浮気調査のその後に

独白世人

浮気調査のその後に

 この世に生を受けた者として、幸せになりたいと願うのはどんな人間でもそうだと思います。

 それならば、その“幸せ”とは何なんでしょう?

 この言葉ほどあやふやでふにゃふにゃしたものは無いと僕は思います。

 人というものは実に多種多様です。

 人前に出て率先して何かをするのが好きな人もいれば、そうでない人もいます。食べ物の好き嫌い一つとってみても様々です。ある人にとっての快感が、違う人にとっての苦痛になることもあるのです。

 人間と一言に言っても色々な人がいる。

 これは、そんなことを思い知らされたお話です。

 

 僕は探偵をしています。

 探偵と言っても、その仕事のほとんどは浮気調査です。テレビドラマに出てくるようなカッコ良い依頼なんて皆無です。銃なんて持ったことも無いし、必要だと思ったことすらありません。街の景色に潜りこみ、人の背中をコソコソと追いかける。それが僕の仕事なのです。

 人間というものは、ここではない何処か違う場所に行きたい動物なのでしょう。常に変化する景色を見ていたいし、同じ場所にとどまることが窮屈と感じる生き物なのだと思います。生涯通して愛し貫くと決めて結婚しても、時間が経てば気持ちも変わり、違う誰かと恋がしたいし色んな経験がしたくなるものなのです。

 尾行や張り込みをしている時、僕はそんなことばかりを考えています。こんな仕事を長年していると、誰のことも信用できなくなるのです。まず疑うことが仕事だからです。だから誰も雇わず、独りで探偵社をやっています。


 今回の依頼人は少し変わっていました。

「不安で仕方ないんです」

 開口一番にその依頼人はそう言いました。禿げ上がった頭。丸い鼻に、鉛筆で書いたような細い目。小太りで短足。ディズニー映画にでも出てきそうなその人は、まさに“さえないおじさん”でした。

「何がですか?」と僕は聞きました。

「去年、結婚したのですが、妻が浮気していないかどうか不安で不安で仕方ないんです」

 さえないその顔は、苦悶の表情を浮かべていました。

 彼は妻の写真を僕に見せました。正直、驚きました。お世辞にも彼と釣り合っているようには思えなかったからです。中年である彼とは年もかなり離れているし、何よりその写真の女性はとても美しかったのです。

「私には何も無いんです。この通り容姿が良いわけでもないし、それほどお金持ちでもない。だから彼女が私と結婚してくれた理由が全然分からないんです。彼女は、何も持っていないから、そこが良いって言ってくれるのですが、私にはその意味が全然分からなくって」

 汗かきなのでしょう。ハンカチで額の汗をぬぐいながら彼はそう言いました。

 そして続けてして彼の話では、妻の様子が最近少しおかしいと言うのです。彼は心配で仕事にも全然身が入らないとのことでした。

 簡単な仕事だ。僕はそう思いました。おそらく彼の妻の浮気は事実だろう。結婚してみたが、やはり若い男が良かったのだろう。写真のように美しい彼女なら、どんな男だって相手して欲しいに決まってる。

 そう思って僕は、彼からの浮気調査を引き受けました。

 

 調査を進めていくと、様々なことが分かりました。それは、僕の価値観や探偵としての人生を覆されるほどの出来事でした。

 彼女は浮気などしていなかったのです。

 それどころか、依頼人のことを心底愛し、その生活をとても楽しんでいるようでした。彼を会社に送り出した後は、家事を淡々とこなしていました。スーパーのタイムセールでおばさん連中に紛れて奮闘している姿は健気でとても好感を持てました。

 調査を始めて一ヶ月が経っても、怪しいことなど何も出てきませんでした。彼が休みの日は必ず二人で出かけて行きました。仲良さそうなデートの一部始終を見せつけられて、嫌な気分にさせられるほどでした。

 まいった。

 これは彼の思いすごしだな。心配で仕方がない彼が、些細な事に敏感になりすぎてしまっているだけなのだろう。

 僕はそう思いました。

 こんな事は、探偵業をしていて初めてのことでした。これまで、依頼人が怪しいと思っている対象者がシロなんてことは無かったのです。

 僕は彼に調査報告をしました。いつもなら数枚の証拠写真を見せながらするのですが、今回は何もありませんでした。

「心配しなくて良いです。奥さんは浮気なんてしていません」

と、報告はこれだけで終わったのです。

 

 しかし、彼は僕に追加の依頼をしていきました。その依頼内容はこうでした。

「妻の浮気が発覚するまで調査してほしい」

 

 その二年後、二人は離婚しました。

 離婚の申し立てをしたのは彼からだったそうです。

 その理由を聞いて僕は驚愕しました。

 

 ○○○

 

 人間特有のもので、幸せになるのにはあまり必要無いと思うものを考えてみました。

 葛藤。

 焦燥感。

 後悔。

 恨み。

 妬み。

 そして、不安。

 これらのような感情や感覚に果てしなく特化した人間がいたとして、その人間が幸せになれる可能性なんてあるのでしょうか?

 今回はそんなものの中の、不安と格闘した依頼人のお話でした。

 そうです。

 彼は、自分の妻がいつか浮気するのではないかという不安に耐えられなくなったのです。

 そんなことが離婚の理由になるなんて。

 まったく、幸せってやつはその人次第なんですね。

 

「これで不安な日々から開放されました。ようやく平穏な生活が送れます」

 最後に彼が残したこんな言葉が印象的でした。

 本当に馬鹿野郎ですね。

 もったいない。

 もったいない野郎。

 しかしながら誰しも人間は、持たなくて良い不安を少なからず抱えて生きているものです。

 例えば日本人は、健康や事故などへの不安から、がん保険や自動車保険に高額のお金を支払います。最近知り合ったフランス人のダニエルは、このことに対して「もったいない」と言っていました。


 何事も五十歩百歩と言えるのかもしれません。

 だとすれば、誰でももったいない野郎になってしまう。


 明日は我が身です。

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