第21話  焼きつく黒い影

 今よりも少し前、奈帆斗が夏子の職場に配属されたばかりの頃の事である。

 奈帆斗はアシスタント席から、夏子の席に呼び出されていた。原稿に関する修正の為であった。

 夏子は自分の席について漫画原稿を数枚手にしていた。右手にブルーグレーのシャープペンシルを持ち、中指と人差し指の間に挟んでくるくると回している。いつも仕事中にかけているゴールドスミスの眼鏡は額に上げており、その様も似合って、洒落た雰囲気がある。照明の灯りが、眼鏡の銀縁を鈍く光らせているのを、奈帆斗は緊張から逃れる為にじっと見ていた。


「こことここ、パース狂っとるよ。よう見て描き直してね」


 優しいが芯のある声で、夏子は奈帆斗が担当した背景が描かれた原稿を一枚彼に手渡した。

 原稿の背景のコマの中には、水色のシャープペンシルの線で丸が描かれている。すっと短い時間で描いたその線は、とても流麗で、芯の粉もついていなかった。


「すみません! すぐ描き直します!」


 奈帆斗は原稿を両手で柔く掴むと、夏子に向かって頭を下げた。そしてぎこちない笑顔を浮かべる。

 夏子はベージュのルームウェアを履いたすらりと長く細い脚を組み、真顔で奈帆斗を見上げる。榛色の瞳には、彼の心の中に潜む悩みが朧に見えていた。


「先生。オレ自分の絵が荒いってことわかってるんです。やっぱ一から絵の勉強し直した方がいいですよね」


 眉を寄せ、暗い顔をする奈帆斗に、夏子は腕を組んで天を仰ぎ、鼻を鳴らす。悩んでいる弟子に、的確な意見を言ってやらなければならない。

 彼は言いにくい自分の技術の拙さを言葉にして、自分に伝えているのだから。

 シャープペンシルを回すのを止めると、夏子はそのノックを尖った顎の先で軽く押す。

そして彼を見上げた。


「河谷くんの場合は~」


 しばらくして考え事をするように体を縦に振り、ノックを顎から外すと、ペン先を奈帆斗に向けた。


「絵じゃなくて、漫画をじゃんじゃん描いて。映画仰山見て。ええ映画から学ぶことが、ええ漫画作るで」


 口角を上げ、歯を魅せる夏子の気持ちの良い笑い方に、奈帆斗は背筋を正す。


「は、はい! わかりました! 漫画じゃんじゃん描きます! 映画も、仰山見ます!」


 奈帆斗は自分のデスクに早足で戻っていく。

 少し汗ばんだ、グレーのTシャツを着た彼の背が遠ざかっていくのを、夏子は椅子の背もたれに体を預け、胡坐をかきながら見つめていた。そして、奈帆斗がアシスタント席につくと、くるりと椅子を一回転させ、しなやかな腕を伸ばして、肩甲骨を広げる。


「さあ、私もがんばらなね。漫画家はなれたらゴールやない。なってからが勝負や。一生勉強。一生戦いや」


 持っていたペンをシャープペンシルから丸ペンに変え、黒インクに付ける。気合を入れるように薄い作業用手袋を嵌める。そして、上半身を屈めると、デスクの照明台に置かれた漫画原稿用紙に描かれた、青い下描き線に、線入れをしていった。

 先ほどまで穏やかだった瞳は真剣さを帯び、瞬きすらしなくなる。彼女の腕の筋肉は長年絵を描いてきた職人のそれであり、その筋肉の動きに任せるように、滑らかな線で、多くの読者を楽しませる、夢の世界が描かれていった。



 奈帆斗は俯いて頭を掻いていた。少し昔の夏子との思い出が、目の前で蘇っていたからだ。

 夏子は少年のようにあどけなさを残す奈帆斗を見つめていた。素直で、夢に向かって一直線で、誰が見ても応援したくなるような、生命力溢れる熱を、内側に秘めている。

しかも、奈帆斗は夏子の原稿のアシストをしながら、彼女の描く線を、水を吸収するように自分の線に生かしていった。

ここ数カ月で奈帆斗の絵が良い方向へ変わっていったことを、夏子は肉眼で感じていた。夏子の絵柄を完璧にうつし取るわけではなく、奈帆斗本来の絵柄に、夏子の絵柄の良いところを読み取り、生かしていったように思う。現に奈帆斗の描くキャラクターの顔には感情が生まれていた。

アシスタントをする前の彼の原稿よりも、今の彼の描く原稿の方が、キャラが生き生きとしているように感じた。それは彼の努力でもあり、才能でもあった。

 夏子は、忘れかけていたデビューしたころの己の姿を、奈帆斗に重ねていた。


「河谷くん。構想しとる話の第1話のネーム描いて、その後のあらすじも全部伝わるように、太田君に話してみたら? 今の君やったら、連載権取れると思うで」


「樹先生……。ありがとうございます。オレ、やってみます。あの話連載するんが、オレの長年の夢やったんです」


「うん。夢、もうそこまで来とるで」


 背筋を真っ直ぐにし、真剣な顔で瞳を揺らして自分を見下ろす奈帆斗に、夏子は満面の笑顔で人さし指を上げ、天を指差した。

 奈帆斗はその指先を見て、決意の表情で頷いた。

 大きな窓硝子から差し込む白い陽射しが、彼らを逆光にし、その黒い影を際立たせていた。床に焼け付くようであった。

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