(3)ジャブは基本です
頭の中で本日の流れを一度整理する。
先ずは柔軟体操。それを終えた後、マンツーマンで基礎的な動きをレクチャーする。それから軽くサンドバッグを叩いてもらい、最後にミットを2ラウンド。大まかな流れはこんな感じだったはず。
無料体験の時間は1時間。出来ることが限られている中、如何に興味を持ってもらえるか。それを考えながら進める必要がある。
簡単すぎても興味を持たれないし、逆に最初から難しい事をやると、今後やっていけなさそう。そんな不安を与えることになるだろう。
彼女が興味を持っていることは何か?それをしっかりと見定めてフォーカスしなければ。
「それでは雪谷さん。最初は柔軟体操から始めますね」
「はい。宜しくお願いします」
前屈や開脚を通して、彼女の柔軟性の高さが伺えた。何かしら、運動でもしていたのだろうか?それほど彼女の動きは良かった。
「はい。OKです。それでは、基本となる構え方をお教えしますね。両手を顎より高い位置で構えましょう」
「こうでしょうか?」
「ええ、いいですね。そして足の位置ですが、後ろの右足は、つま先の向きが斜め45度を向くようにしましょう。」
「分かりました。これで大丈夫ですか?」
「ええ。とても上手です!」
今しがた教えたばかりの構えは、とても綺麗だ。それに柔軟性もある。直ぐに出来たところを見ると経験者なのだろうか?
「では、まずこれが基本の攻撃となるジャブです。前足のステップと同時に、前の手を出します。最初はゆっくりで大丈夫ですよ」
だとしたら、今日のカリキュラムじゃあ退屈しそうだな。変更も検討してみるか。
「それではやってみて下さい」
俺の言葉を聞き、彼女は真剣な表情で頷く。左足を僅かに踏み込んだ、その瞬間!
ステーン!と転んだ。
『あうっ』と声を漏らした後、彼女は素早く立ち上がり直ぐに構え直す。
「しし、仕方無いですよ。次は前足の踏ん張りを意識して、やってみましょうか」
明らかに声が震えていることは自分でも理解していた。ちょっと待て、今どうやって転んだんだ??
マエアシ、フンバルワタシ。
呪詛のように、彼女はぶつぶつと何かを唱えている。
「行きます!」
そして、急にスイッチが入ったように合図を出す雪谷さん。
「ええ、頑張って下さい!」
セイ!と掛け声をつけた彼女は、異様に大きく左足を踏み込んだ。言いつけを意識して実行してくれたのだろう。踏ん張り過ぎた左足はつっかえ棒の様に彼女の下半身を固定した。対して、上半身は慣性により止まることを知らず、勢いよく前方へと移動していく。
その結果、それはもう豪快にコケた。
「ちょっ!雪谷さん、大丈夫ですか?!」
「な、中々の難易度のようですね」
ムクっと立ち上がると、中々奥義を習得できない主人公みたいなセリフを彼女は吐いた。
「いえ、基本ですよ」
「成程、基本が一番難しいと。深いお言葉ですね」
「そうですね!今、お伝えしたかったのは、そうじゃないですけどね?!」
思わず大きな声でツッコミを入れた俺に対し、キッ!とこちらを睨みつける雪谷さん。いや違う。これは?
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ぐすっ、ありがとうございました。今日は帰ります」
そのまま更衣室に入り荷物を抱えて出てきた彼女は、運動着のままトボトボとジムを後にした。
この間、実に7秒である。
状況がつかめずに、戸惑い立ち尽くすことしかできなかった。ただ、わずかに開かれた扉から入ってきた風は異様に冷たかった。
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