土曜日の夜、日曜日の朝




 日曜


「おー私たちのタラ農場のー記念すべき日よーッ!」

(よーッ! よーッ!)

 イタリア部隊ガリバルデイの一団が、その手に各々野菜やら香草を抱えて練り歩いている。それも捧げ持つような格好で、いよいよもって儀式じみている。

 先頭にたってこの示威行進を指揮しているのは、イタリア部隊の先導であるキアーラだ。

「ってことは、ピザ食えんの?」

「ピッツァよ、ピッツァ! アメリカナイズされてんじゃないわよ!」

「あれ写真で見る限り美味そうなんだよな、ピザ」

「人の話聞きなさいよ。あとおいしいわよ! それでもってピザじゃない、ピッツァよ!」

 かくいうキアーラが本場のピッツァを食べたことがあるのか。彼女らの生い立ちからすると、多分に疑問ではある。とは言え、この場にアメリカ部隊エイブラハム・リンカーンがいなかったのは幸いというべきだったか。

「これからはどしどしお野菜を育てるのよ。今日も一歩前進。目指せわれらが自給自足のスパツィオ・ヴィターレ(イタリア版「東方生存圏(独)」、「大東亜共栄圏(日)」のこと)!」

(ヴィンチェレ! ヴィンチェレッ!)

 聞く人間もの人間ものなら怒られそうな発言だが、イタリア部隊の植物生産への情熱を、だれも止める気はなさそうである。

 租界の植物工場プラントの稼働率は、全体の三割に満たないのが現状だ。残りを外部からの合成食品の供給に依存し、しかも食文化の差異という観点から、決して万人を満足させるものではない。この状況は、ちょっとした拍子に暴発の危険性をはらんでいた。彼女らにとって、自分たちで野菜を愛で育てるというのは、ストレス解消の一つなのだろう。

 一カ所に集められた各国・各地域の魔法少女たちは、ともすると文化的差異を自ら創出する傾向がみられる。母国の乏しい記憶が、そうさせているのかもしれない。いっぽう各国の部隊の助言者たちが、浩司や的場を含めて、その差異がしだいに希薄になっているのとは対照的にだ。

 だが、やはり彼女たちの文化的差異が、おのずから作られたものであることは、イタリア部隊の植物工場区画にもかかわらず「タラ農場」と呼称されている点から見ても明らかである。

「さぁ、お野菜をお母ちゃんに捧げるのです!」

 キアーラはいっぽうをびしりと指さした。

 内部から見渡すとすり鉢状に見える一角に、サルノコシカケに乗っかったような家屋がある。完全な違法建築だが、租界で日本の建築基準法などの法律が適用されるのか、結局あいまいなままだ。

(協調性に欠けます)

 ロッテンマイヤーがなかば憤って、なかば諦観のため息交じりに見上げる家屋の持ち主が、「お母ちゃん」こと三賢女の一人、グランマーマ・ソフィアである。土を持ち込み、食物と薬草を育て、火を用いて料理をし、薬品の調合もする。それゆえに、一番オーソドックスに魔女らしい魔女といえる。世話好きで魔法少女たちから「お母ちゃん」と呼び親しまれる彼女は、肩幅の広いいくぶん赤ら顔のふくよかなグルジア人で、前世紀に同郷の鋼鉄のスターリンの粛清劇(大テロル)から生き残った唯一の魔女である。

 それはとにかく、

(ひと騒動ありそうだ)。

 一部始終を目撃した浩司は足早にその場を後にした。練り歩くイタリア部隊の前方から、アメリカ部隊が騒ぎを聞きつけてか、ぞろぞろと群れを成してやってきたのだった。

 今日ばかりは巻き込まれるのはごめんである。

 なぜならば、

「ごきげんよう、浩司兄さま」。

 ――スカートの先をつまむと、マリア・Kは軽く頭を下げて上目遣いに微笑んだ。

 その姿を見ればマリア・Kすら、各国魔法少女が文化的差異を表現する傾向の例外ではありえない。

 レースの襟は胸元で豊かに波打っている。レースの中央には真紅の玉石のはめ込まれた留め具。双眸と同じく、深いグレシャーブルーのロングスカートが大人びた印象を与える。

 マリア・Kの淡い桜色の唇が弧を描くと、またそれが花いっぱいに咲いたような華やかさを引き立てるのだった。

「いかがですか、浩司兄さま?」

(とても目立つだろうな)

 と、浩司は心の中で頭をかいた。マリア・Kは神秘的な美しさと愛らしさに満ちており、全身が輝いているようだった。租界ここではあまり好まれる表現ではないが、それは「天使のような」という表現がぴったりしていた。

(ま、とはいっても目的地まで一直線なわけだし)

「とっても素敵だよ、マリア」

「まぁ、嬉しい」

 マリア・Kは嬉しそうににこやかにほほ笑んだのだった。

「さぁ、参りましょう」

 ――この逢瀬を、淡紅色の瞳は見逃さなかった。

「よし、あたしもそろそろ……」

 ヒルコは出来るだけ目立たないように、イタリア部隊とアメリカ部隊がそれこそ目から火花を散らすが如く対峙する一団から離れると、事前に近場に隠し置いていた自分の「へぼ」箒を抱え、一散に飛行台のほうへ疾駆した。

 首元にはハーネスがついていない。


 土曜


 アウスグス(ガーゴイルのドイツ語)のつがいの置物が、浩司をぎょろッとした表情で睨みつけていた。「邪を払う」ものらしい。

 グランマーマ・ロッテンマイヤーの執務室はいつも騒然とした様相を呈している。これは三賢女のうち二人が多分に「事務仕事に向かない」ために、租界の運用、魔法少女たちの教育、日本国政府との交渉その他各種事務処理の多くが、ことごとく彼女に集中しているからに他ならなかった。それでもロッテンマイヤーいわく「自分でこなしたほうが確実かつ圧倒的に早い」ようだ。

 室内は騒然としていたし、文書主義の織り成す、うずたかく積まれた書類の白亜の塔は圧巻であった。それでもロッテンマイヤーの事務処理の確かさと、彼女によって息を吹き込まれたつがいのアウスグスたちが、かいがいしく飛び回ったり、部屋の中を整理してくれたりするおかげで、汚らしかったり雑然としたりしたようすはなく、まったくすっきりとしていた。

 それももう本日の分は終了したのだろう。書類の類が飛び交っているでもなく、つがいのアウスグスたちも、執務室両脇の柱の台座に鎮座ましまして、じっと黒曜石の目で若い客人――浩司を睨んでいるばかりだ。浩司がなにか粗相を起こそうものなら、ロッテンマイヤーの命令一下で、彼らは襲い掛かってくることだろう。そんなロッテンマイヤーの逆鱗に触れるような粗相を犯す蛮勇は、もちろん浩司は持ち合わせていなかったけれども。

「マリア・Kが外出許可の申請をしていますね?」

「えぇ。申請書類に不備でも?」

「いえ、これで結構。外出は許可します。……時にコウジ、最近は?」

「リトル・トーキョーの当番日以外特には?」

 自分は戸籍上死んだ人間(特定秘密)として処理されている。特に趣味らしい趣味もないので、租界の外側になにか用があるわけではない。外部からの供給物で彼はおおむね満足している。合成食品にも慣れたもので「本物の肉」や「本物の乳製品」。酒やたばこなどの嗜好品がなくても、大きな支障はない。つらつら考えていると面白みのない男だ、と浩司は自分でも思う。

「そうですか――では、マリア・Kに同行なさい」

「……は?」

 ロッテンマイヤーは申請書類から顔をあげた。

「聞こえなかったのですか? まだ若いのに先が思いやられること。もう一度言ってあげましょう。マリア・Kに同行なさい。あなたをご指名、です」

 予期せぬ言葉に、浩司は驚いて目を白黒させた。

「しかし、これまでの慣例では――」

「そうです、私が同行していました。常のマリア・Kの品行方正、日頃の正しい行いから、今回は特別の例外として、あなた同行での外出の願いを聞き届けたのです。よかったですね。あなたは信頼されているのですよ」

 有無を言わさぬようす、多少の皮肉めいた調子を声音に帯びて、ロッテンマイヤーは言った。常のきびきびした口調の中にも、妙に歯切れの悪いものが感じられる。マリア・Kの願いを快諾した、とはいい難いようだ。

「但し各法具は預けること。もちろんハーネスを装着するように。道中危険があるような場合は、直ちに租界へ帰投し、ことの経過を報告すること。門限その他諸々の規則を遵守すること。と、まぁ、マリア・Kなら心配することではありませんが、念には念を入れて。よおぉく、言い含めておくように。以上」

(満遍なく付き合う、というのが肝要です)

「コーヒーはいかが?」

「えぇ? いただきます」

 ロッテンマイヤーのコーヒー党はかなり有名で、執務室を訪れる者にはふるまわれるのが習わしのようになっている。またそれが合図で、「話はこれにて打ち切り」なのであり「用向きが済んだら、それを飲んでさっさと帰れ」という意味も含まれているようである。

(苦海ヒルコに目をかけるのは結構ですが)

 ヒルコだけをひいきしているつもりはない。むしろ一番被害を被っているのだし、他への被害を、己が一身によって最小限に食い止めているのだ。

(問題はあなたではなく、周囲がどう思うか、ですよ)

 それはマリア・Kとても例外ではない、ということなのだろう。ロッテンマイヤーの歯切れが悪いのも頷ける。

「コウジ……コウジ?」

 以前ほどではない、とはいうものの、宙をふわふわと浮いてやってくるティーカップを、浩司はぎょっとしながら捉えた。

「さ、冷めないうちに」

 たんぽぽコーヒーの黒い鏡面に、浩司は自分の表情を窺った。それは波紋を広げて、ひどく動揺している。

 そして、

「うわぁああん。マリア様が浩司君に取られるウうう‼」

「泣くな妹! 浩司様が御付きとあれば、マリア様の身辺の安全は完璧に保障されているといっても過言ではなイナニカアッタラコロス」。

 傍から見れば三文芝居にすぎなくとも、エマとユマたちはいたって本気である。こうして二人が悲劇の大根芝居を打つのも、イタリア部隊が野菜収穫に近づくにつれて「スパツィオ・ヴィターレ」を声高に叫ぶのも、ハーネスにより押し込められた魔導力の〈叢〉が、体内で蓄積されているからに他ならない。つまりはアッパーかつハイになっているのだが、これは一般的に人間が極限下におかれたとき、ドーパミンの分泌によって興奮状態になるのと同じである。ただ、発散の場面が訪れない限り、このような大騒ぎがずっと続くことを示しているのだが……。

「出てくれねーかな〈擬天使〉」

 と、不謹慎なことを言うものもいる。

「大暴れしてやるぞー!」

 と、これに追従するものもいる。

 さて、エマ・ユマの二人が大騒ぎしたために、マリア・Kと浩司の「デート」が衆目に知れ渡るところとなった。その「女子的」拡散力の速さに、浩司は身震いしたものだった。

 一方のマリア・Kは、平素と変わらぬ「歩く優雅」の超然とした装いではあったが、「マリア・Kの(おしかけ)侍女」ことエマとユマに隠れて、その日着て行く服を選んでいたことから、ますます二人を恐慌状態に陥らせた。

(あんなに「ルンルン♪」なマリア様見たことない)

「――イナニカアッタラコロス」以降の、エマの絶望的に青ざめた表情から、ユマの泣き腫らしぼんやりしたようすから、その衝撃の度合いが推し量られる。

 グレシャーブルーの瞳に見つめられると、人はその蒼い深淵に魅了される。

 これは浩司も例外ではなかった。それにマリア・Kは浩司を見つけると、眩い光の中にぱっと白い花が咲くような笑顔で歩み寄ってきて「浩司兄さま!」などと声をかけてくるのだから、ついつい彼もいい気になってしまう、というものだ。

 しかし、このことがマリア・Kと浩司をめぐるもろもろの件につける毎度の大騒ぎの種であることは明らかであり――まだそうなってはいなかったが、ひょっとした拍子に「磔の呪文」をかけられたり、もっと最悪には首と胴が離れるような結末を招来するかもしれない。確かに、「満遍なく付き合う」というロッテンマイヤーの訓示は、彼自身の身を守るためにも核心をついていた。

 また、そのような浮ついた状況を見逃すはずがない魔法少女が、ここに一人いる。

 せわしなくギザ歯を打ち鳴らすヒルコは、魔導を解放していないにもかかわらず、誰をも寄せ付けさせない鬼気を放っていた。

 ところで、なにがそこまで自分を苛立たせるのか、彼女自身にもよくわからなかった。

 さて、こんな時充分に「話の分かる相手」は、堅物博学ばばー(グランマーマ・ロッテンマイヤー)でも、大盛りボルシチお母ちゃん(グランマーマ・ソフィア)でもない。

「えぇ? ヒルちゃん、もしかして嫉妬やいてるの?」

(や~ん、七つの大罪ぃ~)

 シルヴィアはそう茶化すのだが、ヒルコには、これが面白くもなんともない。

「うっざ」

 ヒルコは行儀悪く卓上で胡坐をかいて、苛立たし気にギザ歯を打ち鳴らした。そんな行儀の悪さ、口の悪さを前にしても、シルヴィアはどこ吹く風とニコニコしている。グランマーマ・ロッテンマイヤーやグランマーマ・ソフィアを前にしてはこうはいかないであろう。

 三賢女の一人、グランマーマ・シルヴィア。ヒルコが話の分かる相手と頼む「魔女のお姉さん」である。

 ウェーブがかった金髪と同じく金色の瞳。なにもかもがふわふわとして、つかみどころがない趣がする。

 そして、

(なに食えばそんなおっぱいが大きくなるのか)。

 ヒルコはたっぷりと張り詰めたシルヴィアの胸元を訝しくちらりと見つめる。あるいはその胸に、「魔性のもの」でも隠し持っているというのか。

 だがなにを隠そう、その魔性によって、多くの男たちを篭絡、堕落、破滅させてきた、妖魅の「魔女のお姉さん」である。

 しかし、彼女は前世紀の大戦において、グランマーマ・ロッテンマイヤーと敵対国の魔導兵同士として交戦した記録が残されている。ともなれば、彼女もロッテンマイヤーやソフィアと同じく、すくなくとも一世紀ばかりの長寿であることは疑いない。

「でもさグランマーマ・シルヴィ……ほがッ⁉」

 そのようなわけで、シルヴィア個人に対して、「グランマーマ(大おばあちゃん)」は禁句だった。おどろおどろしい、またヒルコとはいくぶんちがう様相の鬼気を発して、ヒルコの両頬をグイっとつねったのだった。

「あらあらヒルちゃ~ん。なにかおっしゃってぇ~?」

「ほーほひゅはんらーい(ぼうりょくはんたーい)」

 にこやかな表情のまま、シルヴィアの込める力は、もっと強くなったようだった。

「ほぉッ……ほがひゃひゃッ……? ひ、ひらいひらいっ(いたいいたい)……ふ、ふみまふぇんへひは(すみませんでした)。ひふびはへーはん(シルヴィア姉さん)!」

「は~い。よくできました~」

 かぽんと鹿威ししおどしのような音を立てて、ヒルコの頬は元に戻った。

「そうねぇ、浩司くんもお年頃だし……」

 痛みにせわしなく頬をこするヒルコを尻目に、シルヴィアは悩まし気に考え込む。


 日曜


「さ、いっくぞー!」

 ところで、とふいにヒルコは振り返った。

「なんであんたまでついてくんの?」

「だってヒルコちゃん、一人だと何するかわからな、いっ⁉」

 ヒルコはサツキの尻をキュッとつねった。

「ひどいよぉお」

「ってか、ユカは?」

「今日はまだ見てないけど……」

 大仰なため息を吐いて、あらたまったようすでサツキの方を向き直ると、ヒルコはギザ歯を打ち鳴らし、凄みをきかせながら迫った。

「ついてくるなら、ぜってー足手まといになるな」

 すでに現時点で、サツキの醸し出す「足手まとい」の感は否めなかったが――サツキは激しく頷いた。

「いいか、あのロリコンバカクズこーじとお姫サマの二人っきりなんだ。わかるか? これはチュー以上のことになるに絶対間違いない。ふじゅんいせーこーゆーを阻止すんだよ! わかるかこの理屈が!」

「ちゅ、ちゅ、チュー以上のこと⁉」

 顔を真っ赤にしてあわわし始めるサツキだったが、その動きがハタと止まった。

「チュー以上に、なにかあるの?」

「……⁉」

 無知っ子だった、か……。

 チュー以上のこと、の詳細には答えることなく、ヒルコは箒にまたがったのだった。


「あの二人に外出の許可を出したのは貴女なの⁈ グランマーマ・シルヴィア‼」

 猛然とロッテンマイヤーはシルヴィアに詰め寄った。

(あらあら、ご立腹~)

「あらあら、ご立腹~」

 思っていたことがつい口を衝いて出てしまった。

「怒りますとも!」

 憤慨のあまり菫色の魔導が、靄のように周囲を滞留している。

「申請書類は出さず、ハーネスもつけず、箒は持ち出す、しかもストーキングに使うなど言語道断。あの二人はマリア・Kとコウジの目的も知らないのでしょう?」

「うーん。少なくともリトル・トーキョーの人間だけは、私たちが話すよりも、自分たちの眼で見て、知っていたほうがいいと思うの。ヒルちゃんは特に、ね?」

「それはオール・グランマーマが決めることです。僭越ですよ」

「僭越とは言うけど、ここでのことは、私たち三賢女に任されているんじゃなかったー?」

 言い返すべくかっと口を開きかけたロッテンマイヤーだったが、その代わりに深いため息を吐いた。

「行先は決まっているからいいようなもの……とにかく、マリア・Kとコウジが、あの二人の尾行に気付く前に帰投するよう、ヘア・マトバには取り計らってもらいますからね。何かが起きてからでは遅いのですから……」

「いちおう法具は持たせてないけどー?」

「信用できません」

「お目付け役はさっチャンなのよー?」

「サツキは問題ありません。う……いえ、ちょっと頼りないですけれども。ええ、信用していますとも! ですが――」

 もう一人、彼女、

「苦界ヒルコは信用できません」

「苦海ヒルコは信用できないわねー」。

 その点は、双方意見の一致を見た。

「とにかくヘア・マトバを探さないと……」

 しかし、状況はグランマーマふたりに、マリア・Kと浩司、それにヒルコとサツキたちにかかずりあう暇を与えなかった。

 探し人のとうの的場が、観測塔内での、ある「騒ぎ」勃発の報をもたらしたからだった。


「ね、浩司兄さま?」

「とは言ってもな……本当に行くのか、ここ?」

 マリア・Kの指さす方向には、旧市街地の細長い路地の入り口がある。

(なるほど、だから俺を選んだのか)と、浩司は合点がいった。

 ちょっとした寄り道。と、浩司はそのつもりだった。

 だが、マリア・Kの指示するほう指示するほうへと向かううち、「嵌められた」と胸中確信に至った。

 車から降りて、GPSを欺瞞し、悪い予感が当たったところで、あれよあれよという間に、マリア・Kに使嗾された自分を発見したのだった。浩司はグランマーマ・ロッテンマイヤーの雷が、自分の一身に落ちる場面を想像して、軽く身震いした。

「守って下さいますでしょう? ね、浩司兄さま?」

 つっとマリア・Kが腕を絡ませた。

「……よし、手早く済まそう」

「そうでなくては!」

 ふたりは細い路地に向かって歩き始めた。

 自分が避雷針であることを、浩司はよく知っている。


「ぬあぁああ! おい見たかサツキ⁉ 手ぇなんかつないじゃってよー! やっぱ姫サマ猫かぶってるぞぅおーい!」

 ヒルコが鬼の首をとったとばかり嬉々として振り返ると、サツキは真っ赤な顔をしてこれを眺めている。

 あぁ、そうだこいつは無知っこだったのだ。きっと「チュー以上のこと」に思いを巡らせているのだろう。いつ答えに到達するか見ものだ。と、ヒルコはほくそ笑んだ。

 地上のふたりは、そのまま細長く入り組んだ、あまり清潔とは言えない路地を進んでゆく。開発や復興というものからついに忘れ去られた、規則性もなく、はっきりと目印になるようなもののない旧市街の迷路、である。それを上空で文字通り「高みの見物」で「そっちは行き止まりだぞ」とか、いちいち口にしてほくそ笑むヒルコであった。しかし、大通りから離れて、どこか自分たちのおよび知らぬ遠くへ行こうとしているかのようなふたりの姿に、いくらかもやもやした、粘着質の、黒い霧にも似たものが、胸元のあたりにぐるぐるととぐろを巻いていたのだった。

 もしかしてもしかすると本当に「チュー以上のこと」があるのやもしれず――いやいや、とヒルコは首を振ってその想念を追い払おうとした。

「……あれっ⁈」

(しまった!)と、ヒルコは心のうちで叫んだ。想念にとらわれたその刹那に、地上のふたりの姿を見うしなってしまったのだった。

「おい、あのふたりどこ行った⁉」

 サツキを振り返るが、ぼんやりふわふわと浮かんでいるばかりのサツキは、やはり「チュー以上のこと」にかかりきりになっていた。

「サツキぃっ‼」

「え……あぁっ⁈ 浩司さんとマリアちゃんは⁉」

「……くっ」


「うんとサービスして頂きました」

 浩司のもとに駆け寄ってきたマリア・Kはいたずらっぽそうに笑った。このちょっとした冒険に頬を上気させている。なかなかに貴重な光景だ――と浩司は思った。

 マリア・Kは、抱える紙袋をちょっと開いて見せた。まだ暖かく、甘いにおいが浩司の鼻腔をくすぐった。

 紙袋の中身は、バターを使った本物のマドレーヌだった。マリア・Kが調べたところによると、旧市街の一角でひっそり営んでいるこの菓子舗は、もとはある日本の小説家御用達の菓子舗で、旧首都東京が核攻撃で消失した際、放射性降下物の影響を考えこちらに移動してきたものである、という。このような動物性脂肪や乳製品、卵料理の売買は、旧市街地では半ば黙認されていた。

(なるほど、確かにグランマーマ・ロッテンマイヤーと一緒じゃ、この手の寄り道は出来ないだろうな)

 グランマーマや三賢女などと呼ばれる域にも達すると、移動手段は箒に限らず格段に広がる。無生物に暗示をかけて飛行具の役目を与えたり(魔法少女たちの箒はこれにあたる)、遠くの人の意識に介在してみせたり(これを移動手段とするか多分に疑問だが)、極めつけは(見栄えの面として)〈閉じた空間〉と呼ばれる瞬間移動テレポートの手段も身に着けることができる。定期的なマリア・Kの外出は、ロッテンマイヤーの駆使する〈閉じた空間〉によって租界―目的地の最短距離、でなされた。

「浩司兄さまもおひとついかが?」

「お嬢さまが買い食いなんてけしからんな。エマとユマが見たらぶっ倒れるぞ」

 そう冗談交じりにも浩司はマリア・Kからマドレーヌを受け取り、来た道を戻りかけたところだった。

「やぁあ、どうしたんだい兄弟?」

「こんなかわいいお嬢ちゃんなんか連れてちゃ、アブナぁイでぇすよお」

 人影二人が突然現れたのだった。

 見ればなんともオールドファッションなチンピラ、だ。しゃべりまで古風なチンピラに思われる。オールドメディアに登場するような、どこかつくりものの、粗造乱造された、粗悪品のようなチンピラ、である。ごつごつとした岩みたいな小男に、ニンジンのような細面のひょろひょろとした長身、の二人。

 新浜新都心に首都機能が移転して以来、旧市街には本物のバターを使う菓子屋から、後ろ暗い過去を持つもの、国籍のあいまいなものまでが押し込められている。魔法少女租界も――であるが、旧市街は地続きの外国人居留地、とも呼ぶべきものであった。仮に魔法少女租界の括弧つきの「政治的正しさ」の生んだ理想郷、であるとするならば、旧市街は、理想によって隠蔽された、現実の複雑な迷宮、といえた。

「……兄弟って、ほんとうですの、浩司兄さま?」

「そんな訳ないだろ」

「ですわね」

 マリア・Kは気分を害されたようすでふたりを睨みつけた。

 浩司は腰元のグロック26Cに、そろそろと手をかける。

「おっと、兄ちゃん。わかってんだぜ。変な気おこすなよ」

 チンピラ二人の手元に、拳銃の重々しく冷たい、鈍い光がちらりと見えた。均衡武器論的に言えば、弾数なども考えると、浩司のグロック26Cは分が悪い。

 それにしても浩司は別段万事休すというわけでもなかった。ようは目前のオールドファッションなチンピラ二人の拳銃の、武器としての総量をこちらが上回ればよいだけの話で、浩司は二人の隙を窺っていたのだった。

 とは言え、問題はハーネス付きのマリア・Kを擁しては……である。租界に信号を発すれば、この「寄り道」も明るみに出てしまう。それではGPSを欺瞞した意味がない。ともなれば、むやみに騒ぎを起こさずに、なんとか二人だけで切り抜けたいところである。相手二人がちょっとした金目当てなら、ホールドアップだって、マリア・Kの手前格好のつかないことこの上ないが、やむを得ないなら浩司はそうしただろう。

 ――が。

「待て待てぇえい!」

「は、ハートフルエナジーは渡さないくま!」

 背後からの声に、男二人は忌々し気に振り返り、ぎょっと目を剥いた。

「クマがいる⁈」

 巨大なクマのぬいぐるみが、自力で歩行している。

 な、わけがない。

「通りすがりの正ぃー義のッ超絶マジカル美少女だッ!」

 傍らでポーズをとるのは、『魔法少女まじかる~ナ』の主人公、月星るな変身後のベネチアンマスク装備で現れた、どうみても自称「超絶マジカル美少女」ヒルコだった。

「……」

「……なにやってんだ、ヒルコ、サツキ」

「んなっ⁉」

「だから言ったのに」

 サツキは顔を真っ赤に、くまきちに隠れるようにして呟いた。

「……」

「恥ずかしくないのかヒルコ?」

「……うっせー!」

 と、ヒルコは叫んでベネチアンマスクをかなぐり捨てた。彼女も顔を真っ赤にして、やっと羞恥心が戻ってきたようだった。

 拍子に呪縛が解けたとでも言わんばかりに、男二人は銃を構え直そうとしたのだった――が、

「動くな」

 一足先に、ヒルコは法具のモーゼル拳銃を向ける。

「そして今すぐ武器を捨てな。言っておくけど、ちゃんと撃てるからな」

 ギザ歯をきらめかせながら、ヒルコはにかりと笑った。

「ハーネスはどうした?」

「まぁ、今回恩を売っておくのも、悪くないじゃん?」

 ヒルコは内心で舌をぺろりと出した。

 自分でハーネスを取るのは、考えるだに恐ろしい。取り付けるのは簡単だが、取り外すにはコツが必要なのである。出掛けにグランマー……いや、シルヴィア姉さんに外してもらったのだった。

 何か言うことはないか? と、ヒルコは勝ち誇ったような表情を浮かべて、露骨に感謝の言葉を、浩司から引き出そうとしていた。

 大げさなため息をついて浩司は首を振った。

「気持ちはありがたいけどな」

 ――そうそう、「気持ちはありがたい」……けど、な?

「非霊素警報下での、攻撃魔法と法具の使用は認められていない」

「……はぁあああ⁉ バカこーじッ、あんた今の状況分かってんの!」

「だからこそだ。これはニュルンベルク魔導条約第四追加議定書に基づいている。非戦闘地域および非霊素発現地域における、対人殺傷を目的とした魔法の使用は、新しき魔女である魔法少女にも認められていない」

「くぁーッ、メンドクサッ! あんたお姫さまとも、さっきまでそんな風にしゃべってたわけ?」

 ヒルコは喉元をかきむしらんばかりに叫んだ。

「攻撃は許可しない」

 かしゅっ――ん。

「おい、忘れてんじゃねぇぞ魔女ども! お前たちは……」

「そうですわね」

 つ――、とマリア・Kが一歩踏み出す。

 マリア・Kの首元。

 ハーネスが、ない。

 浩司は男二人組にも見えるように、ハーネスを掲げる。

 男二人組は凍りついたように固まった。

 そんな氷漬けの二人組の前に、マリア・Kは一歩進み出るとスカートをつまみ上げて、小さくお辞儀して見せた。

 面を上げると、マリア・Kは花咲くように、笑った。

「天高く打ち上げられる用意は出来まして?」

〈風の精霊よ、邪を払え〉

 マリア・Kの地から噴き上がる防衛魔導にはじかれるようにして、男二人組はアッという間もなく宙高く吹き飛ばされた。

 遅れて情けない悲鳴がいったん遠のいたかと思うと、再び情けない悲鳴が地上に落下してきた。

「サツキ! 頼みましたわ!」

〈風の精霊たち、受け止めよ!〉

 男二人はそこにバルーンかトランポリンでもあるかのように、柔らかく何度かバウンドしてのち、どさりと地面に落ちた。

(ぷはっ――あ)

 サツキは緊張とともに、一気に空気を吐き出して脱力した。くまきちの洋服ボタンの目から、黄緑色の魔法陣が、名残を帯びてスパークしていた。

「状況終了——マリア、ごくろうさま」

「どういたしまして。お役に立てて光栄ですわ、浩司兄さま」

 ふたたびマリア・Kは花咲くように笑ったが、先ほどの「花咲くように」とはうってかわって柔らかく、可憐な乙女の笑顔であった。

「ありがとうな、サツキも」

 サツキは顔を真っ赤にしてはにかんだ。

 さて、まったく身の置き所がないのはヒルコ、である。

 浩司はヒルコのほうを見るまいと、努めて視線を外しているようであった。

 二人組は完全に失神しており、ピクリともしない。浩司は二人組に歩み寄って、彼らの身元の分かるものを探し始めた。(単なるごろつきであればいい)、と心に念じつつ。

 皮膚埋め込み型のIDタグを見つけた。この時点で二人組の前科持ちは確実である。浩司はその情報にアクセスしてみる。指定暴力団の末端構成員で、一人は暴行傷害、一人は未成年者略取および誘拐で実刑。ここまでもなんともオーソドックスな――

「……なんか言いたいことがあんだろ。このバカこーじ」。

 ついに耐えかねて、ヒルコが声を上げた。

 浩司は伏し目がちに、じろりと睨んだ。

「はっきり言ってみろ。どうせ――」

 浩司は重々しいため息を吐くと、不承不承立ち上がって、ヒルコに歩み寄った。浩司の放つ気迫に押されるように、ヒルコは怖気づいて一歩後退りした。その気迫――というか雰囲気が、父親(仮)の苦海壮一にそっくりだったのだ。

「お……なんだよ……」

「怪我はないか?」

 え——とヒルコがあっけにとられた瞬間、浩司はひょいとモーゼルを彼女の手から苦も無く取り上げた。

「これは没収だ」

「なんっでだよ⁈ 助けてやったじゃん!」

「助けられた覚えがないな。それに非霊素警報下での、攻撃魔法と法具の使用は認められていない」

「同じことをぺらぺらと。ロボットか!」

「こんなところで攻性の魔導を使ったら、言い訳も通らないんだぞ、それを――」

「んーなもん、テキトーにごまかしときゃいいじゃん? 『攻性じゃありませ~ん』って」

「そういう考えかたが浅はかなん……だ」

 と、浩司はなにかにはっと気がついたように言葉を切った。

「グランマーマ・シルヴィアだな?」

 ぐっとヒルコは言葉に詰まる。

「き、緊急時にはその……助けるようにって……だから」

 急に自信がなくなったのか、ヒルコはごにょごにょと呟いて、目を伏せた。

 浩司は深いため息を吐いた。

 グランマーマ・シルヴィアは「平地に波瀾を起こす人」であり、きっと面白がって煽動したのだろう。彼女がそういう性格だから、ロッテンマイヤーやソフィアのようには、彼女の名が出たからにはたいして説得力が働かないとみて、それでヒルコは急に自信が無くなったようだった。

「ん、サツキ、どうした?」

 傍らで問答を窺っていたサツキは、意を決したようにこくりと頷くと、真っ直ぐな瞳でこう言った。

「『チュー以上の事』って、なんですか?」

「……は?」

 唐突かつ爽やかなくらいまっすぐな質問に、呆気にとられる浩司の傍で、マリア・Kはみるみるうちに真っ赤になった。

(そうか、お姫サマはアレのこと知ってんだな)

 と、ヒルコは妙に感心して無言で頷いた。

(いやいや違う違う。おいサツキッ、空気読めよ!)

 かしゅっ――ん。

「ひっん⁈」

 ヒルコは首筋に走った感覚に思わずのけぞった。

 首筋には鈍い重み。

 制御棒が挿入されている。

 どうやら租界に置いてきたヒルコのハーネスは、浩司の手の中に転送されたようであった。

「さて、これで直ぐに警察が来るぞ。さっさと退散しよう」

「はい、浩司兄さま」

「は、はい浩司さん」

 はっと自分が無力化されたことに気がついた時には、もう遅い。浩司のたくましい拳骨が、ヒルコのこめかみをぐりぐりとえぐった。

「いででヌあぁぁッ、チクショウ無知っこシチュなんていらないんだよおぉぉお!」

「あの『チュー以上のこと』って……」……


 うわぁ、とサツキは感嘆の声をあげた。

「あ、あれっておうちだよね?」

 ぴょんぴょん飛び跳ね、嬉しそうにサツキの指さす方向には、逆円錐台形高層物のそびえる魔法少女租界が見える。

 ――そんなに喜ぶような光景か、とヒルコは言いたげに眉根を寄せ、サツキをじろりと睨みつけた。未だこめかみはじんじんと、その痛みを主張している。頬にこめかみと災難が続く。

「でも、ここって……」

「ああ」

 周囲を一瞥してヒルコは嘆息して、言った。

「墓地、だな」

 墓地のよう——だった。そもそもヒルコには墓参りの習慣はなかったし、実父や養父がどこに行ったのかすら知らされていなかったから、「これが墓地というものなのか……」、と推測するに過ぎなかった。

 といっても、日本ならではの黒い御影石の石塔や卒塔婆の立ち並ぶ墓地、とは趣が異なるのであったから、当然かもしれなかった。かまぼこ状の白色の墓石に十字架のついたのやら、アラベスク調の飾りを彫りこんだものやらが、一定の間隔にならんでおり、きっと名前なのだろう文字と故人への一文が書かれている。外国人の墓所だった。

「オーレリア大公国の霊園だ」

 怪訝そうな表情を浮かべるヒルコとサツキのふたりに、浩司は言った。

「お姫さまの国の――か」

 ヒルコは神妙な面持ちで言った。

 オーレリア大公国は、魔法少女たちの受け入れ地の第一候補であり、実際に七千名余りが入植した。

 しかし、これを不安視する声、括弧つきの「憂国の至情」にかられたものたちにより、クーデターによる大公の死、民衆暴動、市民による魔法少女たちの暴行・虐殺、お定まりの国連警察予備軍による強制軍事介入によって、瞬く間に世界地図からその名を消した。

 おびただしい墓石の列は、ある男がここに作ることを決めた。

 ジャン・K=オーレリア大公殿下が、愛娘の成長を見届けられるように、と。

 凪のように静かであった。安らぎはこの土の下に眠っているのか。

 きっと今この世界には、自分とサツキと、マリア・Kとバカこーじしかいないのではないか、とヒルコに思わせるのだった。

 いや――墓石の群れの中に、灰色のスーツに身を包んだ小さな人影が、ある墓石の前にしゃがみこんでいるのを見出した。背中はずいぶんとくたびれて見える。

「誰だ?」

 気配に気がついて、人影はいくぶん大儀そうに立ち上がった。

 古風な黒縁メガネの、颯爽とは言い難い、堅実なブルドッグを思わせる男が立っていた。険しい瞳が、レンズの奥からじっとこちらを凝視している。

「怪しいものではありません。墓参りに来たものです」

 誰何すいかされている、と慌てて浩司は言った。

「申し遅れました。国際魔法少女旅団リトル・トーキョー隊オブザーバーの伊藤浩司です」

 浩司は周囲に目配せして名のった。

「伊藤浩司?……ほう、珍しい客人だな、なぁジャン?――んん、大丈夫だ」

 と、目を丸くすると、故人の墓石に向かって、男は言った。

 どうやら男の傍らに建っている墓石が、マリア・Kの父ジャン・K=オーレリアの墓らしい。大公の墓にしては小ぶりで、ほかの墓石と、ひとめでそれと見分けがつくものではなかった。

「お父さまを、ご存知だったのですか?」

「ん。まぁ、昔馴染み、といったところか」

 花束が添えられている。日本式に線香も焚かれ、ゆらゆら煙が揺らめいている。

「お父様……そうか、君がマリアか」

 マリア・Kはスカートのすそをつまむと軽くお辞儀した。

「はじめまして。マリア・K=オーレリアと申します」

 眩しげに、男はマリア・Kを見つめ顔をほころばせた。

「ということは、君たちふたりも魔法少女と、そういうことだな」

 ヒルコ、サツキ両名が名のるのを聞き届け、男はあらためてマリア・Kたちのほうを向き直ると、ふたたび威厳ある顔つきをみせた。

「私たちには君たちの協力が必要だ。今後ともよろしく頼む」

 男は深々と頭を垂れたので、一同は気圧されたようだった。

 一人を除いて——

「ま、おっさんそんな頭下げんなよ。あたしらがいるんだからなぁあぃででで!」。

 ヒルコの頭頂にぐりぐりと浩司のゲンコツが食い込んだ。

 それを見て、男は苦笑した。

「おっと長居してしまったようだ。名残惜しいが、先に失礼させて頂くよ。まだいくらかやり残した仕事があってね。あとはゆっくり、御父上らと積もる話もあるだろう」

「『求るものに惜しみなく与う』」

 振り返った男に、マリア・Kは花咲くように笑いかけた。

 持つものの務め(ノヴレス・オブリージュ)、を体現するオーレリア大公のモットーであった。

「そうか……そうだったな。ありがとう、マリア・K=オーレリア」

 ――霊園の丘を去っていく、日本国内閣総理大臣竹川晋三の後姿は、先刻とは打って変わって、どこか生き生きとして見える。

 丘を降りたところ、公用車が横付けされている。竹川は乗り込むと同時に、何者かに合図するように手を振った。

 周囲の虚空から、数名のSPたちが姿を現した。

 光学迷彩仕様のスーツの着用は、うるさがりの竹川がこの時ばかり義務付けたものだった。近くに見えるように侍られているのでは、死者との会話もままならない。

「今回のお目付け役は、あのグランマーマ・ロッテンマイヤーではなかったな」

「あの方がいると、光学迷彩も役に立ちません」

 うん、と竹川は頷いた。

「高度な科学は魔法と見分けがつかなくなる、というからな。今回マリア・K=オーレリアに会えたのは幸運だったな。ジャンは良い娘を持ったものだ。……ところであの男、お前たちに気がついていたようだったな? 伊藤浩司、といったか?」

「総理」

 一人のSPが耳打ちする。竹川は目を細めた。

「なるほど、彼が――か」

 竹川はじっと丘を見やり、嘆息ともつかぬ小さなため息をついた。

 男のこと――つまり伊藤浩司のこと――は小耳にはさんでいた。SPの耳打ちで、以前防衛大臣を務めていた烏賀陽から聞かされたことを思い出したのだった。

「これがよい因果であればいいが……出してくれ」


 ふたたびオーレリア大公家の墓石に対した浩司は、先ほどは判別できなかったが、ある特徴を見いだした。

 墓石の突端に、鳥のレリーフがあしらわれている。鳥の目にあたる部分には、マリア・Kの双眸と同じ、蒼氷色のガラス玉が埋め込まれているのだ。

「鳩みたいだな」

 うふふ、とマリア・Kは含み笑いを漏らした。

「実は烏ですの」

 それは白い烏、だった。

 オーレリアの建国神話には、アルビノの烏が大公の祖先を導いて、蛮族の侵攻を打ち破ったという話があるようだ。

 大公家の墓――アルビノの烏のレリーフをあしらった墓は、しめて三つあった。

 三つならんだ墓石をじっと見つめて、マリア・Kは物思いにふけっているようだった。

「……俺たちは外そうか、マリア?」

「ありがとう浩司兄さま。でも、結構ですのよ、ここにいて――いいえ、離れないでくださいませ」

 マリア・Kの声があまりにも切実だったため、浩司は寄り添うようにして彼女の傍にしゃがみこんだ。

「私、泣かないって、そう決めましたの。悪い人たちは、私が泣くところを、見たいのでしょうから――それに泣いていたら前が見えないでしょう? そうしたらリトル・トーキョー隊の先達の勤めは果たせませんもの」

「そうだな」

「さぁ、お父様! 今日はお父様の大好きなマドレーヌをご用意しましたの! お口に合うといいのだけれど」

 このためのマドレーヌだったのだ、と浩司は合点がいった。それであの寄り道は、やはりグランマーマ・ロッテンマイヤーの雷を落とされても、するだけの価値のある行為だった、と思った。

 マドレーヌを供えるマリア・Kの手元を見つめていると、浩司は墓の土台にあたる部分に、細長く長方形に穴が開いているのを見出した。

 マドレーヌを添えて後、マリア・Kがおもむろに懐から取り出したのは、三つの封筒であった。

「手紙か?」

 死者への手紙。

 マリア・Kは微笑みで応えたが、どこか悲しげだ。

「これがお父さまの分」――ジャン・K=オーレリア。

「これがお母さまの分」――エレノア・K=オーレリア。

「これがお兄さまの分」――イシャラ・K=オーレリア。

 と、マリア・Kは三つの封筒を墓石に開いた切り口に次々と投函した。

「なにも残っていない。その死の痕跡すら。死の名残も」

 この墓の中には、なにもない。

 かつてのオーレリアは、遺骨収集もままならない状態である――。

「ねえ、ヒルコちゃん?」

 と、サツキがヒルコの服のすそを引っ張った。

「あぁん。なんだよ?」

「『死ぬ』ってどういうこと?」

 サツキの突然の哲学的な問いに、ヒルコはぎくりとしてサツキを見つめた。

「な、びっくりさせんな。ってかアタシに聞くなよ。死んだことねぇんだから」

 サツキのお尻を軽くつねって、しかしはたとヒルコは考えた。

 養父が死んだとき、自分がなにを感じたのか。じっさい、参考になるものはそれしかないのである。実父、実母は遠い存在。記憶もなにもない。

 だが、あの日変化ヘんげしてしまったものは、汚染除去の名目で、すぐさま焼却処分されてしまった。焼けて、融けて、そして灰になって――人間であったことは、そこから推し量ることができないモノになる。

「『死ぬ』ってのはな、みんな消えてなくなるんだよ」

「消えてなくなる?」

 うーん、とサツキは考え込んでいた。そして、

「だったらヒルコちゃんは死なないよね? いっつも一緒のお布団で寝てるんだし。くまきちも浩司さんもマリアちゃんも的場おじちゃんもロッテンマイヤーお母さんもソフィアお母さんもシルヴィアお母……お姉ちゃんも、みんな死なないよね?」。

 サツキがなにかを得心したようにほっとした表情を浮かべるのを見て、ヒルコは背筋が寒くなるのを感じた。

 同い年だというのに、自分たちは「幼っぽい」で済まされるのは微妙な年齢であるはずなのに、この意図が伝わらない徒労感に、〈擬天使〉と戦う方がまだましだ、という不謹慎な考えにとらわれていた。

「ってか、もうこの話はナシだナシ。今度聞いてみろ、ぶっ――」

 殺すぞ。と、ヒルコは後に続く言葉を呑み込んだ。

 知らないほうがいいこともある、世の中にそういうものもある。

 彼女たちは死を真面目に考えるのにはまだ若かった。


「諸っ君! 我々はー! アメリカ帝国主義にぃーっ、勝利したーっ!」

 イタリア部隊戦闘班先導キアーラによる閧の声が上がった。法具のフランベルジュ刀を振り回し、ハーネスが装着されているとはいえ、危なっかしいことこの上ない。

 どんな凄惨な戦いが繰り広げられたのかと思うほど、皆が真っ赤に染まっている。それでいて、イタリア部隊も、アメリカ部隊も、双方みなきわめて生き生きとはしゃぎまわっているのだ。

「なんだこれ⁉」

「圧倒的な数の劣勢を、わたしの華麗にして雄大な戦術で打破し勝利したのよっ! さぁ、褒めたたえよ‼」

 キアーラは鼻息荒く、自慢げな表情で真っ赤な世界の中心でふんぞり返っていた。とはいっても、双方謎の赤い液体にまみれて、なにをどうして勝敗の判定としたのか判然としなかったが。

「……なぁんだ、トマトじゃん」

 キアーラの言うその華麗にして雄大な戦術の講釈もそこそこに、全身トマトにまみれた彼女をしげしげと眺めてヒルコは言った。

「そ、トマトよ。トマト投げ祭りでこの戦いに勝利したの!」

「トマト投げ祭りぃ?」

 と、浩司が素っ頓狂な声を上げた。

「一度みんなでやってみたかったんですって、トマト投げ祭り(トマティーナ)」

 いつの間にか浩司の傍らに寄り添うように居るシルヴィアが言った。

 言われてみると、なるほどイタリア部隊にもアメリカ部隊にも若干名スペイン部隊が混じっている。トマト投げ祭りに、双方を使嗾しそうしたに違いない。全身トマトまみれの中で、彼女らはいたずらっぽそうに歯を見せた。

「どう、わたしの魔導わぁ、ちゃぁんとあなたに伝わったかしらー?」

 ぐいぐいと豊かな胸を押しつけるようとするシルヴィアの魔手をするりと脱して、浩司は礼を述べた。ヒルコのハーネスを浩司の掌に転送する術を施したのは、やはりシルヴィアで決まりのようだった。

(そのくらいの保険はかけるにきまってるでしょう)と、シルヴィアはグラマラスな媚態をくねらせる。

「ロッテは頭堅~いから、思いつかなかったんでしょうけどー」

「それで、グランマーマ・ロッテンマイヤーはどこに?」

「執務室に引っ込んでる」

 これもいつの間にか彼の傍らに居る的場が、熊のひげ面にトマトの汁を滴らせながら、そう告げた。

「あぁ、いまは行かねぇほうがいいぞ。堪忍袋の緒が切れるどころか、神経がすり減ってなくなっちまったらしくて、執務室から出てこない」

(まぁ、そのほうが怖くなくていいか)と、ひげ面の底から不敵な笑みを浮かべて、的場は愉快そうにつぶやいた。ロッテンマイヤーは、ヒルコ・サツキ両名の無断外出と、勃発したトマト投げ祭りが重なってパンクしてしまったようだ。

「ロッテも齢、ね~」

「……まったく物量だけのバカでよかったわバカで。それで私たちは、アメリカ部隊を端のほうに追いやると、猛烈果敢な集中砲火を浴びせ見事に粉砕せしめ――」

「よしっ、じゃあ祝勝かねてグランマーマ・ソフィアの台所借りてピザ作ろうぜピザ。一回食ってみたかったし」

 弱冠この自慢話を聞くのが面倒くさくなってきたのか、話を遮るようにヒルコがいった。

「ピッツァよ、ピッツァ! ……そうだ、そもそもお母ちゃんに捧げるんだった!」

「サラミあるのー?」

「どーせダミーミートしかねーだろ? おい、サツキ!」

 振り返ると、サツキの姿はない。くまきちをトマト投げ祭りの惨状で汚されてはたまらないと退散したらしい。気配の名残すらない。

(死ぬってのはな、みんな消えてなくなるんだよ)

(だったらヒルコちゃんは死なないよね? いっつも一緒のお布団で寝てるんだし。くまきちも浩司さんもマリアちゃんも的場おじちゃんもロッテンマイヤーお母さんもソフィアお母さんもシルヴィアお母……お姉ちゃんも、みんな死なないよね?)

 消えなければ、死なない。

 先刻の会話が脳内で再生されて、ヒルコはこの無政府状態の興奮が、心中で一気に白けてしまうのを感じた。

「コウ、ジ、さ、マ?」

 国籍不明のトマトゾンビが、よろよろとしたようすで浩司の前に現れた。

「浩司さむァーーー!」

 不意を突かれた浩司は、どすりと体当たり的に抱き着かれて「ぅごっ」と声を上げた。トマトまみれのエマ、ユマが、今にも泣きそうな表情で浩司に突進して抱き着いてきたのだった。

「浩司様がこの惨状からマリア様を遠ざけてくれたおかげで、ほんとうに……ほんとうに感謝にたえませエええん!」

「たえませエええん!」

「巻き込まれたのか?」

 別に自分のおかげではないのだが、と思いながら、彼女たちを落ち着かせようとふたりの肩をポンと叩いた。

「エマ! ユマ!」

 と、幾分か険のある声に、エマ、ユマは同時にびくりとして振り返った。

 マリア・Kのグレシャーブルーの瞳が、冷ややかに見つめていたのだ。

「はやく着替えてきなさい、見苦しい。それに浩司兄さまのお召し物を汚すことはなりません」

 その気迫に、エマとユマは恐れをなしてそそくさと退散した。それと入れ替わるような形で、マリア・Kはつ――と浩司のもとに歩み寄ってきた。

「お召し物が汚れてしまいましたわね、浩司兄さま。エマとユマの粗相をお許しください」

 マリア・Kはふいに手を出したかと思うと、エマとユマの顔の型が滲むトマトの汚れにその手を置いた。マリア・Kのグレシャーブルーの瞳の奥に、もっと深い蒼がわだかまっているのを浩司は見た。

「あ、ああ……大丈夫だよマリア」

 浩司は慌てて身を引いた。

(姫さま……あの野郎)

 ヒルコは淡紅色のきらめきを向ける。

「さぁ、ピッツァよ、ピッツァ!」

「おい、ちょっと! お前ら汚れるだろうが。うわっ⁉」

 トマトゾンビの群れが周囲を取り囲む中から、にゅっとドイツ部隊のエヴァがヒルコの鼻先に姿を現した。まったく感情を排したというべき、面白くもなんともなさそうな顔で、

「Hasi 一緒にピザ、食べよう」

 と、甘々声で言う。

「ピッツァだろうが。あと、『うさぎちゃん』はやめろってッ―――」

 イタリア部隊、それと対したアメリカ部隊、半々に組したスペイン部隊、愛しい「Hasi(ウサギちゃん)」ことヒルコを求め、先ほどまでリトル・トーキョー居住区を徘徊していたドイツ部隊のエヴァなどが一緒くたになって、ヒルコを巻き込んだトマトゾンビの人波と化した。目指すは「お母ちゃん」ことグランマーマ・ソフィアの住まいである。

 そんな喧騒の中。

 グランマーマ・シルヴィアの傍らによる人影が、ひとり。

「悪魔の尻尾はつかんだの?」

 シルヴィアは、そちらのほうに見向きもせずに言った。

「いいえ」

「そりゃそうよね。すぐに尻尾を出すようじゃ、味気ないものね~」

 表情を変じることなくシルヴィアが言った。

「もうちょっと泳がせておくつもりですよ、グラン……うみゅみゅ、シルヴィア姉さま」

「お願いするわね、子ネズミさん」

「あれ、なんだユカ、どこに行ってたんだよ?」

「あ、せんせぇ。やっほー!」

 グランマーマ・シルヴィアとユカの短い会話は、トマトゾンビの行進の騒動に埋もれてしまった。

 喧騒が、グランマーマ・ソフィアの住まいに吸い込まれてゆくように退くと、後にはトマト色の床とトマトのヘタや皮の無残な残骸と、浩司と的場だけが残された。マリア・Kは、なんともあいまいなまま浩司の下を離れてゆき、グランマーマ・シルヴィアはピッツァのご相伴にあずかろうと、トマトゾンビ(含ヒルコ)の後を追っていった。

「ありゃジェラシーってやつだ」

 と、的場は浩司のほうを振り向くと、したり顔で言った。

「ジェラシー、ですか?」

 キョトンとした表情の浩司を前に、的場は大げさにため息を吐いた。陸自の特殊作戦群という経歴は、かくも一人の人間を世事に鈍感にさせてしまうのだろうか――と。

「いいか、満遍なく付き合えよ。あとで後悔するからな」

 グランマーマ・ロッテンマイヤーと同じことを言う。自分では、その「満遍なく付き合っている」つもりだ。

「ところで、的場さんもトマト投げ祭りに参加したんですか」

「貰い事故だったんだがな。実に楽しい。それに今日はロッテンマイヤーの雷が落ちない。これはいいことだ」

 そうだろ? 満足げに呟く的場に、浩司は苦笑を浮かべるのだった。報告は明日に回そう、などと考えた。


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