新造天使



 魔法少女たちは陽気に〈擬天使〉を殺すことができた。もともとヒトでありながら、人間としての過去を、その姿にいささかも見出せないこと――が、心理的にそれを容易くしていたのである。

〈擬天使〉は魔法少女たちの手によって、切り裂かれたり、叩き潰されたり、撃ち抜かれたりした。その断面から噴き出す、霧状の血煙から立ちのぼる臭いや、腐り始めた〈擬天使〉の放つ、憎悪をもよおす腐敗の悪臭が、魔法少女たちの神経を刺激し、戦いへと駆り立てるのである。

 また、なによりも「ハーネス」と呼ばれる魔導流出を制限する装置が引き抜かれ、〈叢〉の外部への「浸透」が開放されたことによる、いうなれば快感もこれに手伝っていた。

 魔法少女たちは一方的に〈擬天使〉を狩っていた。相手は規律も自制も理性もなく、やみくもに突進してくるばかりである。魔法少女たちはほとんど独壇場であった。

 どろどろと溶け出す臓腑と脳漿と血潮が、雨となって降り注ぐ。

 バッコスの信女のごとき繰り広げられる饗宴を、その活躍がなければろくに撃退するすべのない大人たちは、感謝より先に恐怖を感じる者のほうが多かった。

 そして魔法少女たちは、いつかは魔女になっていくのだ。そのことに、ある人々は一抹の不安を感じないではいられなかった。


 港湾に停泊中の艦船は、見る見るうちに伊藤浩司、的場均そしてグランマーマ・ロッテンマイヤーの視界を覆い隠していった。

 ミニッツ級原子力空母ロナルド・レーガン。

 第四十代旧合衆国大統領の名を冠するこの原子力空母は、唯一海外を母港とし、先の合衆国の内戦でも直接的な被害を受けることなく今日まで生き残った。

 そして、現在所属するのは、

〈ようこそ、アメリカ連邦共和国へ〉。

「お得意様、のお呼び出しじゃなきゃ、わざわざこんなけったくそわるい敷居を跨がなくても済むんだけどな」

「聞こえますよ、ヘア・マトバ」

 と、ロッテンマイヤーはたしなめた――。


「――私が申請した二月有事の資料は?」

「却下された。特定秘密保護の観点から……法規的措置、だ。ま、俺たちにゃどうしようもないな」

「法規的措置、ね」

 シンシアは明らかに嘲笑の笑みを浮かべた。

 シンシア・クレイヴス。公開IDによればWHOの生物物理学者だそうだが、その枠にとらわれない鵺的な存在感がある。霊素現象と〈物象化〉の調査研究のために日本を訪れたものの、日本政府は租界上空に位置する時空断裂の調査を、そもそも他国に許可しようとしない。

「貴方たちから直接お話を聞かせてもらえないのかしら? 二月有事の生き残り二人に」

 助言者二人の表情が曇った。

 ふっとシンシアはため息を吐いた。

「租界上陸も許可が下りず、定点観測装置の取り付けもそちら側で、おまけに〈擬天使〉の本体サンプルも、損傷が激しくて完全な個体はひじょーうに少ない。法規的措置、法規的措置。この現象を解決しようと協力する意思が全く見受けられないわね。日本政府も日本人も」

「シンシア……」

「だったらせめてあの娘(魔法少女)たちに、もう少しうまく殺すように計らってくれないかしら?」

 思わず立ち上がった浩司を、ロッテンマイヤーは目で制した。

「シンシア・クレイヴス。苛立つ気持ちは分かりますが、私たちならまだしも、娘たちにもそれを向けるのは筋違いというものです」

「まてよ、俺たちは雇われてるだけだぞ?」

(余計なことを言うな)とばかり、ロッテンマイヤーは鋭い目つきを的場に走らせた。

「私たちの娘たちは、皆目見当もつかない未知のものと戦っているのです。私たちがふがいないばかりに。ですからせめて少しでも、私たちは各人の専門とする分野で、彼女達をサポートしたいと考えます。シンシア・クレイヴス。貴女にも困難や不服があるのはわかります。しかし私たちも、われわれに助けを求めた日本政府も決して何事からも自由であるわけではありません。それを踏まえて、協力を願っているのです」

 ――〈物象化〉するということは、ヒトとしての形を保てなくなることである。彼らの身体は、見つからなければ「行方不明者」とされる。その時点で生存は絶望的、と言わざるを得ない。

 検体としてその死骸が残されるのはごく一部で、残りは衛生・防疫の観点から、魔法少女旅団と助言者らによって一通り「やっつけられた」のち、後片付けのため派遣された陸自によって即時焼却処分される。前世紀に「人道的見地」から、その戦闘兵器としての役目を終え、米軍すら一九七八年に装備から廃止した携帯用放射器(戦後米軍から供与されたM2火炎放射器改良型のこと)が、改良に改良を重ねられながら現役で活躍している。

 検体の少なさは、なにも魔法少女たちが「うまく殺す」ことが出来ないという事にばかりあるのではなかった。「焼却により消毒する」という、日本政府の基本的な方針に立ったまでの事だ。シンシアがそれを知らないわけがない。

 シンシアがため息を一つ吐いた。

「まぁ、あなたたちと旧世代のお荷物の押し付け合いをしたいわけじゃないし。今回あなたたちをお招きしたのは中間報告を、ね?」

「というと?」

「〈擬天使〉は——というよりも、そのもとになった元人間は、〈物象化〉という名の自己融解(生物がその死後、自らの酵素の働きによって体が柔らかくなること)を起こしているのよ」

 シンシアは手元のフレキシブルディスプレイを丸めたり広げたりもてあそびながら、自信たっぷりに言った。

「霊素は酵素だってのか?」

「酵素を運ぶなにかとセットと考えているわ」

 シンシアはいたずらっぽそうな笑みを浮かべた。

相利共生そうりきようせいの関係ね。例えばハキリアリのコロニーはアリタケの存在と表裏一体で、アリタケはハキリアリの運ぶ葉を栄養源にしている。コロニー内の適正な環境下にアリタケは増殖し、ハキリアリはそのアリタケを餌にしている。もし霊素がなんらかの酵素の一種だとすれば、その酵素を運ぶ何かとが、人間を使って増殖、育成、捕食のサイクルを形作っている、と考えても面白いとは思わない?」

「『面白い』って……なぁ」

 的場は呆れたように目を丸くした。

「仮に〈霊素〉が自己融解を促す酵素か、それに類似するものだったとして、そのような即効性のあるものが自然界に存在するのでしょうか。〈物象化〉にはそれほど時間がかかっていないんですよ?」

 浩司は疑問を投げかけた。

「血液の流れに乗ってなら、どう?」

「血液の流れ、ですか?」

「そう。毛細血管までふくめると、その長さは十万キロに達する血管を通じて。血液はこれを五十秒ほどで一周して、また心臓に戻ってくる。この循環を〈霊素〉が利用すれば、一分もしないうちに人体を養分にしたインスタント・モンスターが完成するってこと」

「じゃあ、その血流を利用した即効性の酵素が〈霊素〉の正体だったとして——」

 と、的場が口を開いた。

「やつらは嬢ちゃんたちを追っかけまわした。酵素に意志があるとでもいうんじゃないだろうな」

「――胎生ナノマシン」

 シンシアがそう呟くと、助言者二人とロッテンマイヤーは息をのんだ。

「医療用胎生ナノマシン(メディファージ)に、あなたたちも基本仕様でアルコール分解促進酵素その他もろもろを結合させているはずよ。それとあの〈霊素〉は似通った特性を持っている可能性がある。意志を持っているのではなく、そのようにプログラミングされた人工の生体物質として」

「つまり、何者かが即効性の自己融解を促す酵素を仕込んだ胎生ナノマシンを空中散布した――と?」

 そう口にしたとたん、浩司の表情は見る見るうちに青ざめた。そうであるとしたら、これは目に見えないナノマシンを悪用したテロの可能性も考えられるからだ。

 そして、その標的は……。

「まぁ、実際に大気中に散布したのだとしたら、とても正気とは思えないわね。グレイ・グーを起こしたらどう責任を取るつもりなのか」

「その……グレイ・グーって?」

 浩司は話の腰をできるだけ折るまいとして、恐る恐る訊ねた。

「ナノマシン技術の黎明期というか、理論の段階に提唱されたもんだ。ノイマンが言い出してだな――」

「――自己複製機能を持ったナノマシンが、地球上のありとあらゆるバイオマスを素材化して無限増殖し、地球そのものがナノマシンの塊になる、という仮説ですね。実際は杞憂だったようですが。……コウジ、間違った知識を吸収して恥をかく前に訂正しておきますけど、グレイ・グーという事象の名付け親は工学者のキム・エリック・ドレクスラーであって、ジョン・フォン・ノイマンではありません」

(ったく、博学ババーめ)

 と、的場の口がそのように動いた。

「知識は裏切りませんから。それに魔導も『無から有を生ぜしめるものに非ず』です」

「確かに、グレイ・グーの起きる確率は限りなく低いわね。自己増殖するのにも資源やエネルギーを通常の環境中から取り出すのは容易なことじゃないもの」

「……お待ちなさいシンシア。そうはいっても貴女がグレイ・グーを持ち出したのはなにか理由があるのでしょう?」

 ロッテンマイヤーが訊ねると、シンシアは「待ってました」とばかりの不敵な笑みを浮かべた。

「去る月、あなたたちリトル・トーキョー部隊とドイツ部隊アルフヘイムは、新浜新都心郊外、北東約十キロ地点に位置する、三ツ矢研究学園都市での合同訓練を行った。これに間違いはないわね?」

 ドイツ部隊の助言者シュテファン曰く、ヒルコが気難しやのエヴァを「あっさり手懐けやがった」あの日である。

 隠す事でもないので三者が首肯すると、シンシアは話をつづけた。

「グレイ・グー現象が実際に起こる確率は低い。それがわかっているから『ナノテクノロジーを利用した技術の大気中への散布の規制に関する国際条約』なんてどこの国も守っていないし、空文化しているのが実情よ。あなたたちの国も、その例外ではない」

「お互いさまでな」

「問題は散布そのものじゃないの。三ツ矢研究学園都市は常時モニタリングされているから、このことで常任理事国が難癖をつけてくることはないだろうから安心して頂戴。問題は――これを制御できているかどうか」

「つまりあの霊素現象が、三ツ矢学園都市でのナノマシン散布実験中のなんらかの事故によって引き起こされ、制御不可能になって暴走したものかもしれない――ということですか?」

「それは無理ね」

 あっさり否定されて、浩司は拍子抜けした。

「技術的な問題よ。胎生ナノマシンの生成装置は、ナノマシン本体の最小化と反比例して巨大化してゆくのが実情よ。そんなものをあっちへこっちへとおいそれ持っていけるわけがないじゃない。どうやってそんなものあっちこっちに持ち運ぶの? 仮に生成装置本体ではなくて中継器を利用したとすれば、アシがつくわけだし……あ、今思いついたんだけど、ナノマシンの散布は、もっと次元の高いものから指令を発せられている、と考えてもいいのかもしれないわね? 例えば神、とか?」

「なんだおい、うちの国を疑いにかかったと思わせといて、今度はID(インテリジエントデザイン)か? 『神は死んだ』んじゃねえのか?」

 と、的場が冗談を飛ばす。

「あら、魔法はあるのは認めるのに神様がいない、というのはどういった了見からくるのかしらね?」

「ここは神の在不在を論じる場ではありませんよ」

 ロッテンマイヤーはぴしゃりと遮った。

「〈霊素〉の発生と〈物象化〉の時の状況を詳しく教えてくれるといいのだけれど……〈霊障〉のせいでろくに映像も取れてないし、わたしは現象そのものを知りたいのよ」

「あの日以来『喰われた瞬間』を観ていないからな。これも嬢ちゃんたちの頑張ってくれるおかげだ。それに嬢ちゃんたちでも、はっきりと〈物象化〉を観たやつは少ないんじゃないか?」

「あなたたちの証言が頼りってわけね」

 言葉に表そうと思えば、そうできたであろう。だが、助言者二人にはどうもそれができかねたのであった。言葉にしたとたんに、それは目前に言葉そのものが〈霊素〉として発現して彼らを取り巻き、彼らを貪り食い、シンシアの見立てが正しいとすれば、その体は胎生ナノマシンの運ぶ酵素によって自己融解現象をおこし、〈物象化〉=〈擬天使〉と化してしまうような気がしたのである。

 とはいえ、その「食われる瞬間」を聞きたがっているシンシアを、満足させるほどまでではなくとも、何らかの回答の必要には迫られていた。情報を一方的に提供してもらっているのでは、立つ瀬がない。

(あれは「死」なのか? なんらかの人ではない形のものへと、変化を迫られることは、つまりは「死」というべきものなのだろうか。心臓が止まったり、魂というものが体から離れたり……)

 浩司は記憶の幾重のカーテンの連なりを押しのけるようにして、思考に沈潜した。

「死」とは、浩司にとって継続された事柄だった。生が連続と継続であるように。苦海一佐や仲間の死。〈擬天使〉たちは生き残った者たちの頭や手足を呑み込み、腹を食いちぎり、まだ湯気の立つ腸をすすっていた……酸っぱい臭いがした……夥しく積み重なり、黒ずみ腐敗した〈擬天使〉たちの骸。その腐肉に、何処から来たのか烏や蠅が群がっていた。

 記憶のもっと底には母親の死。あの煙たい線香の香り。開け放たれた窓という窓。母親だったものからは、死の直後から激しい腐臭が立ち上っていた。浩司にとって、「死」は、なんらかの臭いを伴っていた。そして――。

 はっと浩司は声を上げた。皆が浩司のほうを見やる。

「九相図だ」

「クソウズ?」

 シンシアは怪訝そうな表情を見せる。

「死体の変化を九つの場面に分けて描いた仏教絵画だ」

 的場は言葉を引き継いでいった。

「でもお前、そんなもの何処で?」

「父、です。父が博物館に連れて行ってくれた……」

 的場が眉をひそめた。

「変なお父さんだったのね」

 と、事情を知らぬシンシアは皮肉を垂れた。

「それが一番近い。九相図を一枚一枚高速で見せられている。そんな感じだった」

 握りしめた両の掌が、じっとりと汗ばんでいた。

「それが、あなたたちの回答?」

 シンシアの言葉尻には、明らかに失望が含まれていた。

「いいわ。いいものを見せてあげる――」


「なぜだ!」

 と、的場が珍しく怒りをあらわにしてシンシアに詰め寄った。それは自分の仕事だと思っていた浩司は、その姿に目を瞠った。

「なんでここにヤツがいる!」

 原子力空母ロナルド・レーガン艦内に設置された研究施設、通称ハイヴの最下層に案内された三人が目の当たりにしたのは、電磁式拘束帯で戒められたままもがく、〈擬天使〉の姿であった。

 形状からして〈徳能天使〉のようである。

「説明していただきたいものですね、シンシア・クレイヴス」

「これは今年の――えぇと、五月十四日のインシデントで物象化したものね。付近の地下通路にもぐりこんで、出るに出られず衰弱していたところを捕獲。一時国立感染研究所に持ち込まれようとしていた」

「そんな報告は受けていない。それに現地での焼却が厳命されているはずだ!」

 と、浩司も激高した。

「待て、国立感染研究所に、だと? なぜそんなところに?」

「そんなことは私の知ったこっちゃないわ。――ちなみに移送したのは自衛軍の特殊武器防護隊。〈擬天使〉火刑の執行人たちね。それを私たちのハイヴの兵隊蟻があずかって、この巣に持ち帰ったってわけ。まぁ、あなたたちの言うように、建前では生体は現地で焼却処分って話なのに、持ち帰ろうとした挙句私たちによこど――召し上げられた、なんて話になれば、隠し通したくもなるわよね? 下手をするとP5(国連安保理の常任理事国のこと)に対する反逆と受け取られかねないもの。〈霊素〉と〈擬天使〉を利用した生物兵器の運用のために個体を鹵獲した――みたいなシナリオでね。素敵じゃない?」

「あの馬鹿ども」

 と、憎々し気に的場が呟いた。

「そのとおりだ」と首肯するように、「ぐるうぅううん……」、と〈徳能天使〉はうなり声をあげる。いったいあちらからは見えているのか、聞こえているのか、判断しようがなかったが。

「たとえ死んでも、機能をやめるのは脳だけで、細胞や器官は変化し続ける」

 シンシアは言った。

「環境にもよるけど、だいたい死後一時間ほどで腸内細菌が増殖し始めて、胃酸や腸の消化液が、胃腸そのものを溶かして、酵素による自己融解をおこすことになる」

 シンシアの講釈をうかがいながら、浩司は目の前の〈徳能天使〉と、先ほどの九相図が二重写しになり、脳裏に高速で早映しされた。

「腐敗が進行すれば、体内に腐敗ガスが発生して、このガスに含まれる硫化水素は血液中のヘモグロビンと結合して、硫化ヘモグロビンを生成する。さらに腐敗が進行すると、全身が暗褐色に変色して全身が膨らんでゆく。最後には死体は乾燥して黒色に変色、身体組織が腐敗汁を流出して融解し始める」

 まるで教科書でもなぞるように、単調にシンシアは続けるのだった。聞いているもいないもお構いなし、のようすだった。

「ご講釈はそれまでにしろ、楽にさせてやるつもりはないのか?」

「いずれは死ぬ。死んでいたら――の話だけど?」

「これ以上辱めるな、といっているんだ」

「辱める? これは死と言う継続された事柄の一つの形に過ぎないんじゃないかしら? 火葬があったり、水葬があったり、土葬があったり、獣に食べさせたりする。さっきミスターコウジが言っていた九相図だってそれは同じことのはず。これはそうした死の進行の、一つの在り方に他ならないのだとすれば、辱めるもなにも文化的な様相に過ぎなく――」

 あ、とシンシアが声をあげた。

 なにかに気がついたようだった。

「彼らが死なない生き物だったとして、自分たちが死ぬということを、いや、実際には死ぬ生き物であったことを、人の体を借りて追体験しているのだとしたら? もし、その死の体験ともいうべきものが、人間が人間以上のものになるための通過儀礼、進化に必要な過程プロセスなのだとしたら?」

 皆がはっとした表情を浮かべてシンシアを見て、更に驚愕することになった。

 白目をむき、身体をゆらゆらさせながら、シンシアは教科書的な「死体現象」を、その後もぶつぶつと呟いていた。しかし、それはもう支離滅裂でなんの意味をなさなかった。

「行腐すれば、体内に腐敗ガスが発生して、このガスに含まれる環して、酵己融解をおこすことになる境にもよるけど、だいたい死後一時間ほどで腸内素による自敗が進細菌がめて、胃酸や腸の消化液が、胃腸そのものを溶か腐敗が進行すれば、体内に腐発生て、硫化ヘモグロビンを生成する。さらに腐敗が進行すると、全身が暗褐色に変色して全身増殖し始が膨らんでして、このガスに含まれる硫化水素が血液の中のヘモグロビンと結合しゆ敗ガスがく。最汁を体は乾燥流出して融解し始めるこれは死と後には死して黒色に変色、身体組織が腐敗言う継続された事柄の一つの形に過ぎないんじゃ際には死ぬ生き物であったことを、人の体を借りて追体験しているのだとしたら? ないかしそ過ぎなく彼らがうした死の進行の、一つの在り方に他なぬということを、いや、実もし、その死の体験ともに食べさせら? 火葬があったり、水葬があったらないのだとすれば辱めるもなにも過程プロセスなのだ文化的な様相に死なない生き物だったとして、自分たちが死り、土葬があったり、礼、進化獣たりする、これうべきはいものが、人間が人間以上のものになるための通過儀礼にすぎないとしたら?」

 それでもシンシアは、無意識のうちにか、操作卓のボタンカバーを叩き割った。

 サイレンが鳴り響くと、滅菌室の四方から〈擬天使〉に向けて粘り気のある液体が振りまかれ、火炎放射が始まった。〈徳能天使〉は瞬く間に燃え上がった。炎の中で〈徳能天使〉は何か叫んでいるようすだったが、収音マイクの接続が切られたのか、その声を聞くことは叶わなかった。

〈徳能天使〉はみるみるどす黒い消し炭になり、最後に首をくねらせると、がくりとこと切れた。首を垂れたひょうしに、付け根とおぼしき部分から首が焼け崩れて床に落ちた。

 ロッテンマイヤーは、失神するシンシアを介抱した。

「いったい、何だってんだ?」

 と、的場はあえいだ。

「〈擬天使〉の生体は、強烈に人間の精神域に作用する、のかもしれません」

 と、ロッテンマイヤーは言った。

「でも、俺達にはなんとも」

 浩司は口ごもった。

「そうだ。それに嬢ちゃんたちだって」

「わかりませんよ」

 ロッテンマイヤーはおどろおどろしく言った。

「私たちだって、すでにその作用の中にいて、ただそれに気がつかないだけかもしれませんよ」


 苦海浩司——。

 まずもって、姓の苦海が不穏である。

 苦海とは仏教語で、この世の苦しみを海に例えたさまなのだという。大海のように見たところ果てもなく、苦しみの絶えない、輪廻転生を繰り返し、それにさいなまれる世界のこと、である。

 衆生は生前の善悪の帰結――カルマとして六つの世界へ赴く。すなわち、地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天道、である。この六つの世界への転生を繰り返し思い迷うのだ。

 母は頑なに苦海の姓を名乗った。なにを言っても、自分の声が聞こえていない、ということだけは、幼いながらにわかった。そのことによって、むしろ地上のどこかに生きているのかもしれない父親よりもずっと前に、自分は母親の心の中で、死んでしまっていた。

 彼は母方の親戚の手によって母の手から引き放されたが、この親類たちは、苦海の血を半分分けた浩司を、母に代わって養おうなどとはさらさら考えてはいなかったようで、そのまま児童救済センターに放り込まれた。

「人殺しの子供」

 しかし、これだけ身に覚えのないことを言われても、彼の性格がゆがまなかったのは不思議なことだった。名前負けの諦観にとらわれていたのかもしれない。

 児童救済センターは国営である。

 そしていつかは巣立っていかざるをえない。

 最も人気のない、いつでも人手不足に悩まされるような職種があてがわれる。つまり自衛軍に入るという、お世辞にも選択肢とは呼べない選択肢が彼らには用意されていた……。

 彼が彼自身の相応の判断力を備え、実母との面会が許されたとき、彼がそのことを母に告げると、陰惨にやつれはてた表情は、その時だけぱっと輝きわたった。

 父親に、それによって会えるかもしれない。

 やり遂げなさい、と母は言う。

 母親の妄想に付き合った形になった。

 そんな簡単にことが運ぶものか、と浩司は母の願いを聞き届けておいて思う。国連警察予備軍への引き抜きを、いったい何年待つというのだろう。

 それに、国連警察予備軍は、世界に悪名を轟かせていた。国連安全保障理事会常任理事国間の利害調整の片棒を担ぐ先兵と化した国連警察予備軍は、各紛争地域で蛮行を働いているとされた。国連警察予備軍などという名称も、その蛮行によって形骸化していた。

 国連とは、米(連邦共和国)・英・仏・露・中(国連安全保障理事会常任理事国)を名指しているにほかならず、警察というにはその一群は「UN」を冠した水色の鉄兜の匪賊であり、予備軍というには、犯罪的な蛮行の主力であった。

「鬼士」――と恐怖半分、侮蔑半分で呼ばれる、自国のためでも国際平和のためでもない軍隊。近年ではオーレリア大公国への派兵が真新しい。その「鬼士」も、「新しき魔女」=魔法少女に対する恐怖からオーレリア大公国軍のクーデターとその際に暴徒と化したオーレリア国民とを相手にしたとき、その脆さを露呈した。国連警察予備軍史上、特に凄惨な戦いとなり、またそれは国連警察予備軍史上、はっきりとした敗北であった。

 苦海壮一一佐ら日本部隊も相当数の被害を出したようだが、いやそのためか、その後消息が途切れてしまっている。

 これと前後して、入院中の母が亡くなったと連絡があった。

 衰弱死、だった。

 最期にはくまのぬいぐるみを息子と称して流動食を与えていたという。

 浩司は母の旧姓を名乗ることとした。母の旧姓は凡庸な伊藤という姓。苦海から脱し、自分は完全に伊藤浩司になった――はずだった。

 ――魔法少女たちが、日本にやってくる。

 十四年前のワプルギスの夜に生まれた、願ってもいない力を与えられた彼女達。この日本においても、「症例」が三件報告されているという。

 特措法による魔法少女たちの受け入れが決定された時、まさか自分が彼女らとかかわることになろうとは考えもしなかった浩司である。

「伊藤二曹、きみには租界に行ってもらう」

 特殊作戦群長の歯切れの悪さに、もっと上層の意思が働いているのは疑いなかった。

 そして、

「この責任者は苦海壮一一佐である」

 背筋が凍るのを感じた。

「鬼士」が帰ってくる。

 自分と母親を捨てた「鬼士」が、なにも守れずにのこのこ帰ってくる。

 浩司は歯噛みした。

 苦海の記憶は、まだ生き残っているのだった。

「きみに与えられる任務は……」

 群長は重々しく口を開いた。


「苦海ヒルコ、私の娘だ」

 新任者たちはざわめいた。

 苦海一佐に娘が、しかも新しき魔女の娘がいるなんて。

 もっとも蒼然となったのが、苦海浩司、その人であったことは言うまでもない。

「これからお前たちが守るものの一人だ。そして――」

 苦海一佐は、ヒルコに合図を送った。

 かちん――。

 ヒルコが構えたのはモーゼルM712・シュネルフォイヤー。グリップ後背に着脱式の銃床を取り付けたカービン銃仕様であった。

「ガキに銃持たせるのかよ。イっちゃってるな?」

 そう一人が呟いて、浩司ににやりと笑みを浮かべた(?)。

「ああ……」

 そう相槌を打つものの、ヒルコと大して齢の違わないであろう少年兵たちが、未だ安価な大量破壊兵器として一世紀以上の優位を誇るAKを構え、こちらに向かって突撃してくる姿が脳裏によみがえった。望むと望まざるとにかかわらず、彼らは兵器として扱われていた。

 そして、自分が殺されないためには殺すしかなかった。

 これを、特殊作戦群において徹底的に叩き込まれる。特に国連警察予備軍として参加するうえで、交戦国、交戦地域の住民の憎悪の対象であるのだから、なおさらだ。捕虜になれるなどと考えてはいけない。

 拡張現実を利用した特殊作戦群の訓練は、元来肉体的に秀でているものが集められるのだから、精神に負荷をかけて耐久力を観察することに眼目が置かれる訓練である。はたからは屈強に見える隊員すら精神的に追い詰められて、嘔吐するは失禁するは、擬似的な戦時ストレス症候群(PTSD)と診断されるものも出てくる。仮想現実は安寧を仮装する日本国という現実を上回り、しかも体内の戦闘体験用に注入された胎生ナノマシンが五感に作用することで、現実よりもより現実らしい質感を備えていた。

 さて、

 銃口のずっと先にあるのは、旧式の装甲兵員輸送車であった。モーゼルを射撃姿勢でかまえたまま微動だにしないヒルコのほうへと、まっすぐ猛然と近づいてきた。

〈精霊よぜよ、しかるべく圧っせよ〉

 ヒルコはそう異言を唱えると、引き金を引いた。なんども言うように、異言がはっきりとそれを耳にした人々に、いや、口にしたとうの本人にさえ、その意味を伝えることはない。

 反動に銃身が跳ねた。一連の動作からは、単なる古風な自動拳銃としか見受けられない。そして銃弾が単なる7.63×25mmマウザー弾であったとするなら、兵員輸送車の装甲は容易く弾を跳ね返したことだろう。

 だが、苦海ヒルコは、新しき魔女=魔法少女である。

 装甲とマウザー弾が接触したと思しき刹那に、紅淡色の波紋が、背後の景色をゆがませた。

 装甲が、弾丸を中心として、クレーター状にへこんだ。それを合図に装甲兵員輸送車は、膨張の後、風船が破裂するように吹き飛んだ。衝撃波を受けて、不用意なものは声を上げる間もなくなぎ倒された。

 しかし、これだけではなかった。爆発したかと思った瞬間、一挙に爆炎は内に向かって、渦巻くように終息していった。まるで、爆発のエネルギーが、別の空間に吸い込まれていったかのように……その爆縮から取り残された破片だけが、瞬間的に「なにかが起こった」ことを物語っていた。

 魔法少女が、自らの「魔法」を披露したのだ。

 浩司たち新任者は、息をのんだ。

 脅威を認識するとともに、魔法は本当に存在している、ということに。

「娘には自分を守る手段を与えてある。油断するな」

「くそ。だったら俺たちなんていらないじゃないか?」

 先刻の男がすっころんだ状態から起き上がって、忌々し気なようす(?)で呟いた。

 今では顔も思い出せない。

 そもそも顔があったのだろうか? と浩司は思う。

 その声は震えていた。声が震えているのだから、きっと顔はあったのだろう。

「そう思うだろ? なあ?」

(いや)

 心の中で、浩司は男の言葉を否定した。

 ひとり彼女(苦海ヒルコ)——ばかりではない。これからやってくる彼女ら(魔法少女たち)が示すような、ありあまる力を使わせないためにこそ、彼女らの力からすれば非力にも思える、自分たちの力が必要とされているのだった。そしてそれが自分たちの任務ミツシヨンだった。

 とにかく、自分がもう引き返せない場所にいるということを、浩司はいやというほど自覚させられたのだった。泣き言をいってもしょうがないと感じるのには、その出来事だけで充分であった。

 それにしても。

(苦海ヒルコ)

 苦海ヒルコ。苦海ヒルコ……その名が何度も反芻される。

 浩司は決意した。苦海一佐や的場ら、そして自分と同じ新任者の目をかいくぐって、ヒルコのもとへ向かった。こうと決めると居ても立っても居られない質である。

 苦海ヒルコ。

 近くで見ると、その気の強いようすが、ますます目立つ。すべてがツンとしていて、まるで薔薇のとげのようだ。彼女に触れようとする、多くを傷つけずにはいられないような。

「――伊藤浩司だ。よろしく」

 浩司はヒルコの前に手を差し出した。

 魔法少女……にしてはきつい感じのする狐目が、キっと浩司を睨みつけた。瞳の色はうるみがちな淡紅色で、二つの月のように、ゆらゆらと妖しく揺蕩たゆたっている。見せつけるように尖ったギザ歯をカチカチと打ち鳴らすのは、いらだった時の癖に違いない。その容姿が――魔法少女として在ること――を、ますます強固なものにしている。

 そのヒルコは、

「あんた、バカだろ?」

 それだけいうとフイとそっぽを向いた。浩司の差し出した手は、宙をむなしく漂った。

「用がないのに近づくな。ってか用があっても近づくな。あんたもああなりたいの?」

 けだるげな様子でヒルコの指さした方向には、先刻の兵員輸送車の残骸が転がっている。車体の中央を半円状に切り取られたような、奇妙な断面をしていた。

「……ハーネスがある。そうだろ?」

 あぁ……と気が付いたように、ヒルコは忌々しげに首筋に手をやった。

 おおぶりのチョーカーで隠しているつもりなのだろうが、新しい魔封じの技術は、ここに来るまでに説明を受けている。このハーネスと呼ばれる拘束帯の着脱にかんするレクチャーも受けた。とは言うものの、実際はワプルギス機関から派遣された魔女たちが、これを務めるだろう。自分達の任務ミッションは別の所にある。

 それに、

「ニュルンベルク国際魔導条約があるだろう。どちらもそれで守られている」。

 ヒルコは目を丸くして、浩司のほうを振り向いた。それは感嘆とか驚嘆ではなかった。「大いに呆れてものも言えない」といった態の、心底人を馬鹿にしたような表情だった。

「ははぁ、おまえさてはほんっとうにバカだな。……なぁ、じゃあどうして歴史とかじゃなくても、魔女は焼かれたり手足ちょん切られたり串刺しにされなきゃいけなかったんだろうなぁ?」

 浩司は言葉に詰まった。

 オーレリア大公国では七千五百人余りが、そうして死んだ。

 それに人類史上、「魔女」とされてきたものの歴史を振り返れば、とうの守りであるところの「ニュルンベルク国際魔導条約」など、つい昨日のことでしかないのだ。浩司は自分の浅はかさを呪った。

「なんだ? 謝りかたも知らねーのかよ?」

「……ごめん、よ」

「あぁん? なにが『ごめん、よ』だ。なめてんのか。このあたしが殺されるかもしれないって時に、わざわざお伺いを立てなきゃいけないのかよ。『すみません、いまあたし殺されそうになってんですけど~、「国際魔導条約」を遵守したおかげでぶっ殺されますぅ~』ってか? バカか。バカなのか?」

「だから悪かったって!」

 自分が悪いとは言え、何度も「バカ」呼ばわりされて浩司は声を荒げた。それに話をしたいのは、魔法少女ヒルコとしてではなく、苦海一佐の子としてのヒルコについてである。それまでは、一歩も引かない心づもりだった。自分には知る権利がある。それがどれほど自分にとって不都合な真実だったとしてもだ。自分の父親は、浩司と母を残し、現代のオデュッセウスよろしく転戦を続け、その果てで、なにをもってしてヒルコを自分の子どもとして――つまり苦海ヒルコとしたのか。

 簡単には追っ払うことができないと思ったのか、ふてくされた様子で膝にひじをついて、ヒルコは遠くを見つめることに努めた。……


 それは、これまで見たこともないような「死」の形だった。

 かつてヒトだった生き物は、全身をくねらせながら脱皮し、体を形成し、起き上がろうとしていた。ぬめぬめとした粘膜状の皮膚は、生まれたての生き物の光沢を放っていた。

 未知の光景に、浩司はおぞましい、というよりも、こののたうち回る生き物らしきものに、なにか「哀れさ」を感じていた。そんな自分に驚きを覚えつつ、彼は上官であり、ヒルコの養父であり、そしてなにより実の父親であるところの、今や見る影もない生き物に歩み寄った。恐れを感じないわけではなかったが、この生き物らしきものの放つ腐敗の悪臭には、どこか懐かしい覚えがあった。

「母さんは、待っていたんだぞ。それをお前は……」

 銃を構えた。

 白い巨大な赤ん坊がのたうち回っている。いうことの利かない四肢をあちこちにぶつけ、己の粘膜に滑りながら、這いずっている。うまくいかない苛立ちのためか、ぐるるるぅん、と低く呻いた。

「その姿はあんたに似合ってるよ」

 浩司に応えるように、ぶよぶよとした白い、かつてヒトだった生き物は、口蓋にびっしりと生えた歯を蠢かせて、「おおぅううん!」と浩司に向かって咆哮した。口腔から、先刻よりも強烈な、おぞましい腐臭が飛び散った。

 そうだ。

 それは母だったものと同じ臭いであった。

「……おい」

 はっと浩司が我に返ると、苦海壮一だったものはびくびくと痙攣しながら、地面に突っ伏していた。

 死の間際の、それが最後の痙攣のようだった。人間でいうところの脇腹の半分を失って、自重に耐えきれずに体が崩れ落ちたのだ。白子にも似た肉片が、そこら中に散らばって、それらも、また別々に小さく蠢いていた。

「救いようのないバカだな。このバカこーじ」

 振り返った。すると、魔法少女はモーゼルの構えを解いたところだった。

 茫然とする伊藤浩司に、苦海ヒルコは、にかりと笑った。

 ヒルコのギザ歯が、血まみれの世界に白く輝いている。……


「以上です。御満足いただけましたか、総理?」

 竹川は伏し目がちに聞いていたその顔を上げた。クリップで止められた分厚い書類に手が置かれている。官庁の完全なペーパーレス化以降、このような光景は絶えて久しい。

「ところで、このレポートの真偽のほどを、きみはどう見る?」

「私に言えることは、的場均は危機を予防するべく、このレポートを私に託したということです、総理。しかも、あえてデータとしてでないものを選んだということを」

 竹川は低い呻り声をあげた。

「身辺の動きにはより一層お気を付けを総理。的場がこの方法をとったということは、敵は身内にあると、彼は考えているようですから」

 的場の古巣、情報本部の事務官が去ると、竹川は所在なさそうに、ぱらぱらと書類をめくっていた。表面上は一見落ち着いて見えたが、その奥底では様々な想念が渦巻いていた。恐れや、不信や、猜疑は、特定の人間のものではなかった。

 伊藤浩司、苦海ヒルコ、そして苦海壮一一等陸佐。レポートに登場した名前を反芻してみる。そして、それとセットで頻繁に登場した、

「『魔法少女による軍事国家』だと? 莫迦な!」。……


 山間の造成地にへばりつくようにして、数えられるほどの新興住宅地が姿を現した。

〈霊素、消失を確認。これより、擬天使掃討に移行する〉

「よっしゃー一狩り行こうぜ!」

〈ヒルコ、待て〉

「んぁあ?」

〈生体反応アリ。……結構微弱だが〉

「こんな状態で逃げないバカいんの?」

〈逃げ遅れて隠れたほうが安全だって考えたのかもしれないだろう。とにかく、お前がそこから一番近い。確認してくれ〉

「へいへ~い」

 ――そんなことは防衛魔導班の仕事だろうが。

 そう独り言に呟きつつ、ヒルコはある一軒家の前に降り立った。

 一応にも周囲を旋回してから降り立ってみたものの、〈擬天使〉の姿も、人の姿も見当たらない。そもそも破壊の跡がこの周囲には見受けられない。着の身着のまま逃げ出す避難者は、たいてい玄関や窓も開け放して、その上家電も使用したままなので、二次被害的に火災や、その間隙をついた不心得者たちの「命がけ」の空き巣や強盗に見舞われることもある。が、ここにはそれに至る痕跡がどこにもない。

 それでも、微弱な生体反応がある、というのだ。

「おーい、誰かいんのかー?」

 しん、としている。薄気味悪そうにヒルコは肩をすくめ、ギザ歯を二三回打ち鳴らした。

 律儀にもインターホンを鳴らしたヒルコだったが、当然応答があるはずもない。彼女は「だよなー」と、自嘲気味に、一人にかりと笑った。

 ドアノブにおそるおそる手を掛けた。鍵はかかっていない。再びヒルコは周囲を探るように辺りを伺ってみるのだが、ここには生体認証システムらしきものが見当たらない。この地域が取り残された地域であることは容易に推測された。こうした例は、地方都市よりも、括弧つきの「首都圏」においてよく見られる光景であった。

「超絶マジカル美少女ヒルコで~す。わっざわざ助けにお邪魔しうわっ……きったな……」

 開けた瞬間に、大小のゴミ袋や、ペットボトルが、雪崩を打って転がりだしたのだった。ヒルコは絶句して、遅れて背筋に悪寒が走るのだった。

「ッ……臭っあぁ!」

 えた生ごみの臭いが充満している。これなら「グランマーマ・ソフィアお手製謎の緑どろどろ傷薬」のほうが、まだましな臭いだった気がする。

 足の踏み場もない。散乱するごみの一つ一つに足を取られた。お気に入りのエナメル質のブーツが汚れるのは気が引ける。しかし、それでもこのままくるり背を向けて戻るのは落ち着かない。生体反応の正体を突き止めなければならない。なにしろそれが〈霊素〉や〈擬天使〉よりも、もっと不気味だ。

「くそっ、くっせーし、きったねーし……」

 一歩進むたびにヒルコは悪態を吐いた。

 通信機の雑音が酷い。加減で甲高くなる雑音のなかに、浩司とも誰ともつかない声がおぼろげに聞こえる。

〈……き……えるか……ルコ……〉

「きこえねーぞ。ばーか。バーカ。馬ー鹿!」

 聞こえないのをいいことに、浩司をあらゆる調子トーンでバカ呼ばわりしながら、彼女はまさに「汚れ仕事」を任された留飲を下げつつ、先へと進んでいった。

 すると唐突に視界が開けた。

「んあ?」

 目を上げる。

 壁の一面と天井を這うように、巨大な樹が描かれている。大樹は天井中央に埋め込まれた六つのダウンライトで収束しており、またその六つのダウンライトから、放射状に天使たちがくまなく埋め尽くしていた。さながらその大樹から天使たちが生えているようだった。

「気持ち悪っ」

「……だれ?」

 びくりと体をこわばらせて、ヒルコは声のほうをみた。

 天井の絵の異様さに気をとられていたが、ゴミの山の中には小さなベッドがあった。小さなベッドには、さらに小さな少年が、いくらか半身を起こした格好で、恐る恐るちぢこまっていた。頬はこけて黒ずんで見え、陽の光を久しく浴びていないのか、青白い肌がさらにその黒ずみを際立たせていた。なるほど生体反応が微弱だったのも頷ける。ヒルコは、はっと短い安堵のため息を吐いた。

「なぁに。あんた、ひとり?」

 ぶっきらぼうにヒルコが尋ねると、少年はきょとんとした表情で、彼女をじっと見つめた。

 そして、少年は言った。

「天使さま、ですか?」

〈お……聞こ……のか? ……答しろ、ヒルコ!〉

「はぁ? あんたどこに目ぇついてんの? 見ての通り正義のマジカル美少女ヒルコ様よ」

「魔女のお姉ちゃん、なの?」

「そ。こんなきったないとこまで、わざわざあんたを助けに来てやった、ね。控え居ろう、われは正義のマジカル――」

〈ヒルコ! 生体反応は一つじゃないぞ!〉

「まぁあじょぉおおおッッ!」

 背後から突如襲ってきた声と気配を、ヒルコは激突寸前でかわした。垣間見たところ、まだそれはヒトの形で、勢いづいて散乱するごみの山に突っ込んでいった。

「な——⁈」

 絶句もつかの間、これも突如湧いて出たようなもう一つの気配に、ヒルコは羽交い絞めにされた。逃れようともがくものの、そのたび足場になるものが崩れ、思ったように力が入らない。

「か、母さん。は、はやく魔女を~!」

 間抜けなその声に召喚され、さきほどの気配は、ゆらりとごみの山の中から起き上がった。「か、母さん」なのだから、ごみの中から起き上がった存在の正体は、どうも少年の母親にあたるものらしい。ぼさぼさの髪が凝り固まって、放射状にゆらゆらと立ちのぼるさまはメデゥーサのようである。

「うっ……」

 と、ヒルコは呻いた。

 母親らしきメデゥーサの手元のあたりで、薄暗がりの中に銀灰色に鈍く光って揺れるものがあった。母親らしきメデゥーサは、一部が錆びついた包丁を、腰だめに抱え持っているのだ。

(あ、あっぶねぇ……)

 安堵するにはまだ早かった。

「ええい、邪悪のまぁあじょぉおおおッ! 覚悟ぉおお!」

 母親らしきメデゥーサは気勢を上げると、大小のゴミを蹴たて、ふたたびヒルコに向かって突進した。

「ぐっ。このヤロウ」

 かっと淡紅色の瞳が、二つの鬼火のように揺らいだ。

「覚悟ぉ? するわけ――ねえだろッ!」

 突進してきた女の顔をちょうどいい踏み台に、ヒルコは「ふっ」と一息に宙を駆け上がるようにして、蹴り上げた。母親らしきメデゥーサは顔面を足蹴にされのけぞり倒れ、ヒルコを羽交い絞めにした男は、押された勢いで後ろに倒れ込んで、どちらもゴミの中に身を埋めた。

「なんなんだ、こいつら?」

 と、言うより、

「おい、どこに目ぇつけてんだ。このバカこーじ!」。

 天を仰ぐようにして、ヒルコは怒鳴った。

 危機は次々とヒルコを襲った。彼女と少年を遮るようにして、今度は天井がけたたましい音を立てたと思うと、白い何かが、光の階梯の出現と同時に、どさりと落ちてきたのだった。

 どうやら〈擬天使〉が、屋根を突き破ったものらしい。

 それにしても、光の階梯に照らされた少年は、さながらこちらのほうが天使のようだった。光の梯子から天使が「生えてきた」。

 さて、屋根に穴を穿ったこの〈擬天使〉には、視覚をつかさどるものが見受けられなかった。その代わりなのか、巨大な鼻と思しきものには二つの孔がある。それが象の鼻のように伸び縮みしている。

 軽い舌打ち交じりに、ヒルコはぬるぬるとのたうち回る〈擬天使〉を飛び越えるようにして少年のほうに駆け寄ると、間に立ちはだかって、ほんとうの敵に(<擬天使>)銃口を向けた。

 が、引き金を引こうとした瞬間、ヒルコの指ははたと止まった。

 やっと起き上がったばかりの〈擬天使〉は、周囲にすんすんとその鼻を凝らしていたが、それだけだったのだ。

 彼らの存在に、〈擬天使〉は気がつかなかったようだ。鼻はぶるぶると震えて、己がおぞましい腐臭のほうには気がつかないくせに、この家屋そのものが放っている人間の生活の悪臭に耐えかねたように、しきりに長細い前肢で鼻を掻いた。そうして〈擬天使〉は破壊した屋根に鼻を向けると、穴倉から這い出るように跳躍して、再び飛び立っていった。

「……あ、ああああ⁉」

「天使さまお待ちください! どうかこの子を、この子を救って下さいまし!」

 母親らしきメデゥーサは今にも〈擬天使〉に縋りつこうとさえしかねない勢いだった。だが、悲痛な懇願の声もむなしく、穴の開いた天井からは砂埃と、魔法陣がスパークする音が降ってくるばかりだった。

「……不浄め」

 呆然と天井を見つめた末、母親らしきメデゥーサは、やつれ落ち窪んだ鋭い視線を、キッとヒルコに向けて、言った。

「その子から離れろッ。不浄めぇぇええ! 悪魔の手先ぃいい! 悪霊たいっさーん‼」

 母親らしきメデゥーサは、錆びついた包丁をぶんぶん振り回して、大きく十字を切った。

「はぁあ?」

「いいか、この魔女め」

 刃先をヒルコに向け、母親らしきメデゥーサが言った。

「これは天が与えたもうた慈恵なのだ。神が私たち家族に救済を与えて下すったのだ。この子を苦しみから解放して、新しい体を、あの天使様を介して与えて下さるというのに。それをお前は邪魔しているのが、分からないのかぁああああ!」

「なにバカ言ってんだ? だいたいなぁ――」

「天使様! ああ天使様‼ どこに行かれるのです! 私たちにヨブ(『旧約聖書』中「ヨブ記」にて神に信仰の試練を与えられる男の名前)と同じ試練を与えるというのですかぁああ!」

 天を仰ぐと、母親らしきメデゥーサは泣き叫んだ。

「いや、聞けよ」

「お前のせいだ」

 間髪入れず、父親らしき男が憎々し気に呟いた。

「お前のせいだ……お前のせいだ! この邪悪の魔女! お前がいたせいで、天使様は可哀そうなこの子を見つけられなかったんだぞ!」

「はぁあ⁉」

「ああ……あの天使様にはお目がなかった。あの子の境遇に心を痛めた天使様が、御自らあのお姿に身をやつして、においで見つけようとなさったというのに。それをお前の魔女くさい臭いのせいで」

 ヒルコはやっと気がついて「あっ」とちいさく声を上げた。振り返った先、少年の両目は緑褐色に濁っているのだった。

 ばつが悪くなって、少年の向ける見えない瞳から、目をそらした。

 しかし。

(なんだよ「魔女くさい臭い」って)

 はじめはあまりの突拍子もなさに呆気にとられていたヒルコだった。

 だが彼らの言葉を反芻するうちに、体中からふつふつと怒りが込み上げてきたのだった。

 はっきりとした拒否を、むき出しの憎悪を、ヒルコはこの時点まで知らずにいたのではなかったのだろうか。これまではそうした拒否や憎悪は、三賢女のグランマーマたちや、浩司ら助言者たちの根回しや、魔法少女租界という地理的、物理的距離の側面や、〈霊素〉そして〈擬天使〉の襲来、といった現象に隠され薄まっていたのであり、ヒルコら魔法少女たちのもとにそれがたどり着くまでには、いくらかフィルターがかかっていたに違いない。

「……そんなに俗世が嫌か? そんなに救済が欲しいか?」

 コールタールのように粘つく魔導が、体からあふれ出した。彼女自身、全てをぶち壊してしまいそうな怒りに、ぞっとせずにはいられなかった。

「ミキサーかけられたみたいにぐちゃぐちゃになって、誰の体なのかもわからなくされて、それで天使? それで救済? ……はっ、笑わせんな、バッカじゃねーの? それに――」

 かちん――。

「てめーら、自分の子供ゴミ溜めのなかに押し込んでおいて、親のツラすんじゃねーよ。てめーらの妄想に子供巻き込んでんじゃねーよ。……そーかよ。そんなに死にたいんだったらな」

「おねえちゃん」

 少年は濁った瞳をヒルコに向けた。

 ヒルコの瞳に、まがまがしい淡紅色の光が燈って、残像を描いた。

 ヒルコはモーゼル・シュネルフォイヤーを構えた。

 引き金を――、

「あたしが救済してやる!」

 なにかがふいに飛んできて、モーゼルの銃床をどすりと穿った。

 うっ――とヒルコは衝撃に小さく呻いた。

 妨害したのは、見覚えのある儀典用メイス、だった。

 このメイスの持ち主は、一人しかいない。

「マリア・K」

 急な横やりに体勢を崩したヒルコだったが、そのまま夫婦に再び銃口を向ける。

 また寸暇与えず、

〈聖霊よ、邪なるものから奪い取れ〉

 異言に応じたように、メイスはヒルコの手からモーゼルを奪い去って、自分の主人あるじの元に戻った。

「じゃ・ま・す・る・な」

 マリア・Kを鋭くにらみつけると、ヒルコはギザ歯をカチカチと打ち鳴らしながら威嚇する。

「その怒りはもっともな事です、ヒルコ。でも――」

 マリア・Kは、モーゼル拳銃をメイスの柄から引きぬいた。ヒルコからは目をそらさずに、手慣れた手つきで、弾倉を取り外し、遊底ボルトを引いて、すでに薬室に装填された一発も取り払った。「武装解除」の方法を、誰かに教えてもらったに違いない。

「『力を持った者は、その如何いかんに関わらず、その力を飼いならさなければならない。力に飲まれる弱者でいてはならない』」

 マリア・Kは平素の取り澄ました表情で、呟くように言った。

 それは苦界壮一一佐の口癖のような箴言。一言一句そのままだったのだ。

 どろり――とどす黒い黒い魔導力が、首筋から伝い落ちるようにヒルコは感じた。破壊衝動と魔導力の混じりあった、それはどろどろとした液状の〈叢〉で、実体として体の外へ流れ出しているのではないか、と。

「なぁんだ? あのバカこーじからの入れ知恵か?」

「えぇ、ヒルコ。あなたを飼いならすための」

「……」

 すかさず、ヒルコはレッグホルスターから、デリンジャーを引き抜いて構えた。しかし、法具でもないこの護身用武器は、四元素魔導もちであるマリア・Kと対峙するのには、あまりにも心もとない。

 静かな二人だけの対峙が続いた。

 一体どちらが先手を打つのか?

 しかし、マリア・Kはふいににこりと、ヒルコに向かって花咲くようにほほ笑んだのだった。

「ですわね、浩司兄さま?」

「はぁ?――――――ッぁ⁈」

 突如、糸の切れた操り人形のように、ヒルコはがくりと膝から崩れ落ちた。

 それを浩司が背後から抱きとめる。

 ハーネスが、いつの間にかヒルコの首元に再装着されていた。

「この、バカこーじ……」

 魔導力は一気にせき止められて、ヒルコの体を虚脱状態に陥らせた。

 力の配分を間違えれば、その分体への負担は大きくなる。妨害するマリア・Kを「殺る」ために、明らかに全〈叢〉に意識を集中させていたようだ。

「お前の力は、仲間を傷つけるために与えられたんじゃないぞ」

 と、浩司は静かに叱りつけた。

「マリア、怪我はないか?」

「はい、浩司兄さま」

 マリア・Kはにこやかに答えた。

「なんだバカこーじ。お姫サマの心配かよ……」

「憎まれ口を叩けるだけ、まだまだ元気だな」

 背後から抱き留めた姿勢から、浩司は軽々とヒルコを抱え上げた。

〈こうじっち。あらかたみんな倒したよ!〉

「お、サンキューな」

〈おい、浩司。急に飛び出すんじゃねぇよ。心臓に悪い〉

 見えない相手の声に浩司が頭を下げて詫びている間に、ヒルコはけだるげに視線を泳がせていた。

 とにかくマリア・Kや浩司のほうだけは見ないようにと努めた。

 その分見たくもないものに視線はそそがれた。これは、怯え泣き叫ぶことしかできない少年の両親――必死に「見よう」とする少年のむなしい努力――屋根から落ちたがれきの山とゴミに半ば埋もれた、あの天使の生えた樹木の壁画――といった経路をたどった。

 目を凝らすと、その枝葉には、互い違いに詩が書きこまれている。


 Quando corpus morietur,

 fac, ut animae donetur

 paradisi gloria. Amen.


 それはカトリック聖歌「スターバト・マーテル(聖母哀傷)」の、最後の一節だった。


 肉体が滅びる時には

 どうか魂に、栄光の天国を

 お与え下さい。アーメン


「へっ。ゴミ溜めの天国、か……」

 ヒルコは力なく、嘲るようにギザ歯をむき出した。


「――〈新造天使教会〉はな、もとはずばり〈スターバト・マーテル〉って、〈天使派〉連中とはなんの関係もねぇちいさな新興宗教だったんだ。ところが嬢ちゃんたちの存在が確認されて、『自分の子供も魔女じゃないのか?』って、とくに子供を持った信者がヒステリーになっちまったんだな。そこに〈天使派〉の比較的穏健な連中がくっついて、短期間の間に勢力を拡大した。おおもとの教理は無抵抗。ま、平たく言や〈霊素〉に食われちまうまで何もしないってことだな。一時血液交換実験やら、脱会しようとした信者へのリンチなんかで世間を騒がせて、お決まりのジャーナリズムの氾濫に飲み込まれ、でもすっかり忘れ去られた。信者の一部はここいらの土地を買って、かたまって暮らしてたんだ」

「はためーわくな話しだな」

 と、ヒルコは毒吐く。

 とても箒で空を飛べるような状態ではない。このまま兵員輸送車に乗せられての帰還である。

「っつーかさ、そんなこと初めに言っとけよ」

「そんな話聞いた後で、お前たち、本当に助けられるのか?」

 浩司がそう返すと、先程の一件を思い出して、「ぐっ」とヒルコは詰まった。

 浩司は叱りつけて来るかとヒルコは覚悟していたのだが、ずっと優しかった。ヒルコはくすぐったく感じたし、不安にも思った。これなら盛大に雷を落とされたほうが、まだずっと違和感は少なかっただろう。

 魔導を使った一般市民への攻撃行為は禁止されている。これはニュルンベルク国際魔導条約本項以来、霊素現象に対応した第四追加議定書にも引き継がれている。

 それにリトル・トーキョー隊の先導であるマリア・Kに銃を向けた点。これもニュルンベルク国際魔導条約本項に記載のある、魔導力を持った者同士の交戦禁止に違反する。これはリトル・トーキョー隊の、ひいては魔法少女旅団という組織に対する、挑発や攪乱と受け取られかねないのである。この二つは身内からも、彼女らを快く思わない者たちからも、非難の材料を提供し、最悪の場合、魔法少女租界や魔法少女旅団そのものの存在意義が問われるのだ。

 そう考えると、リトル・トーキョー部隊の約半数で部隊を編成したのも、この場所に対する魔法少女たちへの配慮があってのことかもしれない。そうした配慮の編成のなか、なおも自分の出撃が選ばれたのであれば、少年の両親に銃を向け、さらにはマリア・Kにデリンジャーを向け一矢報いんとした自分の行為は、浩司たち助言者オブザーバーの信頼を裏切るものではなかったか……そんなふうに、さすがのヒルコでも罪悪感にとらわれるのだった。

 ヒルコが珍しくも罪悪感にとらわれていると同時に、二人の助言者も複雑な心境を抱えていた。ヒルコに起ったことは、ほかの魔法少女にだって起こりえたことだからだ。「遅かったか」と思うとともに、魔法少女らの助けを拒否するものが死んでいることに、助言者らはいくらかほっとしてもいたのだった。こういう場所柄だから、心を入れ替えて感謝を述べるものもいれば、もっと頑なに助けを拒否する者もいたかもしれない。それがどれほど現場を混乱させ、かつ心身を消耗させるものか。とはいうものの一組生き残り者もおり、そしてその一組は、やはりかたくなにさしのべられた手を拒絶していたのだが。

〈新造天使教会〉はまさに氷山の一角にすぎなかった。魔法少女という存在を拒絶する個人や集団は、見えているものばかりではなく潜在的に――多かれ少なかれ存在しているはずである。彼女らを異質なもの、曲がったもの、邪悪なもの、自らの尺度に合わないもの――そして究極には「わたしではないもの」として否定する一定の意思が、いま魔法少女たちが存在するのと同じようにして在る。

 結局いつかは自分たちに対する憎悪を、魔法少女たちは知ることになる。それもすぐ近くにある、ということを。

「それでやっとその時が来て、他の家は食われたっていうのに、この家の人間だけが残った」

「旨そうに見えなかったんだろうさ。案外霊素ってやつは美食家グルメなのかもな」

「からかわないでくださいよ、こんな時まで」

 浩司は憂鬱そうにつぶやいた。

「——あの子はどうなる? こーじ?」

 と、ヒルコはやっとの思いで一方を指さした。救護部隊に担ぎ出された盲目の少年の傍に、マリア・Kが付添っているのがみえた。

育児放棄ネグレクトと判断されれば、親元から引き離して、児童救済センターで保護されることになる。〈霊素〉や〈擬天使〉と別件になるか、信教の自由でってことで裁判までもつれこむか、……いずれにせよ、俺たちにはどうすることもできない」

「なんでお前そんなこと――あぁ」

 的場は後悔したようすで眉間を叩いた。自分の足で歩く地雷原は防ぎきれない。

「『子は親を選べない』っていうしな」

 ヒルコがぼそりと呟いたので、浩司は言葉に詰まり、的場はわざとらしく咳払いした。

「……きらきら光ってたんだ」

 と、少年はマリア・Kを話し相手に、とりとめのないことをつぶやいている。

 それは陽の名残りがなせる業なのか、少年の緑褐色に濁った眼に、光が宿っているのだった。そんな少年の手を取り、いちいち頷いて見せるマリア・Kは慈愛に満ちていて、とても美しい。

 天使のようだ――そう言ったらマリア・Kは怒るだろうか。

「お姉ちゃんはね、んと……炎。たくさんの炎だったんだよ!」

「……そう」

 ばつが悪い思いの的場は、自衛軍の特殊武器防護隊の車両に歩み寄って、なにか話しかけているようだった。

「なんだ、まだ頑張ってんのか?」

「『息子を返せ』って二階に立てこもって騒いでますよ。ったく自分たちのほうが出てくればいいっていうのに」

 呆れたように的場は鼻を鳴らした。

「ヘリで屋根ごと引っぺがしちまえばいいんだ」

 と、彼は軽口をたたいて、煙草を口にくわえた。

 ライターを探して懐をまさぐる。取り出されたのは、古風なジッポライターである。

 健康増進社会の忠実な信徒たる特殊武器防護隊の隊員は、この姿に眉をしかめて、慌ててその場を離れた。

 そしてまさに火を着けようとした瞬間だった。

 突如、家屋が発火した。

「ま……」

 的場は煙草を取り落した。

「まさか自分たちで!」

 はたして、そうではなかった。

 全身が象の鼻にも似た〈擬天使〉が、焼けぼっくいになって空から落ちてきたのだった。燃え盛る火球は二階部分を粉砕し、少年の両親はそのまま押しつぶされてしまったことだろう。火の勢いはゴミの山と〈擬天使〉の体に溜まった腐敗ガスが手伝って、ほとんど一瞬にして家屋を取り巻いた。

「姫さん! 聞こえ――」

〈任務は終わりました。さきにお帰りをお待ちしていますわ、的場おじ様、浩司兄さま〉

 的場の声を遮るようにマリア・Kの声が聞こえた。いつもの凛としたその声音に、彼はいくらかぞっとせずにはいられなかった。

「ああ、ご苦労様マリア」

 火災を後目に、部隊は次々、租界の方へと飛翔してゆく。

「おい、浩司もなに言ってやがる。まだ――」

「自分でゴミみたいな命を粗末にする奴なんか、この世にお呼びじゃねぇんだよ」

 と、呻くようにヒルコが言った。

〈そそ。天使サマといっしょに、燃えたいなら燃えちゃえば~?〉

 と、ユカの声。

 魔法少女たちが夕陽の中に溶けてゆこうとしている。

「浩司、お前――!」

「……俺たちも帰りましょう的場さん。任務は終わりました。それに――俺たちにはどうすることもできませんよ」

 全回線に魔法を持つ者に対する怨嗟の声が拾われていたことを思えば、魔法少女たちのこの反応は当然と言えば当然であった。

 彼女らが公務員や医者のように、どんな人間でも救わなければならないという使命感やホスピタリティーを抱く理由は、ここにはなかった。

 だが、と的場は歯ぎしりした。

 呆けたように火災現場を眺める浩司と、納得のいかない様子で息を吐く的場、そして力尽きたように苦し気な寝息を立てるヒルコを残して、リトル・トーキョー隊は、ついに夕陽に溶けてなくなった。

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