国際魔法少女旅団


 霊素警戒警報CASE:26 A.D2043

 本件については、ニュルンベルク国際魔導条約第四追加議定書に基づき、当該地域内における魔導の全面展開と、その厳正的確なる運用のため、各法具の使用を許可するものである。

 日本政府の要請に基づき、国際魔法少女旅団(CASE:26対応部隊リトル・トーキョー)は、霊素警戒下における人命救助、避難の実施を最優先とする。制空権はこれを対応部隊に一任する。またこの当該対応部隊は、先のニュルンベルク国際魔導条約第四追加議定書を遵守するものである。尚実際の救出、減災任務にあたっては、「四月一日付改訂 霊素警戒計画」に基づいて、これを実施する。


 それは、〈ヤコブの梯子はしご〉と呼ばれている。

 あの人と闘って勝った男旧約聖書のヤコブ――その彼が夢の中で目撃した、天使の昇り降りする梯子――をほうふつとさせるような光景が、まばゆい乳白色の光を放ちつつ、周囲の空間を裂き開き、またその空間を穿つようにしながら、彼女らの目前に展開していた。


〈……そろそろ霊素警戒空域に入るぞ。ケツ冷やすなよ〉

「はいは~いせんせぇ! ユカはこうじっちの今の発言を、セクハラだと思いまーす!」

〈なっ!〉

「よろしい。バカこーじの発言をセクハラと認定する。総員磔の呪文を展開せよ!」

 その「せんせぇ」ことヒルコは、ツインテールを風になびかせ、傲然と悪魔のようなギザ歯をきらめかせた。

 魔法少女たちにとって、大真面目な助言者オブザーバーの一人――伊藤 浩司は、からかうのに丁度いいカモであるに違いない。

〈ヒルコ、ユカ!〉

「なぁにぃ? バカこーじ。あんたの言う『お子さま』相手にマ~ジかよ。はん。マジでかっこワル」

〈ねぇ、やめようよ。浩司さん、困ってるよ〉

 サツキのか細い声が聞こえる。ヒルコとユカを前にしては、彼女は蚊の啼くような声で抵抗するのが精いっぱいであるようだった。

〈沙っちぃ? まーたいい子ぶりっ子ですかぁ? カンジわーるーいー!〉

〈いい子ぶりっ子にはハーフネルソンだな。決ッ定~!〉

〈うぅ、そうじゃないよ……〉

 すでにサツキは涙声。非常に打たれ弱いようだ。

 きゃっきゃっとはしゃぐ声に、緊張感が弛緩してゆく。

「なんなんだ。お前らもっと気を引き締めて――」

「レディーの扱いが下手くそなんだ、おめぇさんはよ」

 と、的場 均は呆れ顔で言う。ひげ面のクマみたいな男で、彼も助言者の一人である。

「そろそろ慣れろよ」

「はぁ……」

 まだ何か言いたそうに口ごもる浩司のもとに、通信が入る。

〈浩司兄さま、ご指示を〉

 常の落ち着いた先導のマリア・Kの声を聞くと、浩司はほっとため息を吐いた。浩司にとって、その声はリトル・トーキョーの、数少ない良心の声に聞こえる。

〈おーぉ。マリアっち真面目さんだねぇ~〉

 ふたたびユカが茶々を入れた。

〈貴女たちがふざけすぎなだけです。サツキが可哀そうでしょう〉

(え、俺は?)——と口にしかけて、浩司はぐっとその言葉を飲み込んだ。

〈傾聴! これより、ニュルンベルク国際魔導条約第四追加議定書に基づいて、国際魔法少女旅団リトル・トーキョー部隊の攻撃・防衛魔導及びそれに伴う法具の全面的使用を許可する。ただし、人命救助を最優先事項とする〉

 その声に触発されるかのように、魔法少女たちの背後には、ふっと柔らかな光がともって、風の流れに乗って緩やかな尾を引いた。

 俗に〈魔女の尻尾〉などと呼ばれているが、この表現は適当ではない。それは首元に燈り、らせん状に放射されている。

 それが彼女たちの力の源泉――魔導力――であった。

〈なお、突入に際しては、部隊の士気向上のため『旅団の歌』をかけるものである〉

「はーっあ⁉ あれ、毎回めちゃめちゃちゃんとダサじゃん」

〈マイリンク御大の作詞だぞ。「ダサじゃん」とか言うな!〉

「はいは~い、こうじっち! ユカはくーろ君の『魔法少女とワルツを』希望しまーす」

「――あれ歌ってるとき、普通の女の子とつきあってた、らしい?」

「えっウソ‼ 情報源ソースは⁈」

 さて、浩司は……無視した。

 ファンファーレに続いて、空いっぱいに響き渡るのは『旅団の歌』、正式名称『国際魔法少女旅団の歌』だ。


 この空の自由が今

 奪われようとするとき

 世界中から箒をとり

 闘いに来た魔女ら

 空と人の自由を汚す

 天使たちのうごめき

 この空を牢屋にするな

 魔法愛するなら

 法具もていざ行け

 空のかなた前線へ

 天使を許せば

 世界は奴らの物

 箒もていざ行け

 迫るゼーレを乗り越え

 守れぞ精霊

 魔法の曙


〈総員、有視界飛行へ!〉


 ソメイヨシノの咲く並木道がある。

 人の姿はない。

 その代わりに瓜か瓢箪にも似た、白っぽい何かがうごめいている。それには木っ端かストローのような、細く節くれだったあしが、いくつも生えている。

 それはつい先ほどまではヒトだった。今、白いぶよぶよとした塊となって、何かを食んでいる。

 それもヒト、であった。臓腑を食い破られ、骨を砕かれている。すでにこと切れ、なんの反応もなく、自分の体がグロテスクな生物に食われるにまかせていた。

 ぶよぶよした、白い、かつてはヒトだった生き物は、Oの字を描く口蓋で腹に吸い付き、かみちぎり、腸をすすっている最中だった。ずるずると生々しい音を立てて、湯気の立つ腸が街頭にあふれた。


 ……箒もていざ行け

 迫る魂を乗り越え

 守れぞ精霊

 魔法の曙……


 空に波紋のように響く、『国際魔法少女旅団の歌』に気がついた白い肌の生き物たちは、口腔内にびっしりと生えた歯をうごめかせながら、自分たちの敵がやってきたことを仲間に知らせるように、低く、ねっとりとした声音でうをおぅん、と呻いた。それに呼応するように、いくつかは飛び立った。

 この生き物には翼があったのだった。


 浩司ら助言者一行は、装甲兵員輸送車でリトル・トーキョーの後背数キロを疾駆していた。

 車通りのない新浜新都心第七環状道路を爆走するのは、なかなか爽快であった。

 この第七環状道路のみならず、新浜新都心の大動脈とされる各道路には「待避線」と呼ばれる動脈と並行する支線が存在している。今も浩司ら助言者を乗せた装甲兵員輸送車を通すため、待避線には強制的に引き込まれた一般車両が所狭しと並んでおり、警報が解除されるまでじっと耐えているだろう一般市民がいる。戦争を想定して計画された日本の新たな首都――は「緊急滑走路零号エアストリップゼロ」などと、縁起でもない二つ名がつけられている。

 通信にノイズが入り始めたおりに、兵員輸送車はいったん停車した。霊素警戒区域下に入るさなか、それは時空断裂による影響によって、一時的ではあるが機器に影響をおよぼした。それが霊素警戒区域とそうでない地域とを分ける、合図になるのだ。これはおもに心霊学や神智学的な方面の慣例に基づいて〈霊障〉と呼ばれていた。

「さ……て」

 と、どちらともなく嘆じた。

 今日は生きて帰ることができるかもしれないし、あの白く輝く裂け目からの異形によって、その命を落とすかもしれない。

「さ……て」

 それは逡巡とは別物であった。なにより、彼女ら――魔法少女たちが――前線にいるのだ。まさか大のおとなが、いたいけな少女たちを危機に放り込んで、自分たちだけは尻尾をまいて逃げるわけにもいかない。

 それに、彼らはあまり先々のことに頓着するような習慣を、持ち合わせていなかった。

「行きましょう」

「おう」

 二人を乗せた、兵員輸送車は再び発進した。


〈擬天使個体を目視で確認。部隊より二時の方向。個体の形状から大天使アークエンジェルと思われる〉

 と、マリア・Kの声。

 瓜か瓢箪にも似たこの生物は、〈擬天使〉と呼ばれ、その中でも〈大天使〉と分類される個体群である。

「来たな、カモが」

 ヒルコは武者震いに、ギザ歯をかちかちと火打石のように打ち鳴らした。沸き立つような魔導が、彼女の周囲を満たすのだった。

「討ち入りじゃー!」

 と、ユカが叫ぶ。

〈……各自法具の確認!〉

 やっと浩司の声が聞こえるが、すでに魔法少女たちは、その手に各々の武器――となる法具を携えている。

「さぁて、まずは超絶マジカル美少女ヒルコさまの、きっつーい一発をお見舞いしてやるかな!」

 その自称「超絶マジカル美少女」は〈擬天使〉の一群に向けて、彼女の法具、ドイツマウザー社製の自動拳銃モーゼル・シュネルフォイヤーをかまえた。「箒の柄ブルームハンドル」と称されるグリップに、着脱式の銃床を取り付けたカービン銃仕様である。

「いえーい。せんせいの先制攻撃、入りむぁーす!」

 魔法少女たちの、かしましい声に〈大天使〉たちは、己が敵の存在を、はっきり確認したようだった。威嚇的に喉の奥から、ぐるぐるうぅん、となにかが詰まったような声を発すると、我先に襲い掛かってきた。

「うっは~、怒ってる。怒ってるよ、ひるっち。ヒャッハー!」

 ユカはどこか嬉しそうに声を上げた。きっと空元気に違いない。

〈大天使〉は、ただがむしゃらに突進してくる。

「はいチョロい!」

 ヒルコは間髪入れず呪文を唱えた。

〈精霊よ爆ぜよ、然るべく圧っせよ〉

 それは異言グラソラリア、だった。傍からは、子どもがでたらめな言葉を作って遊ぶような光景にみえる。

 だが、まことの意味を知らせることが無いからこそ、言葉は力をもつものだ。

 引き金が重々しくひかれた。

 猛然と突進してくる〈大天使〉の頭部めがけ、銃弾が放たれた。ヒルコの体は、反動にいくらか後ろに押されたようだった。放たれた7.63×25ミリマウザー弾は、常のモーゼル拳銃と同じく、銃口初速430m/sで銃口を離れる。

 着弾。

 柔らかな弾頭はするどいささくれとなって、ぶよぶよとした〈大天使〉の頭部を巻き込み、放射状に小さなミキサーの刃となって攪拌する。

 術式の発動。

〈大天使〉の身体に血脈を這わすように、ほのかに光る淡紅色の魔法陣。

 つまりはピンク。

 膨張。

 破裂。

 しかしその瞬間、魔法陣は〈大天使〉の頭部の肉片を巻き込んで、内に向かって一気に収縮した。

〈大天使〉は、失われた頭部を求めもがきながら、墜落していった。

「はいっ、まずは一匹ッ」

 次の獲物は――ッ⁉。

〈ヒルコ、突出しすぎだ。距離を保て〉

(うっせー、バカこーじ)

〈ヒルコ、浩司兄さまの命令に従いなさい!〉

(ったく、今度はお姫さまもか……)

 ヒルコが忌々し気に、軽く舌打ちした時だった。

〈——ㇶㇽコ。五時の方向、霊素来るぞ! ヒルコ‼〉

 その怒鳴り声に、ヒルコははっと我に返った。

 ヒルコから五時の方向。暗い乳白色の靄が、ゆらゆら蛇行を繰り返しながら、それでもかなりの速度で、ヒルコの飛んでいるあたりに迫っていた。

 蠢く〈霊素〉――。

 それは瘴気なのだろうか。

 霊素体状態では、通常兵器が全く役に立たない。

 しかも〈霊素〉は人間を食う。

 いや、乳白色の靄が「呑みこむ」と言ったほうが正しい。呑みこまれた人間は、そのヒトの形を保てずに解れる。ほぐれた人間の体は、霊素がこの世界に実体として顕現する養分とされて〈物象化〉=〈擬天使〉と化する。あの白いぶよぶよとした、かつてはヒトだったものになる。

 それがほとんど音もたてずに忍び寄ってくるのだ。

「あ、クソっ」

 ヒルコは回避行動をとり始めた。むしろそれが良くなかったのか、ヒルコに気がついたかのように、〈霊素〉はわっと突進してきたのだった。霞や霧のようであり、またなんらかの目的をもって人間を追いかけるようなその姿は、巨大な蚊柱にも似ている。追い立てられて気持のいいものではない。

 呑みこまれたが最後、人間でなくなる。

 ヒルコの魔導は攻勢であったことから、防衛の魔法陣を張って霊素を受け流したり、押し返したり、閉じ込めてしまうといったような芸当を、最も不得意としていた。

 とにかく、このつかみどころのないものから距離をおくことが先決だった。……

 いっぽう傷心のユカは『魔法少女とワルツを』を口ずさみながら、彼女の法具戦斧バトルアックスを振り回していた。戦斧は全く重みを感じさせないほど、俊敏にかつしなやかに、遮二無二突進してくるのを引き裂いた。その叩き裂かれた部分から、術式が発動して、〈大天使〉はどろどろと融解していく。

〈くーろ君の浮気者ーっ。あんぎゃぁあああ‼〉

 時折ときおり歌の合間に、ユカの悲痛な叫びが聞こえる。自らの置かれたとほうもない状況よりも、「くーろ君」なるアイドル歌手のスキャンダルのほうが重大なのだ。……

「みなさん、こっちです。つ、ついてきてください」

 ――今回その先達を務めるのはサツキのようだ。地上では何人かの逃げ遅れ者が、のろのろとサツキの箒のあとを徒歩でついてくる。

(き、来たあぁ!)

 と、地上で悲鳴が聞こえた。

 逃げ出す人々に気が付いた〈擬天使〉が、滑空して近づいてくるのだ。

 地上の人間では逃げ切れない。

(ひぃい……)

「えいッ!」

 サツキが襲い来る〈大天使〉の前にかかげたのは、なんと——クマのぬいぐるみ、だった。それもつぎはぎだらけ、一方の瞳が洋服のボタン、かかげる彼女の背丈の半分もあろうかという、年季のはいった巨大なクマのぬいぐるみ、だった。

〈精霊よ、悪しきものを払え〉

 襲い掛かる〈大天使〉たちは、なにか見えない壁にはじき返されるように、苦悶の奇声をあげて散っていった。

 一度は呆気に取られていた地上の避難者たちは、おずおずと歓声の声を上げた。

 サツキの法具――それはクマのぬいぐるみであり――サツキの言によれば、愛称は「くまきち」、である。

〈よし、上出来だ嬢ちゃん。その調子で頼むぞ〉

〈はっ、はいっ……やったね「くまきち」!〉

 それはそうと、サツキの任務――防衛魔導班は、策定された一次避難場所へ、逃げ遅れ者を誘導。霊素消失時間まで、逃げ遅れ者を囲むようにして防備に徹することになっている。……

「まったく、ヒルコは何をしているんだ!」

 浩司は苛立った声を上げた。

 モニターに映るヒルコの生体反応は、空中で急上昇急降下の荒業を繰り広げていた。使役される〈箒〉——と慣例で称される飛行具は、単に無機物でしかないが、あの荒々しい主人のとり扱いに、よくも耐えているというものである。

「嬢ちゃんなら、大丈夫だろう。それより、助言者としての任務に集中しろ」

 と、助言者はもう一人の助言者に助言した。

「ほら、お客さんだぞ」

〈……! 熱源五! ……マリア!〉

〈見えてますわ、浩司兄さま〉

 その時すでにマリア・Kの周囲を、五匹の〈大天使〉が旋回しながら取り囲んでいた。

 特に目を見張るのがマリア・Kの魔導である。彼女が頭上に振り上げた法具は、職杖メイスであった。蔦のような文様が美しく揺らめいている。

 メイスでぱちん、と空を打つと、術式はリボン状に展開されて〈大天使〉の周囲を取り巻いた。術式の最先端は、徐々に寄り集まって紙縒りの姿を形成する。

 マリア・Kは、メイスをひと振りした。

 瞬間、術式がすとんと〈大天使〉の身体の一つを刺し貫いた。

 それだけでは終わらなかった。刺し貫いた紙縒り状の術式は、さらにいくつかの鋭利な紙縒りになって、周囲の〈大天使〉を刺し貫いた。その姿は、さながら樹木と、白く肥えた果実のようであった。

 ふたたび、マリア・Kはメイスでぱちんと空を打つと、唱えた。

〈邪よ、燃えよ〉

 異言に反応するように、術式の紙縒りを通じて、〈大天使〉たちは次々と、青白い光をおびて発火した。〈大天使〉たちはよだかのような醜い声を発しながら、激しい炎に包まれて、円を描くように、墜落していったのだった。……

 さて、最初の一撃を加えた後、ヒルコは高濃度の〈霊素〉に追いまくられている。

 これも自信家という名の自己中心的ジコチユー自称「超絶マジカル美少女」ヒルコに言わせれば、「わたしがひきつけてやった」と得意満面、ギザ歯を目一杯きらめかせながら豪語するに違いない。

 たしかに、〈霊素〉はヒルコを追いまくって、他の魔法少女たちの〈擬天使〉狩りは順調に進んでいたのであるし、防衛魔導班はさほど敵の来襲にさらされなかった。もっとも厄介なのは〈物象化〉した〈擬天使〉ではなく、物理兵器の効かない、魔導でもはじき返すのが精いっぱいの、このつかみどころのない〈霊素〉であったから。

〈くぅっそ! 何分経った⁈〉

 しかし、ヒルコが得意満面、するどいギザ歯をきらめかせながら豪語しうるためには、この状況から生き残らねばならない。未だ一人として死者を出していない、この国際魔法少女旅団リトル・トーキョー隊の死者第一号になる気は、もちろんヒルコにはなかった。

〈霊素〉のこちらの世界での曝露の限界は、これまでのケースから平均十分前後とされている。〈物象化〉できなかった――つまり、受肉して〈擬天使〉になれなかった〈霊素〉は、徐々にこちらの世界に希釈されて、弱毒化、無化してしまう。この弱毒化、無化というのも、実際はそうなのか、誰にも説明できなかったが。

〈うわっ。せんせぇ、こっち来ないで~ッ〉

〈うるせぇ! 助けろ!〉

 箒が突如力を失ったような垂直急降下。これにざわざわと〈霊素〉が追いすがる。

 地上――粉塵がもうもうと噴き上がるなか――ヒルコとその箒は、土煙をまとうように飛び出した。

 ヒルコを乗せ地上すれすれを爆走する箒。

〈霊素〉はなんとかして追いついてやろうとばかり、らせんになったり、芋虫のように伸びあがったり、縮んだりの蠕動ぜんどう運動を繰り返すが、到達するかと思われる瞬間、ヒルコはさまざまに形を変える追手の魔手を、縦横無尽にかわし、すり抜けた。その軽快さは危機に直面しているというのに、どこか〈霊素〉を相手どって曲芸を演じているように見えた。

 徐々に〈霊素〉の動きが緩慢になる。とぐろを巻いていたものが徐々に薄まってゆくのだ。

(仕上げだ)

 ヒルコはにかりとギザ歯を不敵にきらめかせた。箒の柄に意識を集中すると、一気に持ち上げるため体をそらす格好になった。箒の尻尾が、火花を散らしながら地上を打つ。

 どっ――。

 垂直急上昇。

〈霊素〉もそれに倣うが、もはや力なくのろのろとした立ち上がり。ヒルコの箒に、徐々に距離を離される。

「さあ、さぁ! さっさっと失せやがれぇぇぇ!」

 追いすがろうとする力を振り絞った蠢きのさなか、しかし、何者かに引っ張られたように、ぴたりと〈霊素〉は動きを止めた。

 力を失ったのだ。薄暗い名残を帯びて地上に雪のように降りかかると、色を失って雲散霧消していった。それと共に、ヒルコは憑き物が落ちたような軽やかさを覚えてどっと息をついた。

 そして、

〈……霊素消失。これより擬天使掃討に完全移行する。防衛魔導班は、安全が確認されるまでその場で待機〉

 浩司の宣言に、ヒルコは心の中で、小さくガッツポーズをとった。とにかく〈霊素〉からは逃げ切ったことだし、ここから戻って、心置きなく〈擬天使〉狩りに集中できる。

 ヒルコの箒は、再び低空飛行に転じた。騒ぎで散った大量の桜の花びらが、風に巻き上げられて、ヒルコを祝福してくれているようだった。

 そこに――一匹、ヒルコは見つけた。

 崩れ折れた家屋の屋根が、他の魔法少女たちの死角になっていたのだろう。仲間が次々魔法少女たちの餌食になっているというのに、その家屋の屋根の持ち主らしき死体のいくつかを一箇所に引き寄せて、悠々啄ついばんでいる。

(大分食い意地はってんな)

 こちらには全く気が付いていない。

 にかり、とヒルコはギザ歯をきらめかせた。

(はん、チョロい)

〈爆ぜよ、然るべく圧っ――〉

 ゴッん――。

 鈍重な衝撃音が響いたかと思うと、

「……え?」。

 ヒルコは空中に放り出されていた。

 緩慢に思える一回転のさなか、ヒルコは他より頭一つ分突き出た鉄骨の残骸に、自分の箒が突っかかっているのを目撃した。

(このへぼ箒が!)

 さらに緩慢な一回転。

 その先で〈大天使〉は自ら飛び込んできた獲物を食らうために、口を大きく開けている!

「え――――っ⁉」

 ヒルコの叫びごと飲み込んでしまうように、擬天使は一口にヒルコを丸呑みしてしまった。

〈あっ、ヒルコ!〉

〈大天使〉の中で、浩司の怒鳴り声が聞こえたように思えた。それも喉仏と思しき突起物が嚥下すると、ごぼごぼとした意味のない音に変わり果てた。

 生体反応を示すモニターに、浩司は慌てて目を向けた。まだその「死」を示す〈LOST〉の文字は表示されていない。

 すると、〈大天使〉は喉元にあたるであろう部分に、その細長い肢をあてると、ひきむしるようにもがきはじめた。同時に背後の羽をあわただしくバタバタ広げたり閉じたりして、苦痛をいくらかでも体外に散らしたいかのようだった。

 その翼の付け根辺りが、淡紅色に輝き始めると。……

 白い風船は内側から弾けた。

 背中を吹き飛ばされた〈大天使〉は、空を見上げるような格好をすると、ゆらり前のめりに倒れ込んだ。

 吹き飛ばされた背中からは、人影が姿を現した。一足遅れて、上空に高く吹き飛ばされたどす黒い血液と、捕食された肉片が、赤黒い天気雨となって、彼女――呆然と陰惨な光景に立ちずさむ魔法少女――苦海くかいヒルコの頬を濡らした。

「……ッサイッアクだぁぁあああ――――――――ッ!」

 ヒルコの怒声が一帯に響き渡った。


 白く、ぶよぶよとした、〈霊素〉に解された、かつてはヒトだったもの。

擬天使ぎてんし〉――文字通り天使モドキである。

 存在を確認したものは現在三種。時空断裂の規模と物象化が確認された順に名称づけられており、それぞれ天使・大天使・君権天使、である。

 この三種に共通するのは、彼らが翼をもっていて飛行能力を有する、という事である。そこから拉致もない議論の末天使が敷衍され、空間のひずみから現れる異形たちは、これをもって俗世に恭順した魔法使い・魔女たちによって天使モドキ=〈擬天使〉と呼称された。

 それは俗世に恭順した魔法使い・魔女たちの、恭順した、また恭順させられた俗世に対する、ささやかな抵抗や、皮肉や、怒りや、当てつけの表現だったのかもしれない。今、人類が相手にしているのは――とはいっても、日本国という局所的な地域におけることだが――ありがたがっていたり、奉っていたりした、「天使」といわれる未知の生き物であるのだ。

(今、わたしの手元にあります調査報告によれば、この〈擬天使〉なるものは人間を捕食してこちらの世界で実体を得る、というように書かれておりますが、いったい〈霊素〉と呼ばれる……つまりはですね、実体を持っていないものがですよ、人間を捕食するなどということがあり得るのですか?)

「何言ってんだ。このおっさん? 今さら?」

 野党議員の代表質問に、浩司はあきれ顔で突っ込みを入れた。

「まぁ、天使が何喰って生きているのか、教会で真面目に論じられてた時代もあったからな。驚きゃしねぇよ」

 と、的場は胡乱げに呟いて、軽く首を鳴らした。

 目下の状況にあっても、〈擬天使〉掃討ころしに、殺人や死体損壊の罪を適用しようと、野党の民主国民党は躍起になっている。

 死んだ〈擬天使〉はもともと人間であるのだから人間として遇され交戦国の敵国人でない限りにはそれを掃討ころしたものが国法によって裁かれるのは当然でありこれを捻じ曲げるのは立憲主義の精神に反するばかりかしかしながらわが国には青少年に更生の余地ありとして少年法の適用を視野に入れた政策が必須でありまた人道的な面から見ても国際社会の云々――。

 ……ちなみに助言者たちの罪は幇助、らしい。政治の世界だけが西暦二〇四三年の今日に至ってもなお、旧態依然とした政争を繰り広げている、という証左である。

「運が悪いのは仕方ねぇよ。運の悪い奴は一生運が悪いんだ。俺らも嬢ちゃんたちもな。貧乏くじだって、そう達観しちまえば驚きゃしねぇよ」

 首相が発言をもとめ手を上げた。

(内閣総理大臣竹川晋三君)

 竹川晋三。与党自由民主連合の古株の一人だ。古風な黒縁眼鏡。颯爽とした姿とはいいがたく、堅実な老いたブル・ドッグを思わせる。

 その答弁も、まるで経文のように一度では推し量れないものだった。

(――しており、引き続き魔法少女旅団の皆さんには、人命救助を最優先として協力を要請し、それに関連しての支援を惜しまない、という方針に変わりありません)

 それでも不服そうな表情で、浩司は国会中継を映すモニターを眺めていた。

 魔法少女と言っても、常は魔法の使えない女の子となにも変わりがない。

 だからこそもっと強い言葉で、彼女らを守るべきだと浩司は思った。だがそうした考えがいくぶん青臭いことは百も承知で、だから口には出さなかったが。

「やめとけ、やめとけ。どうせ気分が悪くなるし、腹立つだけなんだからな。まだ竹川がそれだけ言えるだけましってもんだ。まあ駆け引きが下手で政治屋にむいてるとは――」

〈定時連絡。定時連絡。応答せよ……LT、おい聞こえてるのか。応答しろ〉

「聞こえてるよ」

 気分を害したように、的場は通信機に向かってむっすりと答えた。……


 なかなか臭いは落ちない。

 ボディーソープにシャンプー、リンスを丸々一本消費したところで、全身から立ちのぼるかもしれない、かすかな臭いに脅かされるようだ。

 ヒトの臓腑の臭い。頭から突っ込んでしまったそれは、もともとヒトだったのである。

 ヒルコは思い出すたび吐き気をもよおして、排水溝に向かって吐き出した。もう吐くものが無かった。かすかに黄色い胃液が、糸を引いて口の端から伝い落ちた。

 けいれんを起こす下っ腹がじりじりと痛み出して、ヒルコは唇を噛んだ。痛みを感じると、思い出したくもない記憶が、その痛み出す下っ腹から、もっと底のほうにある子宮から、生臭い臓腑の臭いとともによみがえってくるのだった。

 彼女ら魔法少女たちの最低限度の装備――炭素繊維ボディアーマーと、全身に纏う人工の皮膚――細糸人造スキンの装着以外は、各人の裁量と趣向に任せられている。「古式」にのっとって黒衣にとんがり帽の姿もいれば、フリルのついた華やかな衣装の姿もあり、民族衣装に身を包んだ姿とさまざまだ。見ていて飽きないが、悪く言えば統一感には欠ける。

 対人戦闘における魔法の使用を禁止する条約が存在するために、その装備は最小限に抑えられている。つまりは「普通の人間は傷つけない程度に。自分は傷つかない程度に」、だ。

 だが、ヒルコの装備も衣装も、〈擬天使〉に一度呑み込まれたことから、すべて汚染されてしまった。焼却処分は確実だ。彼女に言わせると「可愛いあたしを引き立てる、かっこカワイイ魔法少女っぽいすべてが、焼き尽くされて灰になってしまう」のである。

 微細な切り傷はすでに癒えていた。全身に纏う細糸人造スキンは、すぐに傷口に覆うと、人工的な皮膚を形成する。治癒も早い。小さな切り傷程度なら、痛みを感じる前に癒えている、と言っても過言ではない。

 つまりこの痛みは。

(アタシのせいじゃない)

 ギザ歯をカチカチと鳴らしながら、ヒルコは下腹をさする。子宮を取り出して、この痛みごと洗い流してしまいたい、などと途方もないことを考えてみる。

 そもそも、別に魔女に生まれたくて生まれたわけじゃない。

 憎悪が彼女を生かしている。それはあの最初の日に刻印されて、ヒルコの下腹を、今日までじくじくと痛めつけ、わだかまったままだった。

 痛み――を感じると。あの男——父親のことを思い出す。

 といっても実の父親ではない。

 苦海ヒルコの養父――それに加えてつけると浩司や的場の上官であったところの苦海壮一一等陸佐は、ヒルコに一つとして容赦しなかった。そのようすは家族というかたちとはほど遠く、苦行を続ける修行者の師匠と弟子のようであった。養父はヒルコが暴発しそうならば、それより先に力でねじふせた。

 というのも、たとえ「不慮の事故」であったとしても、それでヒルコになんらの瑕疵もなかったにせよ、そのうえ輪をかけて彼女にその記憶がまったくないにせよ、実父を爆殺し、実母を狂気に追いやった彼女と、常の親子のように接するわけにはいかなかったからである。

 普通の人間が魔法少女を養育するのは、並大抵のことではない。特に激発性癇癪持ちのヒルコならなおさら。それはヒルコ本人が一番よく承知しているところだ。

(くそ。いてぇ。ムカつく)

 考えれば考えるほど、痛みはその存在を主張してくる。

 苦海壮一は、ヒルコに生きる術を教えた。

 と、言ってもその術なるものは、今のところ使い道が限られていたが。

 怒りと胃袋のけいれんにぶるぶる震えながら、ろくに体も拭かずシャワールームを出た。

 脱衣所はすでにもぬけの殻だった。ヒトの血と臓物にまみれたまま後回しにされたうえ、誰も彼女を待ってその労をねぎらったり、慰めようなどという殊勝な心持には至らなかったようである。もとより、ねぎらいや慰めを必要とするヒルコではなかった。まさに「触らぬ神に祟りなし」である。

 フンと鼻を鳴らし、一方の壁を睨みつけた。その壁は、幾つかの曲線を描いて波打っている。

 ヒルコは壁に背を向けて、曲線に合わせるように体をぴたりとくっつけた。

 かしゅっ――ん。

 首の後ろに異物が入り込んでくる感覚に、ヒルコは小さくのけぞった。

 そっと身体を壁から離すと、銀色の円筒が、首の裏側にすっぽりと収まっている。

 魔導のコントロールを目的とした、円柱型の制御棒。

「ハーネス」――一連の器具はそう呼ばれている。ハーネスといえば、基本的にはハミや手綱といった馬具の総称である。

 つまりは、彼女ら魔法少女たちをうまく飼いならすためのそれ、だ。

 本来的には魔導力の体外への放出(当人たちは、これを外空間に自己の意識を「浸透する」、という)は、ヒンドゥーの轆轤チャクラや、メラネシア語で「力」を意味するマナ、といったもののように、人間の頭部、胸部、腹部などの中枢域に形成された各〈そう〉から、体外へと徐々に「浸透」していくものである。このような「浸透」作用を、ハーネスは外科手術を施して、首の付け根辺りから流れ出るよう、ひとつに動線を拡張し、強制することを目的として設計されている。制御棒が挿入されている場合、つねに魔導力は〈叢〉に蓄積され、体内の〈叢〉同士を循環し合い、行き場を失ってしまうことになる。

 よって、ハーネスは彼女たちの体に非常に大きな負担をかける。魔法少女たちの言によれば、ねばついてどっしりとした、なんらかの体に悪いものが、徐々に体内で蓄積されてゆくようだ、という。

 そのためハーネスが外される瞬間は、これが開放されるわけである。この上ない法悦の瞬間である。しかし、それは限られた状況にしか、存在しない。

 つまり、敵(〈擬天使〉)と闘うその時だ。

 肩にバスタオルをひっかけ、ヒルコは猛然と助言者たちの居住区画の方へと歩き出した。

(こーじをどつかないと気が済まない)

 ――これまで幾度となく、苦海一佐がヒルコに遺したその「術なるもの」、の被害にあっている浩司である。

 ヒルコは幾分か無機質な、すでにしんとした回廊を歩きながら、居室の番号をひとつひとつ見送った。きっと自分と同じ魔法少女たちはそれぞれ居室にあって、思い思いに就寝までの時を過ごしていることだろう。それを考えると、先ほどまでの地獄のような光景が嘘のようだった。

 しかし――この時間から出歩くと、天敵に会うことになりそうだった。

 しだいに足早になって、ヒルコが助言者たちの居住区域に踏み込んだ矢先、背後に強い気配を感じて、とっさに近くの柱の陰に飛び込んだ。

 やはり、時間通りだ。

 そっと気配のほうにようすを窺うと、ヒルコは軽く舌打ちした。

 悠然と歩く人影が見える。

「おぉっと、これはこれは――」

 だが天敵を前にして、怖気づいたり気後れしたりする性質たちのヒルコではない。ここでも彼女は柱の物陰から飛び出して、天敵の前に堂々立ちふさがったのだった。

 ヒルコを猛然、と形容するなら、天敵は優雅、と形容するしかない。

 乳白色の淡い髪色が、薄暗がりの中でも月夜のようにほの明るい。これまた乳白色の羽毛のようなまつ毛が、ふわり瞼によってもたげられると、そこには氷河のように真っ青なグレシャーブルーの瞳。

「マリア・K……もとお姫さまじゃねーか?」

 ヒルコはギザ歯を敵意とともにむき出して言った。

 マリア・K。中央ヨーロッパに位置するオーレリア大公国の元公女。そして「国際魔法少女旅団」リトル・トーキョー隊の先導者。もちろん魔法少女である。

「あらヒルコ、貴女なの?」

 マリア・Kは突然目の前に現れた存在にも超然としたようすで、驚く素振りすら見せない。それどころかヒルコに問うその言外には「呆れた小物に出くわした」といった態をにじませていた。

「なんだ、なんだー。あー! 苦海ヒルコか!」

 まったくうり二つの顔が、マリア・Kの背後から、にゅっと姿を現した。双子のエマとユマだった。自称「マリア・Kの(おしかけ)侍女」の二人である。服装もこれまたお仕着せのメイド服らしく、どちらがエマでどちらがユマか見当がつかない。

「マリア様はこれからご就寝前の挨拶に行くんだ。邪魔するな」

「そうだヒルコ。おっじゃま虫~」

 はっきりしていることは、姉のエマは口調がきつく、妹のユマは幾分か舌足らずである、というところか。それ自体も彼女らのどちらがエマで、どちらがユマなのかを、確証だてるものではなかったが。

 ヒルコは露骨に舌打ちして見せた。

(金魚のフンめ)

 いや、それ以上に、その金魚――生まれながらに「お姫さま」――のマリア・Kのほうが、ヒルコには最高に憎らしいのだった。

 いつも澄ましたような顔で、ちやほやされて、大人ぶったようすで人を諭し、勇敢でありながら思慮深く、「日本人」を差し置いてリトル・トーキョー部隊の戦闘の先導を務める。各国部隊の先導たちからも信任が厚い。まさに現代のジャンヌ・ダルク然としたマリア・Kは、ヒルコにとって受け入れがたいものであった。まさにおとぎ話の絵本から出てきたような、それでいて王子様のキスを待つしかほかない、そうした「お姫さま」とは一線を画した、知性も行動力も持った、「お姫さま」で、あった。

 ゆえに憎らしい。自分の持っていないものを「お姫さま」はもっているのだから。

「消灯時間も間近だというのに。ヒルコ、あなたという人は……」

「お互い様だろうが」

 と、ヒルコは吐き捨てるようにいった。

 就寝前の挨拶に関しては、ある程度小耳に挟んではいた。この時間に出歩けば、かち合う確率も高くなることをヒルコは承知していた。だったら出歩かなければいい話だが、そうした打算が働かないのはヒルコらしい行動様式であった。他人の用事のために、自分の予定を変えようなどと、自己の精神衛生のための殊勝な考えにいたるヒルコではない。

「あのバカこーじのおかげで、今日は死ぬところだったからな。今からそのお礼参りに行くんだよ」

「ヒルコ、貴女が不注意で〈擬天使〉に飛び込んだことと、浩司兄さまの御助言は関係ありまして?」

「あのばかこーじがお姫さまに鼻の下伸ばして、その助言の任務ほったらかしたからだろうが」

 実際に、ヒルコは鼻の下を伸ばして、滑稽な動作をしてみせた。

 しかし、マリア・Kはクスリともしない。それどころか見る見るうちに、相手を蔑むというか憐れむというか……グレシャーブルー(氷河の青)の瞳は、その名に違わず氷のように、深く冷ややかに、独特な光を帯びてじっとヒルコを見据えたのだった。

 そして、言った。

「——そのような愚かな物言いをして、恥ずかしくなくて? ヒルコ?」

 まさに火に油。

 淡紅色の瞳に「殺気」が漂った。

 マリア・Kのためなら、「たとえ火の中なんとやら」――なエマとユマも、針のようにとげとげしい殺気にびくりと身を震わせた。

 ヒルコは腰を落として、いくぶんか斜に構えて、腰を落とすと「戦闘」の姿勢をとった。

「あ、殺るか?」

 魔導を解放していない時でも、ヒルコは自分の身体能力には自信があった。これは苦海一佐を養父とした彼女の、負の遺産がそうさせるのであった。魔導が開放されていないのならば、自分はマリア・Kに充分に勝ち目があるのだ――と。

 すぅ―――ッ!

 背後に迫った気配に対して、ヒルコはなんのためらいもなく廻し蹴りを食らわせた。

 その廻し蹴りは、実際に「最初の標的」であった浩司の鼻先を掠った。さすがといえば、浩司もこれを避けきったのだから、彼の動体視力もなかなかのものである。

「浩司兄さま!」

「おいっ危ないだろ!」

「ちっ。逃したか」

「……何してるんだ、お前ら?」

 浩司の背後の暗闇から、的場がのそりとあらわれた。

「ばかこーじにお礼参りに来たんだよ。ってかおっさんたちこそ、なーにしてんだよ?」

「巡回だ、巡回。よいこの寝る時間にも、大人はやることが山ほどあるんだ。特に消灯ぎりぎりのこんな時間にふらふらするような、悪いお子さまのおかげでな」

「失礼な。この野蛮人苦海ヒルコと一緒にするな。マリア様はご就寝前に挨拶に来たのだ。毎っ回有難く思え!」

「そーだ。有難く思えー!」

 と、エマ(?)の背後でユマ(?)が握りこぶしを振り回した。

「ん——あぁ、いつものか」

 そのいつもの「お姫さま」ことマリア・K就寝前の挨拶は、魔法少女租界に彼女らが入植し、その戦闘指揮や人命救助の助言者として、二人があてがわれた日から、一日として欠くことが無かった。

 マリア・Kが一歩前に進み出る。

 そして、

「的場おじ様、浩司兄さま。おやすみなさいまし」

 マリア・Kはスカートのすそをつまんで、軽やかに頭を下げた。

「あぁ、おやすみマリア」

「いい夢見ろよ」

 顔を上げると、マリア・Kは華やかな笑顔を浮かべていた。

 また、そのいつもの就寝前の挨拶は、あっけなくも、たったこれだけのことに過ぎなかった。それが、ヒルコが入り込んだとたんに、騒々しく荒事のような様相を呈するのだった。

 とはいいつつも、先ほどの殺気立った滞留から打って変わって、和やかな空気が惜しげもなく流れ込んできた。

 身をひるがえして去ってゆくマリア・Kと、そのあとをついてゆくふたりの「(おしかけ)侍女」を見送って、浩司と的場は、思わず互いの顔がほころぶのを感じた。またそれは「今日も生き残って、ちゃんと生きて帰った」という安堵もそれに手伝っていた。

「いやー、いいもんだなぁ。一日の終わりがさわやかだ。――ところで」

「はいッ――?」

 背後に迫る脅威に気が付かなかった。どうやら邪魔が入らないように、脅威はそれまで息をひそめて、気配を消していたのだった。鈍重な衝撃が背後から襲ってきたかと思うと、次の瞬間には浩司は突っ伏していた。

「はーっはっはー。ばーか、ざまみろー! ざまみろー!」

 ヒルコの声が走り去っていった。

 鈍痛に耐えつつ目を上げて、浩司は去り行くヒルコのお尻を眺めた。

「油断した……あんのクソガキ」

 さすがに腹が立って、浩司は去り行くヒルコのお尻に向かって悪態をついた。

「おい、浩司」

「……はい?」

「なんでお前さんだけ、いっつも『浩司兄さま』、なんだ」

 的場は大変気になるらしい。

「……人徳、ですかね?」

 浩司は突っ伏した状態のままへらッと笑い、的場は呆れたようにため息を吐いた。







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