第20話 樹夏子

 タワーマンションの大きなガラス窓から差し込む大阪の陽の光に、奈帆斗は手を翳した。その光は、彼が小学生の時に教室で浴びていたものと、同じ匂いをしていた。もちろん場所は全く違うが、十数年ぶりの大阪での暮らしは、彼に関東とは別の活気を与えていた。それは周囲がクリエイターしかいない環境に来たということも大きかった。

 部屋の壁に沿ってデスクが一つ一つ置かれ、奈帆斗含め3人のアシスタントが座り、樹夏子から渡された彼女の原稿に向かって作業を行っていた。

 筆ペンでキャラクターの髪にベタ塗りをする、眼鏡をかけ、黒髪を一つ結びにした女性アシスタント。キャラクターや背景に、様々な模様のトーンの切り貼りをするボブヘアの小柄な女性アシスタント。女性作家のアシスタントは、主に女性と決まっているが、今回は異例の抜擢で、奈帆斗という若い男のアシスタントがその中に紛れ込んでいた。トラブルにならぬように、異性のアシスタントは本来置かない場合が多いが、彼は周囲の女性たちとも上手くやっており、かつ、漫画の技術を向上させることにしか興味がないので、変なトラブルが起ころうはずもなかった。

 各アシスタントごとに、任された業務は違っていたが、奈帆斗は夏子の漫画の背景の作画を任されていた。

 夏子が生み出した、魅力的なキャラクター達の背後に、写実的な日本家屋を描いていく。夏子の漫画のキャラクターは劇画調ではなく、デフォルメされた少女漫画的な繊細な絵柄である。だが背景は、そのデフォルメされた世界観にリアリティを持たせるため、写真のようにしっかりと描かなくてはならない。奈帆斗はその技術に、他のアシスタントよりも長けていた。

 まず青い芯のシャープペンシルで下書きをする。青で下書きすれば、印刷時に下書きの線が出てこないからだ。描いた青い線の上を、0.5mmの細い黒ペンが走る。

 奈帆斗は無になっていた。瞬きもせず、ただ一心に右手を動かし続ける。建物の影も、すべてペンで細かく描いていった。まるでモノクロ印刷されたかのような日本家屋が、奈帆斗の手によって生み出されていく。ミリペンから出るインクが、紙の上をスケートリンクのように滑る。地図は青い下書きの線で生み出したから、既に道しるべがある。何も迷うことはなかった。

彼は自由だった。家族や今までの仕事、すべてから解放された彼にとって、原稿だけが自由な世界だった。人の漫画原稿であるが、描いているときは、今までに感じたことの無い「生きている」という感覚を味わっていた。

奈帆斗の両手は、指先だけが出る軍手をしており、原稿からうつる線やインクで汚れていった。

だが、奈帆斗にとっては、その汚れは、自分が仕事をしたという勲章であり、誇れるものだった。

 いつの間にか、夏子が奈帆斗の背後に近寄っていた。葡萄色のタートルネックを着て、黒いGパンを履いたすらりと背の高い夏子は、ウェーブのかかった煮詰めた紅茶色の髪を、つむじで無造作に纏めていた。アーモンド型の目尻の吊り上がった瞳は、榛色をしており、小皺が目の端に幾筋かあることと、ラメの入ったオレンジ色のアイラインを跳ねるように引いているので、一見きつい印象を受けるが、関わった者は彼女のおおらかさに魅了される。微笑むと、口の横に一筋の皺が刻まれた。


「ふうん。ええんちゃう? 河谷くん。最初に着た時より、ずっと良くなっとるよ」


 女性にしては低いがまろやかな声で、夏子は優しく奈帆斗に語り掛けた。

 だが、彼は師の誉め言葉も聞こえていないのか、背を屈めて原稿に目を近付け、一心に描き続けている。

 夏子の目の前で、現実よりもよほど綺麗な日本家屋が出来上がっていく。


(すごい集中力やわ)


 夏子は厚い唇をすぼめると、ひゅうと息を漏らした。塗られたテラコッタ色の口紅の中央が、鈍く光る。


「河谷君、そろそろ休憩してええよ」


 夏子は身を屈め、奈帆斗の耳元に近寄ると、もう少し声を大きくして囁く。

 奈帆斗は急に手を止め、何かに気付いたように顔を上げた。


「あ!」


 ポケットから急いで小さなメモ帳を取り出すと、体をくの字に曲げ、傍にあった鉛筆で、文字を書き殴る。

 夏子はそれを見て奈帆斗から身を離して瞠目した。


「か、河谷くん!?」


 夏子の大きな声が、仕事部屋に響く。

 他のアシスタントも驚いて顔を上げ、2人を見る。

 奈帆斗は肩を叩かれたように、はっとした表情で後ろを振り返り、よろめいて体勢を立て直すと、夏子に向かって頭を下げた。


「せ、先生! すんません気づかんくて」


「ええんよ。アイデア思いついたんやろ。自分の漫画の」


 奈帆斗は数秒、茫然と夏子を見ていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。


「あ、はいっ。急に思いつくんでメモを常にポケットに入れてて忘れないように書くようにしてるんです」


 奈帆斗は照れながら俯くと、微笑んで頭を掻いた。


「ええ心掛けよ。私もそやし」


「ありがとうございます!」


「アシスタントの合間に描いてる、あの侍の女の子の話、おもろいと思う。あの話読み切りやなくて、結構長い構想あるんやろ? その後の展開の」


「あ、そうなんです。恥ずかしながら……」


「ジャンジャン描いてたのね」


「えっ、あ、そうです!樹先生にアドバイスされてから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る