亡国の使徒

「こんにちは、ニッポン!」

 白い陶器で出来た青年が、日本の地に降り立つ。

 それは現代における「白馬に乗った王子様」の具現化そのものだ。

 癖のある髪が黄金にうねって輝いていた。白皙はくせきの肌には一点の曇りもない。目元は淡く朱が線を引いているようにみえる。瞳の色は翡翠がかっており、眩しそうに目を細めると、きらきらと万華鏡カレイドスコープのように輝いた。

 その姿は、完璧なあまりに、なにかヒトらしからぬ超常的な存在に思われた。陶器製の面を持つ等身大の自動人形オートマタといえば、この「精巧」と言うべき顔立ちに、人はむしろ納得したかもしれない。愁いを帯びた笑みにわずかばかり口角が上がるので、辛うじてその皮膚のうちに血が通っているのがわかる。

 さらには白いスーツが良く目立った。そのまま新婚旅行にでも行きかねないいでたちが、彼にはまさによく似合っていた。すべてが白く「輝く人」であった。

 ヒトらしからぬ存在であったが、青年は、人を惹きつける麗人の色香を漂わせていた。その時も、彼は見知らぬ女たちが、一歩日本の地に足を踏み入れた途端に、自分を取り巻くのに遭遇したのだった。セレブでも、アイドルでも、そして何よりも名前のない彼を、である。

(ねぇねぇ何処から来たの?)

(一緒に写真撮っていい?)

(とっても綺麗ねぇ)

 女たちに青年は微笑んだ。うっとりとした吐息が周囲から漏れた。

 案内役と合流するはずが、どうやら自分を取り巻く群島の中には見いだせない。そもそも案内役なるものが男か女か、姿形すら知らないままの彼であった。この微笑む陶器製の自動人形は、そのように「動作した」というべきだろう。

 それにしても、ちょっとため息を吐いたり、微笑を浮かべたりするだけで、嘆息の吐息に色めき立つ彼女達は、どうにかならないものか。

 なぜなら「お忍び」、だからだ。

「失礼ですが」

 しかつめらしい表情の男が、白皙の青年をドーナツ状に取り巻いている女たちを割いて現れた。目じりが浅黒く陰気で、神経質そうに、ぴくぴくと痙攣している。

 青年はその容貌に、案内人の姿を認めた。

「お迎えに上がりました、イシャラ様」

 イシャラの瞳が万華鏡のような輝きを帯びた。

「やぁ、きみが、そうかい?」

 すっとその場から離脱しようとするイシャラを、女たちが再び引き止めた。そうさせるなにか――それこそ魔導力でも、イシャラにはあるのだろうか。女たちは、一種の集団催眠にかかっているようだった。

 私は、今日はお忍びで日本に来ているので、内緒にしてくれるかい……などとイシャラは歌うように説明するのだが、とうの群島は嘆息するばかりで、まったくその鎖はほどけるようすがない。

「お早く」

 その声に、群島は一様にはっとした表情を浮かべ、次の瞬間には邪魔立てする案内役をいっせいににらみつけて、彼をたじろがせたのだった。「イシャラ」と呼ばれる青年の美声より、案内役の険のある声のほうが、群島の女たちには、この際有効だったようだ。

「やれやれ」といった表情を浮かべると、名残惜しそうな女たちに愛想を振りまきながら、イシャラは案内人と共にその場を後にした。

 案内人の男は、イシャラの日本入国を手引きした人物の私設秘書を務めているらしい。車中名乗ろうとする男を、イシャラは手で制した。

「お互いに知らない方がいいことも、あるんじゃないかな?」

 自分の名前は必要とされていないのだ。と、秘書官はいくらか自尊心を傷つけられた。

「お待ちいただければ、こちらで大過なく回収できましたものに……」

 秘書官は、明らかに批難がましい調子をこめて言った。それは、この白皙の美青年にいくらかでも抗したい気持ちもあったからであろうし、それにあまりに華やかな彼の登場は、今後彼ら一党の行動に差し支える。

「今回の空の旅は、あまり快適じゃなかったものでね」

「あなたは、そう……目立つ。その点を――」

「そう、私は目立つ。目立ちすぎる」

 イシャラは、そう屈託なく返した。

 秘書官はあきれた様子で、むっつり黙り込んでしまった。とは言うものの、相手はこちらの招いた客人である。

 うつり気なようすのイシャラは、思いついたように話題を転じる。

「君のご主人は、どうしたんだい?」

「時期を待ってお会いいただきます。……あとお言葉ですが、民主主義に主従の関係は存在しません」

「民主主義、ねぇ……」

 イシャラは車窓からの景色に、眩しげに目を細めた。

「私たちの主の御許に一番近い場所だ。なのに民主主義、か?」

 秘書官は答えようとはしなかった。もっとも、イシャラは答えを必要としなかったが。

「それにしても、人類の危機なんて、初めは言われていたにしては呑気なものだね」

 イシャラはそうため息交じりに呟いた。

 たしかに車外の景色は、人類の危機や国家の滅亡とは無縁である。〈霊素〉や〈擬天使〉は確かに厄介であった――が、自分たちの身に降りかかりさえしなければ、すべては他人事であった。「租界から離れてさえいれば安全である」という根拠の希薄な考えが、人々を安心させていた。

「――〈進軍ラッパ〉を吹いた際のデータです。興味がおありでしょう?」

 備え付けの端末に、秘書の言う〈進軍ラッパ〉の資料が転送された。

 それを眺めているイシャラの表情は、見る見るうちに曇った。

「これが正確なデータだとでも?」

 ――これでは〈進軍ラッパ〉としてはどうにもいただけない、と彼は小さくつぶやいた。

「思いっきり吹いたことはないんだろう?」

「あなたが来るまでは、その必要がない、と……」

 その返答に、イシャラは大げさにため息をついて見せた。

「あまねくすべての人々に、御使いのラッパの音が聞こえなければならないというのに。まったく、ちかごろ他人というものは信用ならない。すべて自分でやらなければいけない、な」

「擁護するわけではありませんが、ことは慎重さを必要とします。今は過渡期ですから、しかたがありません」

 秘書官の言葉に、イシャラは皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「確かに過渡期だな。『地球と人間の肉体的、精神的変化までドストエフスキー『悪霊』』だ。」

「『悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆け下りて溺るルカ福音書八章三二―三六節前掲書にもエピグラフとし登場する』」

 秘書官は返して、得意げな表情をバックミラー越しに浮かべた。

 きみは小賢しい――イシャラはその言葉が口の端に上る前に、呑み込んで、代わりににこりとバックミラー越しに投げ返したのであった。

「さて、悪霊はどちらか? いずれ明らかになる」


「三八度きっちり、ねぇ……」

 医療用胎生ナノマシン(メディファージ)の警告を無視した結果、がこれである。

「そりゃそうさね。免疫が下れば病気にかかりやすくなる。それは魔女だろうとアホウだろうと一緒だよ。ナノマシンだって人間のこさえたもんだからね。完璧なわけじゃないよ」

 グランマーマ・ソフィアは呆れを含んだため息交じりに言った。

「あとでカーシヤを作ってやろうね」

 発熱で弱り切ったヒルコは、いつになく正直に、大人しく頷いた。

「あのバカこーじ……無理やりハーネスを押し込みやがって」

 ヒルコがぶつくさ毒づいているのを聞きつけて、ソフィアはふたたび深々とため息を吐いた。

「コウジはね、今ロッテに灸を据えられている最中なんだよ。そんなこと言うもんじゃないよ」

「バカこーじが?」

「そうさ」

「待ってよ。なんでバカこーじが怒られなきゃなんないんだよ?」

「コウジたちはおまえたちに責任があるからだよ。なんせおまえたちは『この世界への贈り物』だからね」

「『この世界の贈り物』……ね。の、わりには、この仕打ち。割に合わないような気がするけど」

(その子から離れろッ。不浄めぇぇええ! 悪魔の手先ぃいい! 悪霊たいっさーーん‼)

(これは天が与えたもうた慈恵なのだ。神が私たち家族に救済を与えて下すったのだ。この子を苦しみから解放して、新しい体を、あの天使様を介して与えて下さるというのに。それをお前は邪魔しているのが……分からないのかぁああああ!)

(……お前のせいだ)

(お前の魔女くさい臭いのせいで)

(その怒りはもっともな事です、ヒルコ。でも――)

(『力を持った者は、その如何に関わらず、その力を飼いならさなければならない。力に飲まれる弱者でいてはならない』)

(えぇ、ヒルコ。あなたを飼いならすための)

「あぁ、ムカつく」

 ヒルコは悪態吐いたが、思い出せば思い出すほど瞼の裏側に熱がこもり、その熱源に、ありもしない故人、養父――の苦海壮一の峻厳なまなざしがよみがえってくるのだった。

 そして、伊藤浩司の。

「あたしたちの力は危険で、科学で説明できない、気持ちの悪いもんなんだから」

「そうお言いでないよ。さ、とにかくたんと食べて元気をつけないとね!」

 と、ソフィアはウィンクして見せた。

 —―しかし、そのとうの「バカこーじ」は、実際にはグランマーマ・ロッテンマイヤーにこってり絞られていた、というわけではなかった。

 今日も今日とて、ロッテンマイヤーの執務室両端には、つがいのアウスグスたちが鎮座ましまして、若い訪問者である浩司を、磨き上げられた黒曜石の瞳でじっと睨みつけている。

 ロッテンマイヤーはヒルコに「灸を据えるべきだ」と言った。

 その行いは軽率であり、思慮に欠け、猪突猛進で、怒りに任せたものであり云々……。

 ふと、ヒルコの短所の列挙が途切れると、

「良き魔法使い・魔女とはいかなるものか。わかりますか、コウジ?」。

「みだりに術を使用しないこと……でしょうか?」

「模範的かつ一般的な回答ですね」

 それが良いとも悪いとも、ロッテンマイヤーは答えなかった。

 グランマーマ・ロッテンマイヤーから、浩司は定期的なレクチャーを受けていた。魔法使いと魔女の歴史は、ヨーゼフ・マイリンクの労作『魔女たちの文明史』が詳しいが、慣例から書籍化される本邦訳からして一千ページに上る大著である。

「——良き魔法使い・魔女とは無力なものです」

 と、ロッテンマイヤーは言った。

「わたしたちは三賢女だのグランマーマなどと呼ばれていますがその名に値しません」

「そんなことはありません、グランマーマ・ロッテンマイヤー。あなたもグランマーマ・シルヴィアもグランマーマ・ソフィアも、寄る辺のない彼女たちの立派な母親たちではないですか」

「まぁ、お世辞がお上手になったこと。……二人はどうかわかりませんが、私の場合は世間知らずで、わがままで身勝手で、自分の可能性、つまりは私の魔法の力と言うものに絶対的な自信を持っていました。直情径行で熱しやすくまた冷めやすく、こうと信じたらその節を曲げることはない。そして何者かになりたい、いやならずにはいられない」

 まるでヒルコのようだ、と浩司思った。

 ふっとロッテンマイヤーは笑みを浮かべた。その笑みが、まるで自分の心を見透かされたかのようだったので、浩司はどぎまぎした。

 昔話だと前置きしたうえで、ロッテンマイヤーは話し始めた。

 ことは一世紀以上さかのぼることになるが、ロッテンマイヤー、ソフィア、シルヴィアの「ワプルギスの三賢女」という長寿の実例を目の当たりにしているせいか、浩司は素直に受け止めている。魔女たちの良き理解者であるマイリンクにしろ、伝説的なオール・グランマーマの秘跡を授かった影響によるもので百二十五歳というから、驚くに値しない。魔法使い・魔女たちは自然に代謝を調節し、細胞を活性化させて、つねに若返っているものなのかもしれない。

 さて、常なる魔法使い・魔女たちの、世俗への恭順——歴史の表舞台への登場の公式な始まりは、オーストリアフランツ・フェルディナント大公暗殺に端を発している。つまり第一次世界大戦の勃発を嚆矢とするのが一般的である。この地上において閉塞状況に陥った塹壕戦を打開する一翼を、魔導飛行士たちが担ったのである。

 第一次世界大戦後、とくにこぞって歴史に恭順した常なる魔法使い・魔女たちを任用したのが、ファシズム陣営と自由主義陣営である。歴史に恭順した常なる魔法使い魔女たちは、国家や民族、自由や民主主義というスポンサーを背負って立つことになった。

 逆に共産主義陣営では魔女狩りが復活した。この傘下にある国や地域に生まれ、歴史に恭順した常なる魔法使い・魔女たちは、粛清や追放、離散の憂き目を見る事になる。グランマーマ・ソフィアもその被害者であった。

 つまり一つは反近代の象徴として、一つは近代の征服として、そして最後の一つは近代の抹殺として現れた。しかしそれらは、意匠は異なっているが、中近世の魔女狩りに対する言い訳という意味で共通していた。

 ドイツにおいてはナチスがトゥーレ協会やデートリヒ・エッカートを経由して、鉤十字やジークルーンの意匠から――つまりは形から入ったのだが――歴史に恭順した常なる魔法使い・魔女たちに接近してゆく。総統フユーラーのオカルト信奉の真偽は別として、ロッテンマイヤーらは近代超克の象徴だったのだ。

「何と言ったらいいのでしょう……そう、普通になりたい――そのような願望だったのかもしれませんね。そのために私たちは国家というものを信じるように努力し、町を焼き、兵士たちを焼き、人間を――そう、私たちが忌み嫌っていた方法を、用いることになったのですから」

 いつしか、ロッテンマイヤーはシルヴィア、ソフィアと共に「三凶女」などと言われるようになった。これは全く周囲がそう言っただけで、ロッテンマイヤーとしては、ソフィアは許せるにしても、シルヴィアと同列に「凶女」とされるのには、いささか不満があったようだ。

 そして、ついに首都ベルリン陥落の報が届く。

 総統マイン・フユーラーは自殺したようだった。

 ロッテンマイヤーはシルヴィアと交戦中、総統の放っていた〈叢〉に似た力の流れの消失を感じて、ついに自分達の時代が終わってしまったことを悟った。そうなれば、もう戦う意味を、彼女は見いだせなかった。

(――ですがいま思うと、グランマーマ・シルヴィアだけは打倒して(うちたお)おくべきでした)

 と、珍しく冗談交じりにロッテンマイヤーは言った。

 さて、魔装解除したロッテンマイヤーは捕らえられる。

 ニュルンベルク裁判後、一九四六年十二月から一九四九年五月にかけて、アメリカ軍はナチス戦犯を裁くために十三の軍事法廷を設置した。

 ニュルンベルク継続裁判である。

 医師裁判――エアハルト・ミルヒ裁判――法曹裁判――親衛隊経済管理本部裁判――フリードリヒ・クリック裁判――IG・ファルベン裁判――捕虜裁判――アインザッツグルッペン裁判――親衛隊人種及び移住本部裁判――クルップ裁判――大臣裁判――国防軍最高司令部裁判――。

 そして第十三、魔導士裁判。

 中近世の魔女狩り・魔女裁判もかくや、である。当然のように、批判や不満はこの闘いに参加し、また、させられた常なる魔法使い・魔女たちから噴出する。

 不満の爆発は、実際に「ニュルンベルクの反動」と呼ばれるものによって、「科学による文明の優位」を誇る人々を激震させた。戦勝国敗戦国を問わず、この戦争に参加した、常なる魔法使い・魔女たち――が、いっせいに蜂起したのである。それは未だ、俗世に恭順した常なる魔法使い・魔女たちの潜在的な力が、知覚可能な自分たちの科学文明の脅威になりうることを示した。もとより、常なる魔法使い・魔女たちにとって、国家への帰属意識、愛国心、と言ったものは本来的に希薄である。

 そしてその蜂起の先導を切ったのが。

「オール・グランマーマ。私たちすべての母たる存在。その母が、私を闇のなかから救い上げてくれた」

 と、ロッテンマイヤーはうっとりとしたようすで言った。

「ニュルンベルクの反動」と呼ばれる危機を経て、かくして、ニュルンベルク継続裁判の十三番目、魔導士裁判は、その審理を停止する。ロッテンマイヤーは、辛くも生き延びることになった。

 この「ニュルンベルクの反動」の教訓を経て発効されたのが、対人の攻撃魔導や政治利用を禁止した「ニュルンベルク国際魔導条約」である。

 この条約は徐々に拡大解釈された。それは大なり小なり俗世に恭順した魔法使いと魔女が、その方向に仕向けたのだった――が、国権の発動たる「戦争」における、魔導の使用禁止から、対人における攻撃的な魔導の使用全てに、条約は拡大適用されるようになった。一般に国家が国民にたいして生存の権利を保障するように、また一般に国民が、自己に危害を加える者に対して自衛の措置を講ずるような段階に――まで、彼らは自らの力を封じ込めたのである。

 それと並行する形で、魔法使いや魔女たちの治癒能力・まじない薬の類は、眉唾物の民間療法として追いやられ、飛行術や四大元素〈火・風・水・土〉と、その媒介となる第五元素〈エーテル〉を利用した破壊能力は、「厳正なる」物理や科学、に取って代わられた。俗世に恭順した魔法使いと魔女は、つまり歴史の表舞台に姿を現した瞬間に、実はその力を失っていたのである。

 新しき魔女――つまり魔法少女たち、であるが、この観点からいうとマイリンクのいう「その時が来るまで、彼女たちの力がしかるべき時、しかるべき方法で発揮される時が来るまで、つまり〈贈り物〉は秘されたのだ。」という言葉は、この情勢下では決して実現しないもののように思われた。

 そこにはマイリンクの思惑と魔女たち――つまりオール・グランマーマを中核とするところの〈俗世に恭順した魔法使い・魔女たち〉との間に意見の相違が、これからの魔法使い・魔女たちの在り方に対してあったことが挙げられる。マイリンクはそうした常なる魔法使い・魔女たちが、科学文明の危機に際して、本来の自然へと帰る旗印になると主張――というよりも希望したのに対して、とうの常なる魔法使い・魔女たちには、そのような旗印、導き手になろうなどという野心が毛頭なかったからである。

 マイリンクが、「その時」をはっきりと明示したことは無い。

 しかし、「その時が来るまで、彼女たちの力がしかるべき時、しかるべき方法で発揮される時」は、ふいに、また不幸にも訪れてしまった。

 霊素現象と、それによる〈物象化〉=〈擬天使〉の出現がそれである。また、物象化したものを天使とし、魔法少女たちがその敵である、とする〈天使派〉の論理を、マイリンクは呪物崇拝(Fétichisme)と、論難した。だが物象化したものを〈擬天使〉と呼称したのは、そもそも〈俗世に恭順した魔法使い・魔女たち〉のほうであって、これは〈天使派〉たちのミスリードを、とうの魔女たちが煽動した感は否めない。


 —―男はひんやりとした気配に、寒気を覚えて目が覚めた。

 気が付けば、秘書官は見覚えのない部屋にいた。窓もなく、むき出しのコンクリートの壁から、きっと地下室のようなものだろうと想像する。

「なんだ……これは……」

 手足をがっちりと椅子に固定されている。

「〈約束の地〉さ。と、いうよりその入り口、かな?」

 闇の中から浮かび上がってくるかのように、白磁器の顔を持った青年が姿を現した。

「イ……イシャラ……」

 秘書官は歯噛みした。

 秘書官とイシャラを乗せた車を取り巻いたのは、彼ら一党の息のかかった厚生省魔薬取締局――通称「マトリ」の非公然部隊の手練れを乗せた車のはずであった。あとはイシャラを「マトリ」の連中に引き渡せばよかった。

 まさか、だ。

 四方を遮った車中から現れたのは、あろうことか時代錯誤としか言いようのないいでたちの者たちだった。

 表面に蠟を引いた重布と革製のガウンに、赤褐色のつば広の帽子。そして、とくにその特異さを印象づける、鳥のくちばし状の黒マスク。マスクの両目の部分には、赤いアイピースがついていた。これは感染者の「邪眼イーヴイル・アイ」から、その両目を保護するためのものである。十七世紀から十八世紀――すなわち黒死病ペストの二度目の世界的流行の渦中、感染源とみなされた瘴気ミアスマから身を守るため、これに対峙した医師たちが装着した防毒マスクであった。これは数世紀を経てなおも彼らを表す象徴として機能した——ペストマスク(メディコ・デッラ・ペステ)の面々、であった。

 ペストマスク一行の登場に息をのむ秘書官に対して、イシャラの万華鏡のような瞳は、バックミラー越しにぎらぎらと輝きだし……そして。

 気がつけばイシャラの言うところの〈約束の地〉の入口である。

「本当は誰の差し金だ? 〈勧善懲悪委員会〉じゃないのか? それとも教会か?」

「堕落した地上の教会に興味はない」

 と、イシャラは忌々しそうに言った。

「……! では常任理事国のいずれか、なのか? も、もしかして全部――⁉」

 青ざめわなわなと震える秘書官に対して、イシャラはやれやれと呆れたように首を振った。

「我々はこの地上に国を持たない。目指すのは常に第三の国だ。それはまだ、遠く地球の圏域の外にある。だが、それは遠くありながらもっとも近くにあるものだ。人類がそこに到達するのにはまだまだ時間がかかるのかもしれないし、『神の予定では、ことによると、すでに実現の直前にあって、もう戸口まで来ているのかもしれない(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)』。だが、我々はまだはっきりとそれを知ったわけではないから、国を失うことはない……地上の国を失った民族はみじめだ。特に大国とこれに唯々諾々と従うしかない魔女どもの、悪魔みたいな二枚舌三枚舌にチロチロ踊らされて、身内同士で殺し合うようになっては、な。魔女と異端が一掃されるまでは、真の王国マルクートは現れない」

「まったく異名通りだな、魔女狩り将軍(マシュー・ホプキンスのこと。イングランド東部を中心に、一六四四年から一六四六年にかけ「魔女狩り将軍」を自称して、魔女狩りを行った人物)になるのがおちだ」

「ちがう。マシュー・ホプキンスはまがい物にしか過ぎない。もとはうだつの上がらない弁護士で、不正で魔女を生み出していたたかり屋だ。証拠とされた魔女の印は彼の手によって偽造されたものだった。それで最後は相応に彼自身も『魔女』として殺された。――だが、私は間違えないし、不正も行わない。新しき魔女には、もうハーネスがついているじゃないか? 私には不正のしようがない」

 イシャラの目はぎらぎらと輝き始めた。

「さて、いったいどういう事になると思う? 救国の旗印とは名ばかりのクーデターによって、ある男は新しき魔女たちを救えぬまま滅びた。その男は持てるものの勤め(ノブレス・オブリージュ)を実践してすべてを失ったんだ。もっと悪いことに、かの国とその国民を新しき魔女の約束の地、救世主と見込んだ誰もが、その国と国民の行く末を忘却の彼方に、追いやった。しかも一瞬のうちに」

「お願いだから、放してくれないか? 私はそう、単なるつかいっぱしりだ。あなたの言うとおりだイシャラ」

 秘書官はふいに弱弱しい声を上げた。泣き落としに転じたようだったが、これほど分かりやすいのでは、イシャラの人情に訴える心理的な効果は期待できそうもない。

 それに、イシャラは秘書官の言葉など全く聞いていなかった。

 かちゃかちゃと金属製の器具が触れ合う音がすると、イシャラはそちらに目をやった。居並ぶペストマスクたちが、銀灰色に鈍く光るカートワゴンを秘書官の傍に寄せると、それを見せつけるかのように、黙々と拷問器具の手入れ作業を進める。秘書官は恐怖に顔をひきつらせた。いっぽうイシャラのぎらぎらとした万華鏡の眼光は、その時ばかりは、この光景を慈しむように和らいだ。

「ここにいるのは皆心根の優しい者たちばかりだ。そして、見ての通り信仰を癒す医者でもある。ここにいるのは新しき魔女たちの行く末を案じる者、滅亡した祖国の再興を願う者、いま滅亡の淵に立つ祖国を憂える者、そしてそれらすべてを覆うこの世界の信仰の揺らぎに疑念を抱き、正しき信仰の道を求める正しき者たちの集合体だ。全にして個、個にして全。我々は歴史の全体者であり、そして――」

「な、なにを言って……ひいぃいい!」

 イシャラが手首を戒めている万力を、さらに締め上げたため、秘書官の言葉の先は甲高い悲鳴となった。

 イシャラはにこやかな表情で続ける。

「――我々は歴史と言うものを、正確に透視する観察者だ。正確に観察するとはどういうことかわかるか? 起ったことを忘れないということだ。忘れない為に最も有効な手段とは何か? それは当事者になることだ。当事者は決して忘れたりしない。我々は信仰の医者だ。記録を残し、最善を尽くし、ときには助言し、信仰が病んでしまった世界に対して、公平に治療を施す」

 秘書官はイシャラの懐のあたりを一心に見つめていた。時折彼の懐のあたりが、なにかの拍子に銀色に鈍く光っているのである。

 イシャラもそれに気がついた。銀に光るそれをつかみだすと、それは拳銃の形をしていた。本体を銀色のサテンクロームメッキと、樫の葉をモチーフとした精密な文様を象牙のグリップカバーに施された、ルガーP‐08(ピストーレ・ヌルアハト)であった。

 シリアルナンバー16999。ナチス・ドイツ敗戦後、最初の主人であるヘルマン・ゲーリングの手を離れて、終にオーレリア大公家の持ち物となった、通称ゲーリング・ルガーのそれであった。

「……殺す気なのか?」

 かろうじてそれだけが聞こえた。

 それは命乞いか何かだったのだろうか。

 だがイシャラとの間に、会話とか対話というものは成立しなかった。中近世の魔女狩り、魔女裁判、そして異端審問の方法をもってして、彼自身の言うところの「裁判」を経て、被疑者は魂を浄化するべく、イシャラたちの手によって自白し、そして浄化のための本当の「処刑」を自ら望むようになる。ここに会話や対話は用をなさない。

 その苛烈な方法から、〈天使派〉を称するコミュニティの一派で、〈魔女狩り将軍マシュー・ホプキンス〉と畏怖されるイシャラであるが、それはイシャラの真の姿を体現しているわけではない。「裁判」の真の目的は、新たな情報でも、命乞いによる彼の仲間の裏切りでもない。またはそれによって贖われる金銭のためでもない。その審問の果にある処刑は、処刑による死が目的となるわけではない。なによりも審問にかけられる者自身の救済であり、浄化だ。

 イシャラはそれまでの魔女狩りや、彼の属する〈勧善懲悪委員会〉の末端構成員ごろつきたちとは性格が違った。彼らを自白させ、自らの魔女として生まれたことの罪、魔女との異端的関係を持ったことの罪……彼らはそうした様々を悔い改め、浄化され、処刑を求めるようになる。

 そして最後には、誰もがあのひとを愛するようになるだろう。

「歴史を観察する、そのもっとも高い視座を持つ者は、死刑囚であり且つ死刑執行人だ。そして死刑囚でありながら自らの死刑執行人であるものは、いちばんあのひとをよく知っている。自らの一身をもって扉を示したあのひとのことを」

 そして、この男もまた、そうなるだろう。

「あ、あのひと……?」

 答えることなく、花いっぱいに咲くように、イシャラは笑みを浮かべた。

「お前は異端者か?」

 事態は動き出そうとしていた。


 むっとするような生臭い臭いが、地上から漂ってきた。

 地上に点々と血痕が見受けられる。周囲には白くぶよぶよとした生き物が蠢いていた。その背中には翼を模した突起が折りたたまれて、時折体の動きに応じてゆらゆらと揺れていた。

 形状から〈力天使ヴアーチユ〉のようである。

「地球の爬虫類人類レプリテイアンによる支配」を信じている手合いが、泣いて喜びそうな形状をしている。爬虫類様の頭部に、ヒトに近い体つき。そして天使の翼……。これまでに現れた〈擬天使〉のどれよりも、ヒトの形に一番近しかった。

 また、この〈力天使〉には、従来の〈擬天使〉には見られなかった、道具を使うようすが確認された。〈力天使〉は、各々鉄パイプや先の尖った銅杭を携えていたのである。〈力天使〉の一群は、時折それで周囲を打ち叩いて、魔法少女たちがそれ以上近づいてくるのを威嚇しているのだった。

「やぁあっと、少しは面白いのが出てきたってな」

 武者震いに、ヒルコはギザ歯をきらめかせてにかりと嘲笑わらった。体調は上々、だった。

 一体の〈力天使〉がひしゃげた鉄パイプを高々と振りかぶって、ヒルコのほうへ躍りかかってきた。

 かちん――。

 一瞬のうちに〈力天使〉の爬虫類様の首が消えた。実際は7.63×25mmマウザー弾がその頭部を膨張しながら貫き破砕した刹那、目に見えぬくらいに縮退してしまったのだった。

 その法具モーゼル拳銃の銃口からは、硝煙がかすかにたなびいていた。

「さっすが、〈力天使〉にまでなると猿知恵がはたらくのッなッ!」

 だが半分飛び道具のような法具と鉄パイプや銅杭では、それぞれがある状況下に、ただ武器として扱われる点においては不均衡である。『旧約聖書』中「サムエル記」に登場する、ペリシテ人巨兵ゴリアテと、投石器スリングシヨツトによってこれを打倒した牧者ダビデの神話から見ても、この傾向はさほど変わらない。

 そしてこの時も、そうだった。

 ヒルコのモーゼル拳銃が。

 ユカの戦斧が。

 エマとユマの鉾が。

 そしてマリア・Kのメイスが……。

 彼女らの活躍によって、ついに〈擬天使〉は掃討される。

 そうである、はずだった。

 マリア・Kは空にメイスをかざした。霧にも似た魔導力がメイスの尖頭に集中する。

 マリア・Kのメイスが、蒼ざめた焔をまとい始め、

〈邪よ、燃え――〉

 ひゅんっ――。

 鈍く光るが、すさまじい勢いでマリア・Kに向かって放たれた。

 銅坑、であった。

 マリア・Kがはっと声をあげたときには、すでに箭は彼女の頬をかすめるように飛び去り――、

「ゔ¬¬¬¬¬――――――ッ⁉」。

 マリア・Kの後背に陣取っていたエマの体が、奇妙な声と箒をその場に残して、後方へと飛び退すさった。

 エマの胸元に食い込んだ鉄パイプが瓦礫の山に突き刺さると、彼女の身体はそのまま宙づりにぶら下がった。

 魔法少女たちに、不気味な静止の時間がおとずれた。

 なにが起こったのか、誰にも分らなかった。

「うわあああああああ‼」

 音割れしたような悲鳴が、いっぱいに響き渡った。

「離れろ! 離れろ! おねぇちゃんから離れろおおおおおお‼」

 ユマの泣き叫ぶ声に――〈力天使〉が嘲笑うように「げるうううううっ」とでも形容するよりほかない呻り声を発した。それでやっと、リトル・トーキョー隊の一同は金縛りを解かれたのだった。

 ユマは〈力天使〉をやたらめったら鉾で殴りつける。加勢した魔法少女たちは、殺到して刺突、斬撃、銃撃――し、〈力天使〉たちを蹴散らした。

 磔にされたエマの体は、その間もかわるがわる〈力天使〉に啄まれ、見るも無残な姿に変わり果てていた。

 それは、「裏切り者のユダ」が首をつって、内臓が悪魔の手によってまき散らかされた——その姿をほうふつとさせたのだった。

 国際魔法少女旅団が〈霊素〉および〈擬天使〉と対峙してから、これが初の犠牲者となった。……

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