第三話① 見たくない。そう思っても見てしまう


 これは、夢だろうか。わたしはあの酒瓶が散乱している部屋で、男の人に怒鳴られていた。

 その男の人は酷い人だった。無精髭で、わたしと同じ紫がかった青い目で、ボサボサの黒い長髪をいつも振り乱しながら酔っ払っていて、同じ家にいた女の人を怒鳴って、殴って、そしてそれは、わたしも一緒だった。


 容赦なく怒鳴られた。遠慮なく殴られた。特に何かをした訳でもなく、ただただそういう気が向いたからという理由だけで、わたし達は酷い目に遭っていた。当然、家の中からは出してもらえず、わたしの世界は、自分の家の中だけだった。

 一方で女の人は、そんなわたしを守ろうとして、更に酷い目に遭っていた。彼女の顔には、いつも痣があった。どうしてこの人は、こんなになってまでわたしを庇ってくれていたのだろう。今となっては、もう解らない。


 そんなある日。突然、男の人がわたしを連れ出した。泣きじゃくる女の人を蹴り飛ばして、わたしは彼に無理矢理車に乗せられ、外に出た。

 連れて行かれたのは、大きい建物だった。男の人はわたしを白衣を着たアフロ頭の知らないおじさんに引き渡すと、お金をもらって、一人で帰ってしまった。


「今~日から君は、ここで生活するんだよぉ」


 お金を渡したアフロのおじさんがそう言った。訳が解らなかった。あの女の人は、と聞いても、さあ知らないね、としかおじさんは言わなかった。

 わたしはそのおじさんによって個室に入れられた。どう見ても牢屋にしか見えないその部屋の入り口には、No.34とあった。周りには、同じくらいの子どもが一人ずつ個室に入っていた。


「ねえ、ここはどこなの?」


 閉じ込められてから、わたしは正面の牢屋の子に声をかけてみた。その子は男の子だったけど、体育座りをして顔をうつむかせたまま、ピクリとも動いていなかった。


「…………」

「ひっ……」


 その子が静かに顔を上げた。わたしはそれを見て、小さく悲鳴を上げる。彼の顔は、生気のない真っ青なものだった。しかも顔中が内側から膨れ上がっている。わたしが見てる最中にもボコッと、もう一つ膨れ上がった。


「……ここは地獄だよ」


 彼はそれだけ言うと、また顔を伏せた。それ以降、その子は顔を上げなかった。地獄だよ、と彼は言った。わたしがそれを思い知らされたのは、本当にすぐの事だった。


 急にあのアフロのおじさんに連れ出されたかと思ったら、手足を拘束され、手術台みたいな所で寝かされた。かと思ったら禍々しい赤黒い液体を、問答無用で注射される。

 その瞬間、身体が勝手に跳ねた。


「ア…………ッ!?」


「ム~フフフフフッ! さぁて、今度はどんな結果になるかなぁ?」


 身体中に何かが根を伸ばす感覚があった。自分の中身を喰い破って、何かが侵食していく感覚もあった。恐怖と痛みが一気に込み上げて、わたしは叫んだ。


「い、いや……いやぁぁぁあああああああああああああああああああああああああッ!!!」


 ここは地獄だよ。そう言っていた彼の言葉が頭をよぎった。

 そうか、わたしは。あの男の人のいる家という地獄から、別の地獄にやってきただけだったんだ。何故か自分の中で、ストン、っと納得して、わたしは泣き叫んだ。喉が枯れて、声が出なくなっても、わたしは口を開けて叫んでいた。


 あれから何日経ったのだろう。ご飯も与えられないまま、あのおじさんや他の大人達が、たまに思いついたかのようにわたしを連れ出す。

 そしてわたしは、身体を弄ばれるのだ。頭を開かれ、内臓を動かされ、注射に至ってはもう何回されたか覚えてすらない。ただひたすらに、苦しかった覚えがある。でもそれが長く続く内に、痛みと辛さを、もう感じてなんかいなかった。


 ふと気がつくと、わたしの前の牢屋にいた顔の膨れ上がった彼は、いつの間にかいなくなっていた。何処へ行ったのかなんて検討もつかなかったけど、これはこれで利用できる、と言う言葉がいつかの夜中に聞こえたような気がする。


「…………」


 わたしもいつしか、いなくなった彼のように体育座りをし、顔を伏せるようになっていた。今なら解る気がする。彼がどうして、いつもこの体勢でいたのかが。

 多分だけど、こんな世界を、現実を見たくなかったから、だと思う。少なくとも、わたしはそう思っていた。


「……死にたい……」


 いつしか、それしか考えられなくなっていた。ずっと番号で呼ばれ続け、頭を何回も弄られた結果、苦しかった思い出ばかりが残り、最早自分の名前すら思い出せない。

 こんな思いをするくらいなら、生きていてただ苦しいだけなら、死んでしまいたい。そう思って壁に頭を打ちつけていた。ただただ痛かった。でも死にきれず、その内に大人達が飛んできて、身動きできないように拘束された。遂には動く事すらも出来なくなった。舌も噛めないようにタオルを入れられ、わたしはただ、生きているだけ、になった。


 でもわたしには、ある希望があった。多分、放っておいても、そろそろ死ねる。感覚的にそう思っていた。ただでさえ、ロクにご飯も食べていないのだ。度重なる実験か何かで身体は既にボロボロだったし、もう動く力すら残っていなかった。

 ああ、やっと終わる。この苦しい世界から、解き放たれる。しかしそんなわたしの淡い期待は、ある実験で粉々に打ち砕かれた。


 いつものように何の液体かも解らないものを注射された時、わたしの身体に異変が起きた。叫ぶ気力すらなかった身体中が震え出し、ビクン、ビクンと跳ねたかと思うと、何と衰弱し切っていた筈の身体が元に戻ったのだ。

 ぐったりしていた筈のわたしは、びっくりして起き上がった。起き上がれてしまった。それを見た大人達が声を上げる。


「ま~さか……成功したんですかァッ!?」


 興奮した様子の大人達は、早速試してみよう等と言って、わたしの首を刃物ではねた。落ちていく視界に汚い笑みを浮かべた大人達が入ったかと思うと、やがて暗転して真っ暗になる。

 驚きもあったが、同時に安堵もあった。ああ、やっと死ねた……と思ったら次の瞬間、わたしは目を覚ましていた。目の前には、歓喜に満ちた顔の大人達がいる。


「や~ったッ! やったぞッ! 遂にやったんだァッ!!!」


 抱き合って喜んでいる彼らを他所に、わたしはただただ困惑していた。何が起きたのか、さっぱりわからない。

 しかし足元に何かがぶつかり、それを見た瞬間にわたしは理解してしまった。


「ひ……ッ!」


 わたしは声を飲み込むような悲鳴を上げる。足にぶつかったのは、はねられた筈の自分の首だったからだ。

 慌ててそれを見ているこれは何なのかと顔をペタペタ触るが、間違いなくわたしの顔は首の上にある。にも関わらず、もう一つのわたしの顔は床に転がっていた。生気のない両目が、生きているわたしを見据えている。


 何故そんな事が起こり得るのか。わたしがそれを理解するのに、さほど時間はかからなかった。大人達は寄ってたかってわたしを殺した。刃物で、鈍器で、毒で。おおよそ考え付く死に方を、わたしは余す事なく試された。

 そして、その度に生き返った。何度死ぬ思いをしても。実際に何度死んでも。わたしは生き返った。幾度となく殺され、幾度となく生き返って、わたしは遂に悟った。


 ああ……わたしは、死ねなくなったんだ、と……。


 生き返るわたしは精神的ダメージすらも元通りになり、何度も何度も辛い思いをする事になった。この身体は、心が擦り切れる事すら、許されなくなっていたのだ。ただそれは、この身体になった時からだった。それ以前に忘れてしまった事は、もう思い出せない。


「ど~して他の被験体ではNo.34を再現できないんだッ!?」


 心を殺す事すら出来なくなったわたしは、いつしか大人達の会話を聞くようになった。それ以外は痛いと、苦しいと、泣き叫ぶ事しか出来なかったから。


「さ~い現性がなければ、あの方は納得してくれないッ! 使える古い血にも限界があるんだッ! 何をしてでもコイツの身体の秘密を暴くんだッ! ど~せコイツは死なない。雑に扱ったって何の問題もないさッ!」


 あの方。古い血。よくわからない単語が飛び交っているけど、少なくともわたしがひたすら酷い目に遭う事だけは解った。事実。その次の日から、本当に酷い事をされ始めた。思い出すのも、嫌になるくらい。身体を弄るのに邪魔だからと服すら着せてもらえなくなり、ボロ布を羽織られるだけとなった。


 このままわたしはどうなるのだろうと思っていたある日。わたしに突如として転機が訪れた。鳴り響く警報音。慌ただしく動き回る大人達。


「侵入者だッ!」


 そんな声と共に爆発音が響き、大人達は壁と共に吹き飛んだ。牢屋の中にいたわたしは無事だったが、その煙の中から現れたのは、


「……対象を発見。これより連れ帰るわ」


 わたしのことを対象と呼ぶ、全く見知らぬ女の人だった。

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