ……?」


 訝しむ里桜に敦彦はニヤけた表情を向ける。


「何言っているんですか?先輩は婚約者がいますし、私にも恋人がいます」


「だからさ、バレないように付き合うんだよ。愛人ってヤツ?お前やっぱりかわいいしさ、昔よりも成長してるし」


 そう言って敦彦の視線が胸元へ落ちた。いくら鈍い里桜でもここまで露骨だと、『体目当て』を想像できる。不快感を露にして立ち去ろうとしたが、敦彦は里桜の手を掴んで引き止めた。


「待てよ!お前にとっても悪い話じゃないと思うぜ?彼氏にはあまり構われてないんだろ」


「知ったような事を言わないで!」


「じゃあ、そのブランドのネックレスはなんだ?あいつからの贈り物じゃないのか」


 里桜は言われてネックレスを触る。敦彦が『シャネル』の価値を言うとさらに驚いた。


「男が女にせがまれもいねぇのにブランド物を買うのは、ご機嫌取りか、後ろめたい事がある時だぜ?」


 敦彦の見立てが的確で強く否定できなかった。最低男だが、相手を見抜く洞察力があるみたいだ。里桜は手を振り払って船内へ戻って行った。

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