第17話 両親に伝える夢
アパートの自室のドアを閉めると、先ほど富岡たちと熱いやり取りを交わしていた人間と同一人物とは思えないほど、深い孤独感に襲われた。俯き、ポケットからスマートフォンを取り出す。部屋のあかりをつけていなかった為、スマートフォンのあかりだけが、青い暗闇を照らしている。
奈帆斗の顔を下から照らし、彼の瞳に横に一閃、水色の光が流れる。
(もう少し明るい色にしとけばよかったな、ホワイトとか)
そう思ってしまうほど、今は機種のダークブルーが目に痛い。自分の心の状態を色で現わすとしたらこの色だ、と他人に指摘されているようであった。
瞳を閉じ、深呼吸をする。そして通話ボタンを押すと、スマートフォンを耳に当てた。
「あ、母さん。奈帆斗だけど。久しぶり。元気?」
努めて明るい声で話しかけた相手は、数カ月ぶりに連絡をした奈帆斗の母・久美子であった。
「奈帆斗? どうしたの、こんな時期に。先生の方は、相変わらず楽しくやれてるの」
久美子と話すのは、教職が忙しく、正月に実家に帰れないという連絡をした時以来であった。その時も悲し気な声がスマートフォン越しに聞こえてきて、奈帆斗は深く反省したのだが、今回も漏れてきたのは少し悲し気な色を帯びた母の声であった。この人はいつもこうだ、と思う。
奈帆斗は唾を飲む。老いたな、と母の声を聞いて改めて思った。切なげに掠れた声を出す彼女に、本題をふっかけてよいのか悩み、舌先で唇を湿らせる。心臓が一度、どくんと大きく鳴った。自分でも考えていたよりも緊張しているのだ、とその時気付いた。
「そのことなんだけどさ」
「え、何? 結婚?」
先ほどと打って変わり、久美子のあかるい声が聞こえる。
(しまった)
明らかに勘違いをされている。しかも母にとって良い方へ。この勘違いを裏切るようなことを、自分は今から口にしようとしている。そしてそれは、決定的に母を傷つける言葉であった。
「オレ、教師辞めることにした」
鋭利なナイフで母の痩せた胸を斬った。言った後で、奈帆斗の胸も同時に斬られた。
久美子の声が聞こえなくなる。数分後に、やがて静かに聞こえてきたのは、枯れた切ない声であった。涙を纏っているように感じる。
「えっ……? なんで……どうしてよ奈帆斗。あんなに頑張ってたじゃない」
奈帆斗は唇を噛む。もう後戻りは出来ない。自分の本当の気持ちを母へ届けるしかない。
「オレ、漫画家になる」
さっきよりも意思の強い、中央に実のある声を出せた。それが今の母の胸を打つことはないだろうと考えたが。逆効果であろうと思ったが、言うしかなかった。
「漫画家!? 漫画家になるってどういうことよ。誰に唆(そそのか)されたの!」
ああ、やはりそういう応えになるだろうな、と奈帆斗は感じた。不思議と諦めの気持ちは湧かなかった。後は自分の意思をはっきりと伝えることに専念するだけである。その為に、震える指先で母の電話番号を入力したのだから。
「母さん、オレ、教師になる前から本当はずっと漫画家になりたかったんだ」
「何馬鹿なこと言ってるの! 一度 家に帰ってきなさい!」
「母さ――」
「奈帆斗」
母と言い合いになっている最中、真横から鈍器で殴ってくるような低い男の怒声が聞こえた。
「親父……!」
奈帆斗の父・英男が、スマートフォン越しに怒りを露わにしているのを感じた。
スマートフォンを握る手に、じわりと嫌な汗をかく。その汗は、自分とスマートフォンを決して離してくれない、粘着性のあるボンドのように感じた。
廊下側に、机に乗るサイズのアンティーク調の小さな鏡台が置かれ、その端を、陶器で出来た青と赤の薔薇の模型が彩っていた。その滑らかな鏡面に、涙目になって口を片手で押さえている久美子の顔が映っていた。指の隙間から覗く彼女のくちもとは、年相応の皺がついている。今はその皺が、仄かな廊下のあかりに照らされ、影を持ち、一層深く見えた。既に白いものが混じっている彼女の髪は、水分を失い、縮れて固くなっている。長い前髪を耳にかけ、後ろ髪と共にうなじの辺りで団子にしている。袖口の膨らんだ、きっちりとした
そんな品のある初老の女の横で、図体の大きな男が、鏡台の横に置かれた黒い受話器を握っていた。青筋の浮いた、大きな手は震えている。整えられた固い髭が乗った熱い唇は、真一文字に引き結ばれ、開いた途端に誰かを噛み殺してしまいそうな勢いである。白いものが入り混じった太い眉は、極限まで両端が眉間に寄せられ、深い皺を刻んでいる。長い前髪はワックスで固められ、オールバックにされていた。白い髪が、その中で流星のように幾筋も後頭部に向かって流れている。
「この馬鹿息子。お前どういうつもりだ」
「親父、オレ漫画家になるから。もう決めたんだ」
受話器から息子の声が聞こえる。それを聞くたびに、英男の怒りの沸点が胸から喉へ、せり上がっていくようだった。
「オタクになるってのか」
「だから漫画を
「お前が教師辞めて博打みたいな仕事に手ぇ出すって言うんなら。お前を勘当する。2度と河谷の家の門を跨ぐな」
「お父さん!」
久美子の悲壮な叫び声が、河谷家の廊下に響き、静かに消えていく。
スマートフォンから、英男の声が突然消える。向こうから電話を切られたのだ。
奈帆斗はスマートフォンを耳から離し、薄青い光を灯す画面を見つめる。
「……親父」
久しぶりに聞く父の声は、昔と変わらず厳格で、鋭利な刃物のように奈帆斗の心を
父のことも、母のことも嫌いではなかった。だが、「漫画」という文化について、自分の「夢」について、あまりにも感性や捉え方が違っていた。それに今まで悩まされてきたのだ。やはり理解してもらえない。
彼らに理解してもらうためには、自分が創作の道で成功するしか術がなかった。本当に、一人で頑張らなくてはいけない。家族からの応援は、期待してはならなかった。
奈帆斗は俯き、目をきつく閉じると、蹲って震えた。膝頭に、熱い涙が零れて染みていく。
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