第36章~旬サイド~

やめろ。



なにを考えてるんだ。



そう言いたいのに、声がでない。



男の誘惑に頭の中が汚染されていくのを感じる。



『君は金だけ用意すればいい』



男の声に、気がつけば頷いていた。



俺は金だけ用意すればいい。



皮肉なことに、金なら掃いて捨てるほどあった。



『待っていろ。約束は果たすから』



男の声が遠くに聞こえて、俺は意識を手放した。



新は無事高校に入学した。



第一志望の三草高校に決まったそうだ。



俺は時々あの男のことを思い出した。



朦朧とした意識の中で話しかけてきた男。



俺のファンだと名乗り、新から臓器をもらえばいいと言った。



それからもう何か月もたっている。



あの男は俺の妄想だったのか、それともただ嘘をつかれただけだったのか。



とにかく新が元気に学校に通っていることで安心していた。



俺は相変わらず入院中で、ドナーを待っている。



そんな日々がこれからもずっと続いて行くと思っていたのに……。



『旬、しっかり聞いてほしいの』



ある日の午後、お母さんが真剣な表情でそう言ってきた。



『なに?』



俺は窓の外を見ていたが、視線をお母さんへ向けて聞いた。



『さっき、新が交通事故に遭ったの』



『え?』



『今緊急手術をしているけれど、おそらくはダメだって……』



お母さんの声が震えていた。



俺はなにを伝えられているのかわからなかった。



『だから、新の臓器を旬に移植することになるかもしれない。すぐに準備をしましょう』



『ま、待ってよ。どういうこと?』



混乱して、話しが全く理解できなかった。



新が事故?



おそらくはダメ?



移植?



頭の中で単語を並べたとき、男の顔を思い出していた。



まさか……!



『お母さん、新は今日学校じゃなかったのか? どうして交通事故なんて!』



『お母さんにもわからないの。新はいつも通り家を出て学校に行ったはずなのに……』



きっと、あの男が新に接触したのだ。



そして何らかの方法で今まで引き止め、交通事故を起こした……!



すべては俺の空想だった。



だけど目には見えない確信があった。



新はあの男に殺された。



ドクンッと心臓が高鳴った。



嫌な汗が流れていき、苦しくて胸を抑え、体のくの字に曲げて喘ぐ。



涙が滲んできて視界が歪んだ。



お母さんの叫び声が聞こえてくる。



そして俺はまた、自分の意識を手放してしまったんだ。



次に目が覚めた時、とても穏やかな気分だった。



いつもの病室。



いつもの窓の外の景色。



ただ少し胸のあたりが痛かった。



『旬、気がついたのね』



顔を向けるとお母さんが立って、俺の顔を覗き込んでいた。



『おか……あさん』



声は自分のものじゃないくらいに枯れている。



それでも清々しい気分のままだった。



まるで生まれ変わったような気分。



そこまで考えてハッと我に返った。



『新は?』



そう質問をしても両親はなにも答えなかった。



気まずそうに顔をそむける。



嫌な予感が胸をよぎる。



『まさか……』



『まだ、生きてる』



お父さんが俺の言葉を遮ってそう言った。



その言葉にホッと息を吐いた。



新はまだ生きている。



事故に遭ったけど大丈夫だったということだ。



よかった。



しかし、次に言われた言葉で氷ついた。



『お前の体の中でな』



え……?



それがなにを意味しているのか、瞬時には理解できなかった。



新は俺の体の中で生きている?



それってまさか。



俺は自分の入院着の前をはだけた。



胸のあたりに少しだけ傷が残っているのがわかる。



『もしかしてこの傷……』



『新の臓器が入れられたのよ』



お母さんが声を震わせて言った。



新の臓器が、俺の体内に……。



ゾクリと背筋が寒くなった。



あの男の言っていた通りになった。



新の臓器が体内に入り、そして俺は目が覚めたのだ。



『な……んで……』



傷口をなでるが、そこには一人分の体温しか感じられなかった。



『なんでだよ!』



無意識のうちに涙がこぼれ出していた。



ボロボロと頬を流れて落ちた涙は、白いシーツにシミを作る。



俺のせいか?



俺が新を殺したのか?



あの男に頼んだから……?



なにもわからなくて、頭を抱えて泣きじゃくった。



俺の代わりに、新は死んだ。



それから数日が過ぎていった。



あの男は1度だけ俺の前に現れて約束の金を手渡した。



男に色々と聞きたいことがあったけれど、恐怖心の方が勝ってしまってなにも聞くことはできなかった。



ただ、この男に逆らったらいけないと、本能的に感じていた。



『安心して。俺は本当に君のファンなんだ。だからこれ以上君に関わることもない』



男は最後にそう言い残して病院を出ていった。



そしてその言葉は本当だった。



俺が回復して退院する段階になっても、男は姿を見せなかったのだった。

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