第4話
山奥の開拓村に戻ってきたカンナが最初にしたことは、それまで飲み続けてきた避妊薬を捨てる事だった。
カンナとジャンは世話になった開拓村の一つに永住する決意をし、皆の協力を得て新居を作ってもらい、片足を失ったジャンはちび共の教師のような役につき、カンナは猟師の仕事を一人続けようと思ったが、村のみんなに諭されてジャンを支える妻としての役割に精を出すようになっていた。
ド辺境の開拓村の女衆の仕事は、それこそ朝から晩まであれこれなんだかと、まあやらねばならない事が山ほどあり、とてもではないが狩りなどに時間を割いている余裕はない。
自分が猟師などして稼いで暮らせばいいとのんきに考えていたカンナからしてみれば青天の霹靂であった。ずいぶん仰々しい物言いになるが、おかみさんの仕事というのはそれこそいろんなものとの戦いなのである。
それでカンナは目まいのするような毎日を送りつつ、ジャンと愛しあう時間だけはたっぷりあるので、これはこれで幸せな毎日であった。
それでよし子供を作ろうとカンナが声を上げ、ジャンは最初は不安いっぱいだったようだが、日本仕込みのエロ技術全開のカンナにいいようにそそのかされ、することしまくった結果すぐに妊娠する次第となった。
かつて前世の日本では男だった奏多が、今を生きる異世界では女のカンナとなり、男を愛するようになり、愛する男との間に子供まで作ろうとしている。
いったいこれはどういうことだろう?
けれどもカンナに不安はなかった。
日本より全然危険で、日本より全然遅れて未発達で、日本より全然不衛生で、日本より全然過酷なこの異世界で、カンナは自分が生きているという実感でいっぱいだった。
惚れた男に愛すべきお腹の赤ちゃん、気のいい村人に忙しい毎日。
カンナはまさに生きている。今この瞬間、名も知れぬ異世界のどことも知れぬ場所で、カンナはまさに生きている。
カンナは幸せだった。
カンナに不安は微塵もなかった。
ぼんやりと赤子が泣く声を聞いた気がする。
混濁した意識の中、出産は成功したのだという確信を得る。
不衛生で未発達な異世界で、赤子を生むのは命がけで、カンナの出産は難産で、カンナは意識もはっきりとせず、カンナは今。
カンナは今、自分の命がゆっくりと損なわれていくその瞬間を味わっていた。
赤子の命と引き換えに失う自分の命。
けれども不安はない。先ほど確かに生まれる赤子の泣き声を聞いた。子供は無事に生まれたのだ。
愛するジャンとの間の一粒種が、間違いなくこの世に生を受けたのだ。
何を心配することがあるだろう。
なにを恐れることがあるだろう。
カンナの望みはかなったのだ。
これ以上は高望みというものだ。
ああでも、願わくば。
生まれる子供が無事に元気に育ちますように。
幸せな人生を歩みますように。
素敵な伴侶と出会えますように。
最高の親友と出会えますように。
「……。」
カンナはゆっくりと瞼を開けた。
目の前には黒板があって、何やら不貞腐れた様子の古文の田中が教壇の上に立ち、むすっとした顔であらぬ方向を睨んでいる。
そこは今となっては懐かしい高校の教室で、あたりを見渡すとクラスメイト達の半分くらいが机に突っ伏しており、残りの半分がワイワイガヤガヤと騒いでいた。
「奏多が目を覚ましたぞーっ!」誰かが大声でそんな事を叫んだ。
「おおおっ!」みんなの声。
真っ先に駆け寄ってきたのがかつての親友、康介だった。
「目ぇ覚ましたか! 奏多! お前も死んだんだなぁっ!」
「はぁ?」声を上げたカンナが真っ先に感じたのは言いようのない違和感。まるで男のような声が頭の中に響く。
誰の声だ!?
混乱した頭が懸命に状況を理解しようと動き出す。
ややあって思い返す。これはそう、奏多の声だ。高校生だった志藤 奏多の声だ。カンナは今、奏多の声になっているのだ。
そんなカンナの混乱を気に掛けるそぶりも見せず、康介がまくし立てるようにして話しかけてくる。
「いやなんかさぁっ! 俺ら異世界転生したじゃん? それでなんか、死んだ順に現実世界に戻ってきてるみたいなんだって。なんか古文の田中が言うには、授業始まったとたんに俺ら全員眠り出して、それから順に一人づつ目が覚めてって、どうやら死んだ順から目が覚めるらしくて……。」
「うわあああああっ!」康介の話に割って入るようにして、叫び声を上げて身体を起こすものがいた。
サッカー部の安藤であった。
「安藤が目覚めたぞーっ。」
「どうした安藤ーっ。」
みんなの声にきょろきょろとなった安藤が、「いや、なんかオレ、ワイバーンに食われそうになって、いやマジで食われたと思って……。」
「はーい安藤くん。ワイバーンに食われて死亡ーっ!」誰かがそんな声を上げ、周りの何人かがパチパチと拍手をした。
「頼むから静かにしてくれ……。」古文の田中がぼやいたが、クラスの誰も気にする様子はなかった。
「ねぇねぇ奏多くん! 奏多くんはどうやって死亡したの?」
カンナに話しかけてくる女がいた。
ポニーテールをゆらゆら揺らして近づいてきたその女は誰あろう、長谷部あやかであった。
「いや、俺はその……。」なんとなく雰囲気にのまれ、ついつい事情を説明してしまうカンナ。
「えーっ!?」びっくりした顔になる長谷部あやか。「じゃあ奏多くん。そのジャンさんって人の子供が出来て、出産で問題が起きて、それで死んじゃったってことーっ!?」
長谷部あやかが大きな声でそんなふうにはやし立てる。
ワイバーンに食われた安藤に注目が集まっていた教室が、一斉にカンナの方へと向けられた。
「みんな聞いてくれよーっ!」康介が声を上げる。「奏多のやつ、TS転生だったんだって! むこうじゃこいつ、すんげー美少女だったんだって。しかもスゲーエロかったんだって! マジすごかったんだって!」
「マジで!?」興味を持った何人かがカンナたちの周りに集まってくる。
「マジでーす! あたしも見ちゃいましたーっ! 超美人でエロエロの奏多くん! しかもなんか康介くんとエロエロで。めっちゃエロい事しまくってるの、あたし見ちゃいましたーっ」
長谷部あやかが嬉しそうにそう言葉を重ねてくる。
「えーっ!」カンナが名前を思い出せない女の子が、顔を真っ赤にしながらもこっちを見てくる。
「いやーあの奏多はマジヤバかった。超かわいかった! 超エロかった! 思い返すだけでチンコ勃つわーっ。」感慨深げな康介。
「もう少し詳しく!」隣にいた同級生の男が興味津々といった様子で食いついてくる。
康介がさらに口を開く。
「いやーそれにしてもなに奏多。あのジャンってやつとガキまで作ったの? 妊娠? 出産? なにしてんの? お前それ、騙されてたんじゃねーの? なんかあいつ、軽そうでヤバい感じだったじゃん? おまえいいように遊ばれてたんじゃねーの? 大丈夫?」
「違うっ!」カンナは声を上げる。
「俺は奏多じゃねぇっ! カンナだっ! ジャンは俺の最愛の夫だ! 俺は望んであいつの子供を作ったんだ! 俺は……! 俺は……!」
カンナは気持ち悪かった。どうしようもなく吐き気がした。
男みたいな声が気持ち悪かった。
ごつごつした自分の手が気持ち悪かった。
自慢だったおっぱいがないのが気持ち悪かった。
股の間にぶらぶらしたものがあるのが気持ち悪かった。
ついちょっと前まで膨らんでたお腹が影も形もないのが嫌だった。
生まれたばかりのはずの赤ちゃんの気配すらないのが気持ち悪かった。
何よりジャンがそばにいないのが気持ち悪かった。
カンナは吐いた。
その場でげぇげぇと床に吐いた。
いつ食べたのかも覚えていない食パンの切れ端やらコーヒーやら、どうやら今朝の朝食らしきものが口から出てくるのが気持ち悪くてさらに吐いた。
どうして俺はこんなところにいる? 俺はこんなところで何をしている?
「大丈夫かよ奏多!」近寄る康介が気持ち悪くて、吐きながら手で追いやった。
「えーなんか、あたしらなんか奏多くんをいじめてるみたいじゃんー? えー? なんかかんじわるーいっ」
そんなふうに呟く長谷部あやかの声が聞こえた。
カンナにとっての一縷の望みは、もう一度修学旅行でバスが事故を起こし、もう一度あの愛おしい異世界へと転生できる可能性だった。
カンナたちの時間は修学旅行がある少し前の過去へと巻き戻っていたのだ。
だが、そんなカンナの望みはすぐに絶たれることとなる。
コロナウィルスとかいうカンナたちが聞いた事もない病気が世界中に蔓延しており、そもそもの修学旅行自体がなくなってしまっていたのだ。
クラスの誰かが「世界線が移動したんだ」などと話していたが、カンナにとっては知ったことじゃない。
SFだのファンタジーなどのお約束はどうでもいい。
カンナはただただ、ジャンに会いたいのだ。
こんな世界は知らない。
こんな世界はいらない。
俺の世界はここにはない。
ジャン。大好きなジャン。
真面目で心配性で、頑張り屋で独占欲が強くて、俺のことが大好きなジャン。俺が大好きなジャン。
ジャンと夫婦になれてよかった。ジャンの赤ちゃんを身ごもれてよかった。
俺はジャンにもう一度会いたい。
こんな糞みたいな世界じゃなくて、ジャンと生きた、あの死と隣り合わせの過酷な世界に戻りたい。
あの世界は異世界じゃない。この平和な日本こそが俺にとっての異世界だ。
俺が生きるべき場所はここじゃない。
俺はジャンと同じあの世界へ生きたい。
俺は……。
その日、志藤 奏多という一人の少年の命が地球上から失われた。
遺書は特になかったが、警察は自殺としてこれを処理した。
調査の結果から、彼がどうやら女性としての性自認をもっており、これについて高校のクラスの一部でからかいの対象であった事が分かった。
ただし、クラス内で彼に対するいじめなどの痕跡はいっさい確認が出来なかった。
かつて親友であったという丸山 康介という少年にはごにょごにょと何かはっきりとしない物言いがあり、叩けばホコリの一つ、二つ出てきそうな様子であったが、どのみち周辺人物の聞き込みだけでも状況証拠は出揃っており、一つ二つの新事実が発覚したところで大局は変わらないとの判断から警察は深く追求しなかった。
捜査は早々に打ち切られた。
これらの話は両親は全く寝耳に水で、驚きを覚えるばかりであったようだ。
彼の死の真相を知るものはこの世界のどこにもいなかった。
かつて同じ異世界に転生したクラスメイト達であっても、彼があの過酷な世界で何と出会いどう変わったのか知るものが一人もいなかったからである。
彼/彼女が命を絶つことによって望んだ夢、ジャンや子供との再会が叶ったのかどうかは、本作品で語られるべき事柄でもないので割愛させていただく。
こういったものは読者諸氏の自由な想像に任せるのが一番良いものであると作者自身の経験からよく理解しているからだ。
ともあれ以上にて本作品は終幕となる。
これが志藤 奏多のTS転生にまつわり作者が思いついたいっさいの全てである。
TS転生したが、親友を好きになってしまった。男女の関係になっていっぱい尽くしたが、裏で気持ち悪いって思われてた。 すけさん @sukesan77
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