第19話 黒板に描かれた白い少女

 花びらが落ちることも気にせず、生徒たちからもらった白い薔薇の花束を、花弁を下にして持つ。房のあるふくらみを見せるそれは、少しでも風にそよげば剥がれ落ちてしまいそうだった。だが今の奈帆斗には、そこまでの繊細さに気を回す余裕もなく。

 彼の視線の先には、長年過ごした小学校の校舎があった。

 元は今よりも白かったのだろうその壁は、年月を感じさせる黄ばみを帯びていた。だが、その黄ばみさえも、何故か今となっては愛おしく感じる。


(世話んなったな……)


 眉を寄せ、瞳を僅かに震わせる。

 新卒から3年。

毎日この学校に通い続けた穏やかな日々が、走馬灯のように思い出される。

 親切な同僚たち。優しい校長と教頭。先輩教師たち。満ち足りたと思える日々だった。

 だが、満ち足りた、と感じていても、自分の体は、創作をしたいという強い気持ちからは、逃れることが出来なかったのだ。


(きっとこれが、オレの使命なんだろう)


 静かに思った。

これから彼が手にするものは、生徒たちの答案を添削する赤ペンと白いチョークから、黒いインクのついたGペンとなる。白く汚れ続けた手は、これからは黒く汚れていくのだ。

 白薔薇の花束を握っていない方の手を顔の前に広げると、ぎゅっと閉じる。強い力だったため、その拳は白く染まる。

 脳裏に、涼や蓮、その他の生徒たちのあどけない笑顔が一人一人浮かぶ。皆、優劣などない、ひとしく大切な教え子だった。

 握った拳が震える。


「……みんな、ごめんな。オレ、もう一度夢を目指す。……みんなも頑張ってくれ」


 泣きたいような切ない気持ちが、胸から喉へ込み上げる。唇を引き結び、鼻から息を吸うと、涙の味が喉に零れ落ちてきた。

校舎に背を向け、奈帆斗は正門から離れようと歩く。


「河谷先生!!」


 突然、割れるような高い声が、奈帆斗の背を打った。

 驚き、振り返ると、涼が息を切らせながら立っていた。奈帆斗を追いかけて、走ってきていたらしい。上半身を屈め、両手を膝の上につき、ぜえぜえと荒い息をついている。


「先生。先生のやりたいことって、何ですか? ぼく達の先生辞めてまで」


 涼は顔を上げた。黒曜石のような澄んだ大きな黒目から、涙が次々とその白く滑らかな頬を流れ、地に落ちていく。


「山本」


「ぼく、嫌だ。先生、ずっとぼくたちと一緒にいてくれると思ってたのに」


「山本、ごめんな。先生、お前と同じ夢を、一度諦めた夢を追うことにしたんだ」


 涼はそれを聞くと、すっと一本背に板を入れられたように、真っ直ぐに上半身を起こし、瞠目して奈帆斗を見た。


「夢って……まさか」


「オレもお前くらいガキの頃から、本当はずっと少女漫画家になりたかったんだ」


「先生も……少女漫画家に」


「今、夢への第一歩をようやく踏み出した。その一歩に辿り着くまでが長すぎたけどな」


 奈帆斗は努めて明るい笑顔を浮かべて、肩を上げた。

涼に言ったつもりが、その言葉は自分へも返ってきた。半分瞳を開き、作っていた明るい笑顔から、本来の切ない笑顔へと変わる。

 涼はしばらく茫然と奈帆斗を見ていたが、やがて納得したように、ゆっくりと微笑んだ。

瞳を動かすと、彼の目尻に溜まっていたまるい涙が、再び流星のように零れ落ちる。


「先生、絵ぇ上手いし、授業聞いてなくて漫画描いちゃってた時もあったけど、先生の話面白かったもん。絶対大丈夫だよ。オレ、先生の漫画出たら絶対買うよ」


「山本……」


「先生、また会おうよ。土日とかオレ暇だしさ。漫画家になった先生の話聞きたいし」


 涼は当たり前のように明るく言った。例え奈帆斗が学校を辞めても、自分達の関係は続いていくと信じ切っている笑顔だった。

 奈帆斗はそれを聞くと、真顔になって俯く。引き締めたくちびるの中央が鈍く光る。

夏の陽射しが、彼の白い顔に、くっきりとした黒い影を作る。


「……いや、もうお前とは会わない」


 奈帆斗は小さな声で呟いた。


「えっ」


 涼は時が止まったように固まった。

 奈帆斗は顔を上げる。今度は、夏の陽射しが彼の白い顔全体を照らし、青空の元に、凛とした表情がはっきりと映し出される。その瞳は琥珀色に燃えていたが、同時に切なさを宿していた。薄い唇を開けると、奈帆斗は一息に言った。わずかに涼から目を逸らす。


「お前とは会わない。次お前と会うのは、オレの漫画だ。山本、プロになれ。少女漫画界でお前と戦える日を待ってる。追ってこい!」


「先生……!」


 奈帆斗はさっと踵を返すと、涼の元を離れ、颯爽と去って行く。

 涼は彼を追うため、体を動かそうと意思を働かせたが、金縛りにあったように動けなくなった。

 奈帆斗の広い背が遠ざかっていくのを、ただじっと見つめていた。

 いつの間にか、蝉の声が輪唱するように聞こえてきた。

 

 翌日、涼は気怠い体を引きずるように登校して、教室のドアを開けた。スカイブルーの半袖のTシャツは、爽やかだというのに、当の本人は俯いて暗い顔をしている。細く白い首筋に、汗の玉が浮くのも気にせず、ブラックのランドセルを着せられるように背負っている。そのまま席につこうとしたが、周囲の生徒が誰も席に座っていないことに気付き、顔を上げた。

 皆、蟻のように黒板の前にわらわらと集まり、ざわめいている。


(え、何これ……。皆どうしたの?)


 涼のこめかみに冷や汗が流れる。あまりにも多くの生徒が集まっているため、黒板が見えなくなっていた。

 その群れの中にいた、短い髪の少年が、涼に気付き、後ろを振り返る。

蓮だ。

 蓮は涼を見ると、ぱっと黄色い花が咲いたような笑顔になり、大きな声を出した。


「山本先生! これ見て、すごいよ!」


 蓮の声を合図に、生徒たちは涼のために黒板の前からはけた。

以前涼が本で読んだモーゼの海割を思い出させる光景だった。

 涼は一歩一歩足を踏み出し、黒板に近付いた。傍らで蓮が泣き笑いしているのを感じたが、彼の瞳は真っ直ぐに黒板に描かれたものへ釘付けになる。黒曜石色の瞳はきらきらと煌めき、やがてその中央から涙が生まれ、一筋の雫となって流れていった。

 黒板には白いチョークで、着物姿の麗しい少女の横顔の絵が描かれていた。長い睫毛を伏せ、薄い唇を微笑ませている。涼が今まで見たどんな女性よりも美しかった。線の一筋一筋が、丁寧に重ねて描かれているのがわかる絵だった。同じ絵描きだからこそ、この絵の素晴らしさが、より琴線に触れた。

 その美人画の横に、流麗な筆跡で「夢を追い続けろ」と縦に書かれている。

 涼は、鼻先が触れそうになることにも気付かず、更に黒板に近付き、その文字を見つめる、

瞬きをして涙を幾つも零した。


「先生……」


 朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り、奈帆斗の代わりとなった担任が訪れても、生徒の波は黒板から離れることはなかった。

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