第34章~旬サイド~
大池が病室を出ていったあとも、俺はぼんやりとした気分だった。
今の出来事が自分のことなのだと理解するまでに時間が必要だ。
『俺、本当に本を出すんだな』
呟くと、お母さんが指先で目元をぬぐって頷いた。
いつの間にか泣いていたみたいだ。
『なんで泣くんだよ。嬉しいことだろ』
『えぇ。嬉しくて泣いてるの』
『大袈裟だなぁ』
言いながらも、本当は俺もすごくうれしかった。
こんな俺でもなにかができるんだということが、たまらなくうれしい。
それから出版作業は始まった。
できるだけ日記をそのまま本にしたいということで、あまり修正箇所はない。
明かな誤字脱字を直したり、追加で記載したいものを書いたりする程度だ。
病室に広げたパソコン相手の作業中は、いつも以上に没頭するようになった。
集中して作業をするからあっという間に時間が過ぎていく。
20分なんてあっという間で、疲れて横にならないといけないのがすごく悔しかった。
もっと作業をしていたい。
そんな気持ちが強くなっていた。
そして、そこから半年が過ぎて新は中学3年生になった。
そして、本はようやく形になった。
普通は郵送で送られてくる見本誌を、大池さんはわざわざ自分の足で届けてくれた。
『これが、旬さんの記念すべきデビュー作です』
そう言われて手渡された紙袋を除くと、10冊の見本誌が入っていた。
その一冊を手に取り、袋から取り出す。
ハードカバーを呼ばれる大判の本はずっしりと重たい。
エメラルドグリーンの表紙の背景はラメが入ってキラキラと輝く。
その上に俺の写真が印刷されていた。
7月3日、病院で新と一緒に取った写真だ。
新も一緒に表紙になればいいと言ったのだけれど、新は恥ずかしがってそれを辞退した。
だから表紙に映っているのは俺1人。
手に取った瞬間香るインクの匂い。
俺の日記を印刷するためにだけ使われたもの。
そう思うと胸がいっぱいになった。
作業中にはまだ半信半疑だったデビューというものが、とたんにリアルになる。
『すごい……』
最初に出た言葉はあまりにも短いものだった。
でも、本心だった。
自分の日記が本になった。
まだ誰も手に取っていない本。
これからこの本は全国の本屋に並ぶんだ。
ゾクゾクとした興奮が体の内側から這い上がってくるのを感じる。
これは俺がここで生きていた証しになる。
俺が死んでも、この本は残り続けるから。
そう考えて、ハッと息を飲んだ。
いつからか俺は自分の死を身近に感じていたのだと気がついた。
新たな発見とともに出版された本は瞬く間に売れていった。
さすが敏腕編集者の大池さんというか、出版社の売り込みのすごさを感じられた。
俺みたいな無名な病人の日記がこんなに売れて、朝のニュース番組や新聞でも取り上げられ、更に売上を伸ばして行った。
そうして売れに売れた本は半年ほどで50万部を突破し、有名俳優を使った映画になることも決定した。
社会現象とまで呼ばれるようになり、自分の書いた日記なのにまるで他人の文章のように見えてきた。
『少しは恩返しできたかな』
検査を終えたある日、病室に戻った俺は付き添いにお母さんへ向けていった。
『え?』
『ずっと入院とか手術ばかりで、かなり金かかってるだろ? でも今回の本の印税で、少しは恩返しできたかなって』
何気なく感じて話しただけのことだった。
深い意味はない。
しかし、リンゴをむいていたお母さんは手を止めて鋭い視線を俺に向けた。
その視線に一瞬たじろぐ。
『お金のことを気にしていたの?』
『そりゃ……少しは』
俺だってもう子供じゃない。
お金がないと暮らしていけないことくらい、理解している。
けれどお母さんは俺に近づくと『そんなこと気にしなくていいの』と、悲しそうな声で言った。
なんとなくお母さんの顔を見ていられなくて、目をそらせてしまう。
『まさか、そのために本を……?』
『そ、それは違うから!』
慌てて左右に首を振ると、お母さんはホッとしたように肩を落とした。
俺が本を出そうと思ったのは、素直に嬉しかったからだ。
俺でもこんなことができるんだと、みんなに教えたかったからだ。
お金がもらえることもわかっていたけれど、それは二の次。
その気持ちに嘘はなかった。
お母さんとそんなやりとりがあった数日後、俺が書いた日記は全国ロードショーで上映されていた。
映画のタイトルは《旬》。
著書と同じタイトルだ。
映画の評判も上々で、俺の日記は更に読者が増えていた。
日記の更新ペースは1日に一回。
内容だって今までと大差ない。
だけどコメント量は出版前の数倍に伸びていた。
そのほとんどが本を買いましたとか、感動しましたと言った内容のもの。
前まではコメントを見ると嬉しさを感じていたけれど、今はなんだか胸の奥がモヤモヤした。
この人たちはいい言葉を羅列しているけれど、結局その気持ちが持続するかどうかは本人次第。
明日の朝には忘れてしまっているかもしれないのだ。
そんなつまらないことを考えるようになってしまったのだ。
本を出版するという現実的な作業を体験したせいかもしれない。
どれだけいい本だって、売れなければゴミと同じ。
俺は冷めた目でそう感じるようになっていた。
そして2巻目の発売が決まったとき、両親と新はもちろん喜んでくれた。
でも俺はこれで新に勝てただろうと感じていた。
毎日学校へ行って勉強をしている新にだってできないことを、俺は次々に実現させている。
彼女がいなくても、不健康でも、出版作業をしているときだけは劣等感から逃げることもできた。
だけど、そんな調子のいい時に限って病魔は牙を剥く。
出版作業は順調に進んでいたのに、夜中に発作が起こってしまったのだ。
それも、いつもより激しい発作だ。
今までに感じたことのない苦しさ。
喉をかきむしり、目を見開いて助けをこう。
担当医がなにか言っているが聞こえない。
視界が狭まっていく中、自分の体がどこかに移動させられるのを感じていた。
そして最後に見えたのは手術室の文字だった。
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