イルシオンシティ ピエタアンジェロ(慈悲の天使)病院 7F 喫煙所前 23:30

「......クソッ」


 誰もいない病院の廊下の中で、ズィルバーの声だけが響く。

 尻尾を下げて、激しく横に揺れ、興奮気味なのか、息も荒い。

 客観的に見ても、冷静さを欠いている。

 それに対してもだが、先程トリスに言われた事を正確に、今の自分の現状を指摘されて苛々している自分にも腹立たしい。

 手は震え、今にも物に当たりそうになる。

 ズィルバーの中の知性がそれを必死に抑え、その際でより一層ストレスが積み重なっていった。


 一刻も早くストレスを発散させるべく、煙草を吸おう。

 そして、頭が冴えたらユアンに謝ろう。 あれは明らかに紳士的じゃない。

 まして、レディに牙を剥きかけるなど......



『守るべき弱者には敬意を。 挫くべき強者には弾圧を。 お前は全く見境がない。 最も女性には敬意を持て』


 不意に言葉が脳裏に走る。

 それはズィルバーが最も信頼し、最も愛した女性の言葉。

 何故に今になってその言葉が脳裏に浮かんだのか、ズィルバーは即座に理解した。

 これは警告だ。

 これを破ってしまっては自分という存在が崩れ去る。

 そして、それは今は亡き『彼女』の存在さえ汚してしまう。

 それだけはあってはならない。

 たとえ歴史が彼女を陥れても、自分が生きている限り、彼女を汚してはならない。


 そうだ。

 何をやっているフクス・ズィルバー。

 冷静になれ。

 一匹の獣としてはなく、理性あるヒトとして振る舞え。


 呼吸を整え、目を強く瞑り、頭の中をリセットする。

 そうさ、今は仕事中なんだ。 仕事に集中しろ。

 なにも感情を抱くな。 ただ依頼を全うしろ。

 そう、自分に言い聞かせ、大きく溜息を吐く。


「ふぅ......」


 ズィルバーの溜息が無音の廊下に響き渡る。

 あらゆるものに反響し、ズィルバーの耳に入っていく。

 ズィルバーの、というより狐の獣人の耳は、人間や犬の聴力の比ではない。

 その為、昔からズィルバーはこの聴力を生かして仕事や狩りを行なっていた。 

 だからこそ無音、という音の中に自分の音が跳ね返ってくるのは、些か気分のいいものではないが、気持ちを落ち着かせるには致し方の無い事だ。

 ......だが、拾った音の中に幾らかの違和感を覚えた。


「.......」


 無言のまま、耳を澄ませる。

 ここは病院の廊下だ。

 ヒトが行き来するこの場所で必要最低限の物しか置かれていない筈だ。

 だが、聞こえてきた音の中にどうしても何か、ヒト一人ぐらいのモノがこちらに向かってきているのをズィルバーは感じた。 

 それもこちらに殺意も向けたまま、気付かれないように忍足で。

 それでも物が動く以上、地面と足がぶつかり、細かな摩擦音や衝突音というものはどうしても発生する。

 ズィルバーはそれらを聞き分け、どんなものが歩いているのか、判断する事が出来る程、聴力に優れていた。

 ......しょうがない。 気づいてないように振る舞おう。


 ぺたり。


 なにか、柔らかい皮膚の持ち主が素足で歩く音。

 それらから判断して音の主は哺乳類系の生物らしい。

 硬い鱗を持つ爬虫類系獣人や鳥系獣人などはこの時点で除外される。


 ぺたり。


 音が大きくなる。

 確実に近づいてきている。

 それに比例するように音もハッキリしてきた。


 ぺたり。


 この時点でおおよその音の主の正体が掴めてきた。

 体長は約2メートル。 足音と共に何か擦れるような音も聞こえる。

 恐らくこれは尾を引きずる音。

 そして、足音は一定のリズムを持って音を発している。

 ズィルバーの経験上これは二足歩行のリズム。

 それらを踏まえて、考察するに音の主は哺乳類の、地面を引きずるぐらいの尻尾を持った生物、ということになる。

 と、そこまで突き詰めるとズィルバーの脳内にある疑問が浮かんだ。


 まず、ズィルバーの頭の中に音の主の種族が全く浮かんでこなかったのだ。

 大きさ、特徴までは理解できる。

 だが、それに当てはまる種族が存在しない。


 ぺたり。


 音の主はもうズィルバーの後ろまで来ている。

 ここからだと呼吸音も聞こえる。

 それは荒く、明らかに興奮している。

 まるで獲物を狙い、今にも襲わんとしている獣の呼吸だ。

 そして、腕を振り上げるような風切り音が聞こえた。

 即座に反応し、ズィルバーはくるであろう攻撃を前転で避けつつ懐にあった拳銃を取り出す。

 そして、そのまま攻撃してきたモノに銃を構えた。


「おいおい......突然襲ってくるなんて危ないじゃないか」


 そう軽口を叩くも、ズィルバーは目の前にいる生物を見て絶句した。


「おい、あんた......何もんだ?」


 そう問うも、返事がない。


「仮装パーティーの帰りか? というより、話通じる?」


 ズィルバーは銃を強く握りしめ、改めて目の前にいる生物を観察する。

 それは歪な化け物だった。

 体長2メートルの、大きな尻尾を持った生物。 そこまではズィルバーの予想通りだった。

 しかし、その容姿を見た瞬間、ズィルバーは衝撃を受けた。

 目の前にいるこの化け物は人のような皮膚を持ち、それは無理矢理伸ばしてワニか何かの化け物に被らせたかのような......そんな感じだった。

 頭部には申し訳程度の髪を生やし、眼孔も何処か人間に似ている。

 中途半端に人間の要素を入り混じったような容姿をしているのが、ズィルバーに一層嫌悪感を抱かせた。

 そんな怪物がこちらに犬のように唸りながら、邪悪な殺意と共に向かってくる。


「おい、それ以上僕に近づくな!! 三歩動いたら撃つぞ!!」


 ズィルバーは拳銃を握り直し、声を張り上げる。

 ここは深夜の病院だが今は非常時だ。

 言葉は通じなくとも、これだけ威嚇していれば並大抵の生物なら怯む。

 それでも化け物はそんなズィルバーの威嚇をものともせずにこちらに近づいてきた。


「クソッ!!」


 乾いた銃声が二、三回鳴り響く。

 足に二発、胸部に一発。

 弾丸は化け物の皮膚をえぐり、血が飛び散る。

 だが、少し怯むだけで何事もなかったかのように、化け物はゆっくりとこちらに歩いてくる。

 このまま拳銃を発砲を続けていても、ただの足掻きにしかならないだろう。

 所詮は対人間兵器。

 人間の貧弱な柔らかい皮膚を貫通しても、こういった化け物には全く効果がない。

 ならば。

 ズィルバーは拳銃を懐に入れ、代わりに取り出したのは、変わった装飾が施された短いナイフ。

 ため息混じりに化け物を睨むとズィルバーの目が少し紅く変色した。


「あんまりやりたくはなかったけど......!!」


 ズィルバーは低く構え、まるでカタパルトに射出されるかのような態勢を取る。

 瞬間。

 音もなく、ズィルバーは姿を消した。

 再び、無音。

 響くのは化け物の荒い息遣い。

 消えた獲物がどこに行ったのか?

 目の前にいたはずなのに、どうして見失った?

 そう言いたげに困惑する化け物。

 忙しなく辺りを見渡し、不安と興奮が入り混じったように荒かった息がさらに荒くなる。

 と、その時、ドスンと化け物に衝撃が走った。

 人一人分の何かが体当たりしたような、決して軽くない衝撃。

 ふと化け物が自分の胸部を見ると、そこには追い詰めたはずの獲物と、獲物が握っていたナイフが化け物の心臓へと深々と突き刺さっていた。


「卑怯、かもしれんが、こうして僕は生き延びてきたんだ。 というか、これしかあんたに効かなさそうなんでね」


 容易にズィルバーが心臓に突き刺せたのは、ズィルバー自身の長年の豊富な知識と経験から成せる技、と言える。

 心臓に突き刺さったナイフから、微弱ではあるが猛毒である魔力が流れ出す。 それは対象の魔力に応じて対象の肉体が硬化し、死に至らしめる毒となる。

 まさに魔力殺し。 

 ズィルバーは突き刺したナイフを引き抜き、トン、と化け物を押す。

 そして、そのまま化け物は力なく倒れると、ズィルバーは深いため息が口から洩れた。


「……もしかして、こいつがゼクトに電話した際に聞こえた『化け物』か? 何だってこんなところに?」


 殺傷行為で興奮した頭をクールダウンさせながら、状況を整理する。

 と、すぐにズィルバーの脳裏に浮かんだのはユアンと運ばれてきた人間の子供だった。


「まずい!!」


 居ても立っても居られず、ズィルバーは走り出す。

 恐らくだが……この一件、きっとあの子供が関わっている可能性が高い。

 ゼクトが依頼した仕事だ。 絶対に厄介事に決まっている。


「くそ、今日は厄日だ!!」


 そう、愚痴をこぼしながら、ズィルバーは病院の廊下を全力で走っていった。

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