第25話 嫉妬

 連載が始まってからというもの、奈帆斗は生活の全てが漫画を描くことになっていた。

 関西に住んで仕事をする夏子から離れ、新人作家となった奈帆斗は、打ち合わせを顔を合わせて行いたいという太田の希望で、関東に戻ってきていた。

 だが、住まいは生まれ故郷の神奈川ではなく、東京だった。

東京の華やかな二十三区ではなく、板橋という親しみやすい下町だったが。

 普通の会社員が、残業さえなければ八時間程度働き、家に帰宅してからは各々好きなことをする。映画を見たり、音楽を聴いたり、ドラマを見たり、本を読んだり、漫画を読んだりーー。

 だが、奈帆斗にはそういったオンオフの時間がほぼなかった。

 寝起きも家で、仕事も家で、という生活を送っていたことと、彼の細かい性格も伴い、朝起きてから寝る直前まで、紙の原稿と向かい合っていた。

 真っ白な原稿を、黒いペンで汚していく。

 それが、彼に与えられた仕事だった。社会との唯一のつながり、自分の存在意義ーー。

「乙女には桜と刀を」の第二話を描いていた途中であっただろうか。

 冷蔵庫の中が空になってしまっていたことに気づいた奈帆斗は、自宅から徒歩五分の距離にあるコンビニエンスストアまで歩くことに決めた。


(腹が減っては、原稿は書けぬ……)


 奈帆斗は己の薄い腹を片手で押さえながら、そう自分に言い聞かせていた。

 コンビニで好物のツナマヨおにぎりと唐揚げ棒、サラダ、そしておやつの「さけるチーズ」を購入し、帰宅しようと考えた刹那、化粧品置き場と面した形で置かれている雑誌コーナーに、彼のくたびれた瞳は吸い寄せられた。

 つるりとした表紙に、活気あふれる少年が、今にも飛び出しそうにこちらへ向かってくるようなイラストが描かれている。

 日本で一番売れている少年誌だった。


(これ描いてる作家さん、イラストはめちゃくちゃ元気だけど、徹夜続きで疲れてるんだろうな)


 週刊誌といえば、作家殺しで有名でもある。

睡眠時間はほぼなく、徹夜が当たり前の世界であった。

 漫画業界で問題となっている締め切りも週刊誌は一番早く迫る。次の原稿を描き終えたと思ったのも束の間、また次の原稿の締め切りがやってくる。

 月刊誌で連載を始めた奈帆斗ですら、毎日疲れ切っているというのに、週刊誌の作家の生活を考えると、気が遠くなるようだった。


(ありがたく読ませてもらうしかねえな……)


 そっと細い指先で手前の雑誌を一部取り上げる。

 後でレジに持っていって購入するつもりでいたが、ここがコンビニだということもあり、なんだか雰囲気に呑まれてしまって、そのままページを広げてしまった。いわゆる立ち読みというやつである。

 表紙をぼんやりとした顔で開いた奈帆斗は、覚醒したように瞳を見開いた。


(これは……)


 そこに広がっていたのは、舞い散る天使の羽、紺碧の空よりも深い青をした海。その海を泳ぐ、宝石色をした人魚たち、そしてその人魚たちと手を繋いで泳いでいる少年の姿であった。

この絵には、見覚えがあった。

いや、以前一度見た時よりも、さらに上手くなっている。


「歌奏絵さん……」


 奈帆斗の脳裏に、夕日を逆光にして、長くウェーブがかった栗色の髪を、淡く金色に煌めかせて笑う、歌奏絵のあの日の姿が浮かんだ。

 歌奏絵は日本一の少年誌の巻頭カラーを飾っていた。少し絵柄を意図的に変えてはいたが、表紙もよくよく見返してみれば、歌奏絵の絵である。

 奈帆斗は震える指先で、ページを捲った。

気のせいだろうか、己の心臓の鼓動が先ほどよりもバクバクと高鳴っている気がする。

 先日短く切ったばかりの前髪の裏で、油っけのない、透明な汗のしずくが、一粒こめかみに流れ落ちてくる。

 少し青みがかった灰色の、そのざらついた紙面は、なぜか奈帆斗の指の腹に吸い付くようだった。

 読みやすく流麗で繊細な線だというのに、描かれている物語は力強かった。

 海軍に所属する一人の少年兵がどうやら主人公と見られた。彼の乗っている船が、戦争後、故郷への帰路へ着くために、ライン川のローレライ岩付近を航海しようとする時、突如現れた人魚の群れに歌を歌われ、仲間の船員たちが海へ引きずり込まれてしまう。といったシナリオであった。

 人魚との銃撃戦の後、残された船員たちで勝利を祝った後、上官が人魚の少女を自室に匿っていたことが発覚し、物語は盛り上がりを見せる。

 少年兵はその上官を尊敬していたので、敵を匿っていたことに、大変ショックを受ける。そして、泣きながら、なぜ自分たちの仲間を殺した人魚を匿っているのか、と上官と人魚の少女に銃口を向けながら問うているところで、第一話は終わっていた。

 奈帆斗はしばらく圧倒されて、身動きが取れなかった。現実へと意識を戻すのに時間がかかり、後ろを品出しの店員が通らなければ

永遠にその場に立ち止まっていただろう。

 頬の近くで水を弾かれたようにはっと目を瞠り、息を吸う。

 パタン、と音を立てて雑誌を閉じ、コーナーに戻す。


(とんでもねえ作品を読んじまった)


 そういった感慨だけが、彼の心を覆い尽くしていた。それは明るい白ではなく、真っ黒な感情だった。

 スタスタと何の感情も感じ取れないような表情でコンビニを後にし、家路につこうとする。

 見ないようにしていたその黒い心は、帰宅し、自分の原稿を読み返したときに、ぐずぐずに溶けていった。

 奈帆斗は気づいた。

 ああ、これは嫉妬だ、と。

 あんなに、歌奏絵を応援していながら、いざ、その圧倒的な才能を、自分からこれから生涯挑んで行きたいと思っている舞台で先に見せつけられてしまった。

 自分がいくら頑張っても、上には上がいて、

 さらにその上には上がーー。

 創作に上下はないと夏子に教えられていたというのに、いざ暗いことを考え出すと、止められなくなってしまう。しかも、彼は今アシスタントも雇わず、一人で原稿と向き合っていた。

 頭の中で、歌奏絵の表情と、彼女の描いた原稿がスパークを起こし、花火のごとくチカチカと消えてはまた点滅する。

 奈帆斗はしばらく、その波が治るまで、デスクの椅子の背もたれに額をくっつけたまま、うなだれていた。 

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