第26話 富岡さら沙のアニメ化

「アニメ化決定」


 その言葉は、自分の作品ならとても嬉しい響きだ。

 だが、他の漫画家の、しかも同じ雑誌に載って、共に連載している作品に向けられた言葉だと、心を抉り、悔しさで溢れる。

 表面上は「おめでとう」だとか、「楽しみにしてます!」という言葉を、雑誌の巻末に載せられる連載作家の後書きには書くのだが、果たしてそこに本心を書いている者はどれだけいるだろうか。

 本当は自分がアニメ化したかった。

 そういった複雑な想いがその裏には隠れていることが大多数だろう。

 奈帆斗もその一人だった。

「乙女には桜と刀を」の第二話を描いている最中、ネームに詰まった。なので、黒海社の中にある、所属作家のために作られたスペースで、ネーム作業をしようと考えた。

 自宅よりも、周囲に人がいて、なおかつ働いている環境で仕事をした方が、捗ることもある。奈帆斗はそのどちらでも、気分によって変えていた。

 オフホワイトの清潔なデスクの上で、奈帆斗はネームを描いていた。

編集者の声が壁の向こうに聞こえる静かな空間で、ただネームを描く鉛筆のシュッ、シュッ、という音だけが響く。

 その音だけに集中して、作業を進めていたが、突然、壁の向こうから「うおおー」という太田の雄叫びが聞こえてきた。

 驚き、体が軽く椅子から飛び上がる。

 首を巡らせて、白い壁の向こうにある編集室を見る。

 一体、何があったというのだろう?

 太田が駆けてくる足音が聞こえたかと思うと、バタンという激しい音と共に、ドアが開けられる。

 高い背をかがめて、廊下へと飛び出した太田の姿が、硝子窓越しに見えた。

 落ち着かない様子の彼は、ばたばたと小走りに行ったり来たりを繰り返していたが、やがて中央で立ち止まると、一度屈伸し、そして飛び上がって天を仰いだ。

 奈帆斗は太田のその嬉しそうな様子を見て、なんとなく何が起きたのか悟った。

それは、彼にとってこの上なく寂しいものだった。

通常、漫画家の担当編集は一対一ではない。太田のように、奈帆斗以外の者を複数担当している場合が普通である。

 そして、太田の担当している作家の中には、富岡さら沙がいた。奈帆斗よりも幾分も早く担当についていた、もうすでに世間で有名となっている若手少女漫画家である。


(富岡先生の作品に、何かいいことがあったんだ……)


 うっすらとした悟りが、奈帆斗の脳裏に舞い降りる。

 唇を薄く噛むと、前から足音が聞こえてきた。静かだが、確かなその足取り。

 奈帆斗はなんとなく、誰が来たのかわかった。顔を上げて前を向く。


「可愛谷先生」


 そう奈帆斗のペンネームを呟いたのは、まさしく今思い起こしていた富岡さら沙だった。


「富岡先生……」


 奈帆斗は、自分でも気づかないうちに椅子から立ち上がっていた。静かに、音を立てずに。

 唇を薄く開けて、しばらく向かい合って互いを見つめていたが、富岡が一歩、奈帆斗に距離をつめると、奈帆斗は驚いて、ピクリ、と動いた。

 そして後退る。

 富岡はなぜ、奈帆斗が後ずさっているのかわからず、小首を傾げた。


「可愛谷先生。お久しぶりです」


 富岡は気にせず、奈帆斗に近寄って行った

 奈帆斗は挙動不審になっていたが、唇を軽く噛むと、ぎこちない微笑みを浮かべる。


「富岡先生! いつぶりだろう。先生の【トラディショナリーN】、楽しく読んでますよ! いやぁ、俺もあんなの描けるようになれればなぁ〜って思うんですけどね」


 富岡は大袈裟に笑う奈帆斗に動じず、静かに凪いだ表情で彼の話を聞いていた。


「可愛谷先生」


 ふたりの間に、水が流れたようだった。清らかな、泉の奥深くから湧き出でる水。静かなその水流に巻かれて、終わりたかった。乾いた大地になど、触れることもなく。


「僕、アニメ化決まりました」


 ああ、言われると思っていた。

 富岡の響きは決して自慢ではなく、共に同じ雑誌で戦う仲間に向けられた、誠実さのあるものだった。

それはわかっている。わかっているのだがーー。

 奈帆斗はしばらく黙った後、おめでとうございます。と静かに言った。

 その言葉が、富岡に聞こえていたのかは分からなかった。


 その後、富岡と話をした。

 自分たちの漫画について、それを読んでくれる読者について、アニメで新たに増えるであろう読者が、自分の表現をどのように受け止めてくれるかについて。

 富岡はどこまでも真剣だった。本当に真摯に作品を生み出そうとしているのだ、作家になるために生まれてきたような人なのだ、と

 奈帆斗は静かに感動していた。そして、自分の富岡の間にある、埋められ難い圧倒的な作家としての差を、その会話と熱意の中で見せつけられているような気がした。表面上は穏やかに笑っていたが、心の中では、富岡の言葉の数々に、小さな錐で切り傷を負わされているような、そんな感覚になっていた。

 いつの間にか、ネームを描く手は止まり、仕事を進められないまま、奈帆斗は帰路についていた。時刻はもう夕方だった。

 茫とした眼差しで、外に出ると、青に一層の夕日の茜を刷毛で塗ったような空が広がっていた。

 奈帆斗は顔を上げて、その青空をただ茫然と見つめていた。

 彼の疲れた瞳に、その空の色はあまりにも美しく、瞳を眇めてただ見つめることしかできない。東の方に、暑い灰色の雨雲が起きていたが、そちらには一瞬視線を向けただけで、気づかないふりをした。

 右腕にファイルに入れた原稿用紙を持ちながら、少し俯いてただ歩く。最初はゆったりとした速度だったそれは、徐々に速さを増していく。

 いつの間にか、奈帆斗の黒い髪に、細かな雨粒が降りており、彼が動くたびにきらきらと鈍く反射する。

 歩く力を無くした奈帆斗は、森林公園のベンチに辿り着いた。灰色がかってきた空と反し、鮮やかな青をしたそのベンチに、奈帆斗はふらりと倒れるように座る。

座ったと同時に、体の力をなくし、首を落として項垂れた。

 傍にファイルを置き、しばらくじっとしていた。雨足が強くなってきたようで、さーっという音がどこからか聞こえてくる。葉の上を、雨が打つ。その雫が彼の頭のつむじに落ちてきて、ひやりとした冷たさを感じた。

 やがて奈帆斗の全身を濡らしていく。汗か涙が雨なのか、わからないものが頬、首筋を濡らし、シャツの衿から胸元にまで入ってくる。

 だが、急にその雨は消えた。

 代わりに、赤く透き通った影が、彼の頭上を覆う。


「河谷」


  聴き慣れた低い声が、彼の前から聞こえた。

 ゆっくりと顔を上げる。

 ビジネスシャツを着た太田が、かすかに眉を寄せて奈帆斗を見下ろしていた。


「太田」


  奈帆斗は、太田の心配そうな顔を見て、いつの間にか生気を取り戻していた。自分でもその感情に驚いていた。

 瞳を見開き、うっすらと口を開けて。体を覆った透き通った赤い影は、太田の差している傘から生まれたものだった。その事実に気づいて、何故か皮肉に笑ってしまう。


「はっ。柄にもなく赤い色の傘なんかさしとるんかい」


「やかましいわ」


 太田もそれを受けてはにかんだ。そしてしばらく切なく瞳を眇め、奈帆斗を見つめる。

 奈帆斗には、太田の瞳の膜が薄く揺れているのを感じ取ることができた。彼も瞳を眇め、太田をしばらく見つめ返していたが、糸が切れたように、ふっと視線を逸らした。

 奈帆斗は静かにまぶたを下ろした。口角をうっすらと上げ、何かを諦めた者のする表情をしている。

 太田は唇を引き結び、しばらく奈帆斗をじっと見つめていた。奈帆斗が何か言い出すまで待っていようという態度だった。

 やがて皮肉な笑みを浮かべていた奈帆斗の表情が、眉から順に下がるように歪んでいった。


「なあ、太田」


 唇を震わせ、奈帆斗は乾いた声でつぶやく。


「俺、やっぱ、才能ないんかな」


 ザーッという雨の音が、二人の間を霧のように覆う。

 太田はしばらく雨に濡れた傘に映る自分の顔を見ていたが、まぶたをゆっくり閉じると、奈帆斗から一歩遠ざかった。

 奈帆斗はそれに気づいたが、顔は伏せたままだった。

 太田の健康的な小麦色の肌を、赤い傘の色が映す。


「才能ある、ない、いうんは、読者が作品をおもろいと思って決まることや。俺は、お前の漫画おもろいと思う。だから才能あるんやって思てる。でも、お前はそうやないんやろ。才能ない思っても、漫画描くんやめられんのやろ。アイデア止まらんのやろ」


 奈帆斗は瞠目した。

 顔を上げると、真顔の太田と目があった。

 彼はいつになく真剣な顔をしていた。


「漫画はキャラクターあっての商品や。キャラの感情が読者に伝わることで、初めて人は、心を動かしてくれる。お前は今日、『嫉妬』って感情を学んだ。だから、これからそれを漫画に描けば、きっと今よりも味わい深い漫画が描けるようになるて、俺は信じてるで」


 太田はそこまで言い切ると、いつものように歯を見せてにかり、と笑った。

 やがて雲は重みを増し、二人の頭上に激しい雨が舞い降りてきたが、奈帆斗の目の前には真っ白な太陽があった。

 奈帆斗は、その太陽に照らされていた。

 いますぐペンを持ちたい、と思った。

 もう、迷いはなかった。

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