第25話 春影と奈帆斗

 それから幾ヶ月の時が過ぎた。

 星々は薄青い夜の海を流れ、白い朝日と交代して地上を照らす。

 漫画家になった奈帆斗も、そんな空に心慰められる一人だった。

夜、真っ白な原稿の山と向き合いながら、時折窓を見る。露草色のカーテンを開けて広がる夜の景色は彼の心の癒しとなっていた。

白銀に輝く星に触れようと、窓ガラスに指を添え、しばらく呆然としていることもあったが、頭を振り、再び原稿へと戻る。

 彼と社会を繋ぐものは、この漫画原稿だけだったからだ。

頑張らなくては。もっと頑張らなくては、という思いが、胸の内側からこんこんと重みを増して湧いていく。

そして描く原稿の量が増え、連載が4話まで進んだ時、奈帆斗の腕は突然止まった。


「ダメだ。描けねえ」


 奈帆斗はアイボリーブラックのデスクの上で、原稿を描いていた。

 トレース台の上に載せられた原稿用紙には、主人公の春影と、そのライバルである辻村という侍が刀を握り、共に刃を向けて向かい合っている絵が描かれている。

 奈帆斗は手にしていた黄色いペン軸をゆっくりとトレース台の横に戻す。軸の先につけられたGペンに黒いインクがついたままだった。基本、インクはティッシュで拭い取らなければ赤く錆びてしまう。だが今の奈帆斗にはそれすらも億劫に感じられた。まろやかなペン軸のフォルムが、トレース台の横に置いた時、少し転がって止まったのを、空虚な瞳で見つめていた。

 辻村と殺陣を繰り広げた春影は死闘の末、相討ち寸前の状態になり、命からがら江戸へと辿り着き、新たな仲間と出会って物語が進んでいく。

そうプロットに書いていた。

この死闘の場面を乗り越えなくては、次の回へと進むことは出来ない。

悩み、頭を掻きむしる。

 手にしていた薄いホワイトの作画用の手拭から、乾いたインクの跡がパリパリと剥がれ、奈帆斗の髪に落ちそうになる。それに気づき、指の動きを止めた。さらに虚しくなったからだ。

 はあ、と短くため息をつくと、背後から物音がした。

 振り返るとアシスタントの伊波美人いなみよしとが恐る恐るこちらに近づこうとしている。美人という名前ではあるが、顔はいわゆるイケメンという部類ではない。

 だが、奈帆斗は伊波のさっぱりとした優しい顔立ちが好きであった。

 連載立ち上げの時はキャラクターから背景まで一人で描いていたのだが、徐々にその業務量が締め切りに間に合わないと感じるようになり、アシスタントを一人雇うことになったのだ。

 それが20歳の伊波であった。

伊波は漫画家を志し、四国から上京してきた若人だった。

彼もまた男性ではあったが藤子・F・藤雄の「エスパー魔美」を幼い頃から愛読しており、奈帆斗が目にした彼の絵柄はキャラクターの輪郭線が丸く、男女ともに童顔というものだった。まさに藤子・F・藤雄の絵柄からの影響が見られた。そして藤子先生と同じく、背景が凄まじく上手かった。

キャラは愛らしいにも関わらず、背景は写真のように緻密。太田は伊波の絵を見て、奈帆斗のアシスタントとして、伊波のデビューまで共に歩ませようと考えた。切磋琢磨し、互いに良い影響を与えられる、と信じたからだ。

 伊波は自分の描くキャラクターと同じように、丸い体をゆっくりとこちらへ近づけてくる。そして耳元に小声で囁いた。


「昨日も一時間しか寝てませんでしたし、そろそろ休んだ方が」


 奈帆斗は背後を振り返る。元々肌の白いその顔には、目の下に隈が出来ている。その目で伊波を睨みつけるので、伊波には奈帆斗が恐ろしく感じられ、一歩後ずさった。

 乾いた唇を開くと、冷たい息を吐く。


「締め切りまで後3日だ。それまでにこの原稿仕上げねえと。原稿落としたら来月号載らねえだろ」


「でも」

 

 奈帆斗は何に躓いているのか、伊波には理解出来ていなかった。

奈帆斗の手元を覗きこむ。


「殺陣……?」


 見れば、奈帆斗の薄汚れ、指先だけが空いている白の軍手の下に、アナログで描かれた原稿用紙が整って置かれている。

 春影と辻村。2人の侍が重なり、今にも互いの刀を打ち合おうという刹那の、次の大コマが、水色のシャープペンシルの下描き線で乱れて、幾重にも人物の輪郭線が重ねられている。

 奈帆斗は乾いた下唇を上唇で湿らし、原稿を片手で持った。


「殺陣がな……。殺陣さえ出来れば。ここを切り抜ければ、春影を江戸に行かせてやれるのに」


「先生……」


 伊波が見た奈帆斗の絵からは、彼の悩みがはっきりと感じられた。ああでもない、こうでもない、と試行錯誤している様子が、この水色の下描き線に表れている。頭の中にはっきりと映像が浮かんでいるのに、それに自分の画力が追いついていないと感じるもどかしさ。同じ漫画描きとして、伊波には彼の気持ちが痛いほど伝わった。

 奈帆斗は頭を掻きむしった。瞳を強く閉じ、鼻が原稿につきそうになるほど項垂れる。


「ちくしょう……」


 原稿の上に置いた手を軽く丸める。

 伊波は奈帆斗の髪を見た。

 彼の髪はボロボロで、フケもいくつかついていた。

白の手袋は薄汚れていて今にも破けそうだ。

 伊波は奈帆斗の疲れを感じ、眉を顰めた。


「殺陣って、アニメでも描くの難しいって言われてますしね」


「ああ、でも、この漫画は殺陣が無いと成り立たねぇんだ。頑張るしかない」


「オレも、アシとして手伝えることはなんでもしますんで! 先生が原稿描いたら、仕上げのベタとトーンとホワイトはこっちでやりますよ!」


「ありがとうよ。伊波」


 伊波は、奈帆斗を鼓舞するように努めて明るく言った。拳を握り、ガッツポーズをする。彼のよく磨いた白い八重歯が、照明の光に当たり、きらりと煌めく。

 奈帆斗はそれを見て、心が柔らかくなり、口角を上げた。気のせいか、瞳の膜も潤んでいるように自分で感じる。彼の人よりも色素の薄いつるばみ色の瞳が、一瞬金色に濡れた。

 伊波の方に手を伸ばし、彼と握手しそうな気分になる。だが、片方の手を上げたとき、それを思い止め、すっと指先をペン軸の上に置いた。

その様は空を滑空する飛行機のようであった。

 伊波が親指を上げて蒲公英の花のような笑顔を向けて去っていくと、奈帆斗はデスクに向き直った。ずっと絵を描き続けていたため、固まってしまった肩をほぐそうとぐるぐると回す。終わると一息つき、俯けていた顔を上げた。

 奈帆斗のデスクには、鉛筆や消しゴム、コマの線を引くための長い定規や丸い定規など、漫画を描くための道具が、彼の律儀な性格を表すように、整理されて揃っていた。

肩を落とし、ひといきつくと、瞳を見開く。睫毛のひとすじひとすじが舞うように広がる。

そして広げた両手を見下ろし、何かを確認するようにゆっくりと開けたり閉じたりした後、ペン軸を手に取った。


(描くしかない。このまま終わらせたら、春影はただ悲しい過去を背負ったヒロインとして、物語が終わることになる。この話を描くことは、俺にしかできない。俺にしか描けないんだ。絶対に連載は終わらせない……)


 指先に力を込め、ペン軸を握った。硬いはずのペン軸は、彼の熱量からであろうか、微かに撓んで跳ねたように見えた。

 もう片方の手の指先で、目の下の隈をゆるりと擦ると、奈帆斗は再び原稿と向かい合った。

インク壺にGペンの先を付けると、乱れた水色の下描き線に黒の輪郭線を施す。最初はゆったりとした動きだったそれは、徐々に滑らかになっていった。腕を動かしているだけで、先ほどまでの悩みが薄らいでいく。周囲の音や、窓越しに聞こえていた街の喧騒が遠ざかり、静かに凪いでいく。

奈帆斗の視界には、己のペンと原稿用紙しか見えなくなっていた。

 彼の後頭部から、薄青い闇が広がっていく。彼だけにしか見えない闇だった。そこに、ちらちらと白い星が降ってくる。小さなその光は、糸を束ねて集まり、てんてんと渦を巻く粒子の連なりとなると、奈帆斗の右手の付け根に降り注いだ。奈帆斗の意識は、いつの間にかなくなっていた。


 背中に冷たさを感じ、奈帆斗は、はっと目を覚ました。手のひらで触れると、ざらりとした感触がする。顔の前に上げて見やると、そこにはきらきらと光る氷の粒がついており、やがて溶けて水滴となり、奈帆斗の手に馴染んでいった。


(あれ、俺、デスクで漫画描いてたはずじゃ……。ここはどこだ……?)


 周囲を見回す。一面の銀世界が、暗い青に四方を包まれている。

 驚いて瞳を擦り、両手を背後に着く。まばたきを繰り返すと、また周囲を見る。


(なんっだぁ。ここ……)


 自分でも気づかないうちに、口を大きく開けていたらしい。赤い舌に、冷たい雪が落ち、動揺して引っ込める。先ほどの手のひらに感じた雪の感触といい、どうやらこの世界は、彼に温度を与えるらしい。立ち上がり、この世界の不思議に驚かされていると、背後から玲瓏な声が、奈帆斗の背を打った。


「おい」


 振り返ると、そこに立っていたのは侍装束の小柄な人であった。白いおもてに漆黒の長い髪を、うなじで一つにまとめている。滅赤けしあか色の着物に、珊瑚色の艶やかなきらめきを見せる鞘を、腰にふたふり差している。

長い前髪ごと、きつくうなじで束ねているので、綺麗な富士額があらわになっていたが、そこからひとすじ、流れ落ちる滝のように黒髪が揺れている。髪の色と同じ長い睫毛に触れそうだ。

一見少年のように見えるが、奈帆斗には、一眼見ただけで、この侍が少女であるということがわかった。


「春影……?」


 名前を呼ばれると、凛と澄ました顔をしていた少女は、ぴくりと顔を動かした。それは、奈帆斗が連載漫画として描いていたヒロイン・春影であった。

描いた者だからわかる、彼女の鼓動が、銀の地面から伝わってきていた。


「……あんたが私たちを生み出した神様か」


 春影はそう言うや、鞘から勢いよく刀身を抜き放った。

 雪の色と同じ、白銀のその刀身は、辺りに広がる青の世界を映し、彼女の動きと共に、鈍く冴えた光を表す。

奈帆斗の顔の前に、切先を向ける。

 彼の鼻とあと僅かに触れそうで、奈帆斗は自然と唾を一口飲み込んだ。つるばみ色の瞳が、震え、冷たく彼を見下ろす春影の白いおもてを、捉えようとする。


「おい……」


 春影はまばたきもせずに、じっと奈帆斗を見つめていたが、やがてその長いまつ毛を半分伏せると、黒曜石の色をした瞳をわずかに揺らめかせ、閉じていた桜色の、薄いがほどよくふっくらとした唇を開けた。


「私はあんたが生み出した私の人生を、命懸けで駆け抜ける。だから、あんたも命を賭けろ」


 奈帆斗の瞳にうつった、春影の姿が揺れる。

 口を薄く開き、奈帆斗は瞬きもせずに彼女を見つめていた。


「お前……」


 春影は顔色を変えない。ただ、奈帆斗をその鋭利な瞳でじっと見つめているだけであった。どこからか柔らかな風が吹き、地に広がる雪をはらりと浮かび上がらせる。

 

 奈帆斗は躊躇い、彼女から視線を逸らし、泡立つ銀の雪を見る。やがてすっと顔を上げると、真剣なまなざしで春影を見つめた。そして、彼女が向ける刃を、右手で何の躊躇も見せずに握った。彼の手のひらから、赤い鮮血がじわりと滲み、手首を伝って白い地をぽつぽつと染めていく。


「お前!」


 春影は、奈帆斗の動きを予想していなかったのか、目を丸くさせ驚く。

 奈帆斗は血で溢れる自分の手を見た後、彼女の瞳を見る。

 離れていては気付かなかったが、こうして近くで見ると、彼女の瞳は黒色ひとつではなく、そこに淡く刷毛で塗ったような青が混じっていて、暮れゆく夜空のようでうつくしいと感じる。

不安で青ざめる彼女の白い肌は、雪と同じ色をしていた。

 彼女のことは知っている。もう、だいぶ前から、自分の中に、共に生きていたから。

 そう思うと奈帆斗は自然と微笑んでいた。

 

「お前は、俺の血肉だろ。お前を描くために、今までのすべてを捨てて、走ってきた。俺の血をやるよ」


 刀が血脈を打つ。人間の心臓のように、どくん、どくん、と赤い光を全身に灯す。

 奈帆斗と春影は、てのひらに熱い湯のような温度が伝わるのを感じていた。その温度は、銀世界で冷えた彼らの体を巡るように、温めてゆく。


「お前の人生は、これから辛いことが何度もある。泣くことも何度もある。そうプロットに書いた。まあ、キャラの心情がプロット通りにいかねえのが、漫画の面白えところだけどな?」


 眉を寄せ、はにかむ奈帆斗に対し、春影は大袈裟にため息をつき、儚げな笑顔を浮かべた。まるで慣れ親しんだ友に対するように。


「……全く、作者に踊らされるこっちの身にもなれっての」


 一陣の風が横から吹き、彼らの体が揺れる。

 辺りを包んでいた暗い青が、陽の暁の色に染まり、舞い落ちる粉雪が薄紅色の桜の花弁に変わっていく。

 奈帆斗は、握っていた刃をそっと離した。てのひらから、小雨のように血がパっ、と散る。

 春影は刀を鞘に収めると、背を向け、歩いていく。彼女が一歩一歩離れる度、その姿は蜃気楼のようにかすれていく。


「春影!」


 奈帆斗は消えていく彼女の背に届くように、腹からありったけの声を出した。


「ありがとう! オレ頑張るからさ! お前が生まれてくれたから、オレ、ここまでこれたんだ」


 もうあるかないかわからないほど、うすくなってしまった春影の姿が、ゆっくりとこちらを振り向く。表情は見えなかったが、奈帆斗には彼女が笑っているのがわかった。


「あんたが生まれなかったら、私は生まれなかった」


 春影はぶっきらぼうにそう言うと、背を向け、片手をひらひらと振った。

 奈帆斗は泣きながら微笑むと、彼女の姿が桜の中に溶けていくのを見届けた。

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