第16話 男性少女漫画家・富岡さら紗

 黒海社の2階の打合せ室で、太田と奈帆斗は仕切りがある箇所で、丸テーブルを間に挟み、向かい合って座っていた。

 太田は白のシャツの前ボタンを2つ外し、黒のパンプスを履き、長い足を持て余すように組んでいる。腕まくりをした二の腕の筋肉と、シャツから覗く鎖骨に色気がある。

 髪は短く刈っている。幼い頃からそれは変わらなかった。


(こいつ、黙ってたらスポーツ選手みてえだよな。……まさか少女漫画編集者だ

とは、誰も思わねえだろ)


 奈帆斗は可笑しくなって笑いを堪える。

 奈帆斗が不自然に腰を上げたので、太田は不思議に思い、若干首を傾げる。だが話を本題に戻すために、それには触れないことにした。


「河谷。お前デビュー作の応募要項欄にアシスタント希望って書いとったよな」


「ああ」


「実はな、編集部でもお前の読み切り載せたはええねんけど、やっぱまだ荒いところがあるって話になってな。そいでどうやって育てるか悩んでた時に、お前の読み切り読んだ樹夏子いつきなつこ先生から連絡が来たんや」


「樹夏子先生!? 昔オレらがガキん頃、『ソード・エイト』で発行部数500万部超えたあの大御所少女漫画家やんか!」


 奈帆斗は驚いて大声を出した。

 太田は苦笑いをした。

少し前から思っていたが、奈帆斗は歳の割りに感情に素直に発言するのかもしれない。それは作家にとって良いことだと思った。作家は自分の想いを、原稿に込めるしかない。だから、内気で暗い人間が多いのも事実だ。だが、奈帆斗の場合は、自分の感情に素直に発言できる。内側でくすぶって消えてしまう想いを、彼の場合は人と話すことでも表現できるのだ。


「せや。その樹先生がな。お前になんや、興味持ってくれはって。アシスタントとして雇ってもええって言ってくれたんや」


「ほんまか!」


 奈帆斗は身を乗り出した。

 太田はそれを制するようにすっと右手のひらを広げ、奈帆斗の前へ翳す。


「……せやけど樹先生の住んどるところが大阪やねん」


「大阪……」


「お前がほんまにアシスタントやって力つけてから連載したいっていう気持ち持ってくれてたら、大阪行かないとあかんねや……」


 太田は眉を寄せ、奈帆斗から視線を僅かに逸らすと頭を掻いた。

 奈帆斗は太田が言いたいことを察して、うすく唇を開け、茫然とする。


(教師辞めなあかんってことか)


 必然的にそうなる。

副業が禁止されている学校の教師、ましてや漫画のアシスタントなどという修羅場に赴くことになるのだから、教師は辞めざるを得ない。

 奈帆斗は下唇を強く噛んだ。俯き、何も言えなくなる。


「その子が太田君が言ってた、令和の男の少女漫画家第2号の、可愛谷先生?」


「奇遇ですね。僕も一度お会いしてみたいと思っていたところです」


 深く落ち着いた大樹のような声と、凛として冴える男の声が続けて背後から聞こえた。

 奈帆斗は後ろを振り返った。

 そこには、声のイメージとぴったりと合っている、白髪に黒い髪がぽつぽつと入り混じったグレーのスーツを着て、ピンクのストライプの入った50代程の男と、白いシャツにダークブルーのネクタイを締め、ネクタイの色と同じジャケットを腕にかけている20代程の男が並んで立っていた。


「社長! そして富岡さら紗先生!」


 太田はそう言うや、立ち上がり、彼らの元へ行く。


「えっ?」


 奈帆斗は驚いた顔で太田を見る。

 太田は50代の男に向かって、体をくの字にして頭を下げた。

 奈帆斗はそれを見て、自分も慌てて立ち上がり、頭を下げる。その体勢のまま、片目を開けて、ちらりと目の前の男達を見る。


「この人が黒海社社長、犬嶋和一(いぬしまかずいち)。そして――」


 視線を移し、犬嶋の隣に立つ富岡を見る。

富岡は男にしては色白で、切れ長の瞳に、薄いグレーの縁の眼鏡をかけている。長い前髪を緩くオールバックにして。後頭部はこちらから全て確認出来なかったが、刈り上げているらしい。まるでお洒落なバーテンダーのようだが、そこには凪いだ湖の水面のような静けさがあった。彼の姿をいつの間にかまじまじと見てしまい、奈帆斗は瞠目して、瞳を閉じ、再び深く頭を下げる。


(どんな人かとおもったら、めっちゃイケメンじゃん! 少女漫画みてえ)


「ああ、いいからいいから。アットホームがうちの社風だから。ええと、可愛谷先生だよね? 君の漫画読ませてもらいました。荒いところは、まあ、あるんだけど、何か他に見ない、独特の魅力があった」


 太田は顔を上げるが、奈帆斗は緊張で頭を下げたままだった。褒められている。自分の作品が、出版社の社長に、目の前で褒められている――。

嬉しくて、頭が真っ白になる。本当に目の前が眩んだ。


「僕も読ませて頂きました。男で少女漫画家って、ひやかしで来たやつだったら、と思ってけど。読んでみたら可愛谷先生の熱意が伝わる良い漫画でした。日本の古き良き時代を描いてるっていうか、『はいからさんが通る』の大和和紀(やまとわき)先生にも、若干雰囲気が似ていて」


「お、恐れ多いです! ありがとうございます!」


 富岡の嫌味のない誉め言葉に、奈帆斗は更に深く頭を下げる。今度は顔から火が出そうだった。目の前がちかちかと赤黄色に点滅する。


「今教師をなさっているとお聞きしましたが」


 富岡の問いに、奈帆斗は顔を上げる。


「あ、はい。実はそうなんです」


「時間の無い教師やりながら漫画送ってくるとか、すごい情熱だよ。本気なんでしょ?」


 犬嶋があかるく問う。


「はい!」


 はっきりと笑顔で応えてから、奈帆斗は瞠目した。


(オレの中に、本気で漫画家になりたいって気持ちが自然とあるんだ。人に問いかけられたら、応えられるレベルで)


「本気なんだったら、漫画家の暗い部分も話すけどいい? 今後君がホントにどうするか真剣に考える為に」


「は、はい」


「知ってると思うけど、まず、漫画家が仕事で生活できるようになるまで、とても時間と労力がかかる厳しい技術職だってこと。漫画家は厳しい競争を勝ち抜いて連載を獲得するまでとても時間がかかるし、その間は基本的に漫画では無収入」


「僕もそうだったのですが、実際に連載が決まってからコミックスが売れることで初めて漫画家の生活は成り立ちます」


 富岡が犬嶋に続いて応える。


「それは出版社サイドも同じで、漫画誌の赤字をコミックスの売り上げで埋めている状況なんだよ」


「……」


 奈帆斗は黙り込む。漫画で食べていける人は、本当に一握りなのだ。知ってはいたが、第一線で働いている業界の人間たちからそう言われると、暗い思いが心を淀ませる。


「それでもこの業界に飛び込む? 安定した公務員辞めて」


「今まで潰れた人も何人も見ました。でも、僕は可愛谷先生の漫画、もっと読んでみたい」


「富岡先生……」


 富岡の真っ直ぐな曇りないまなこが、奈帆斗を見る。彼の眼鏡のレンズに映る自分の顔は、思っていたよりも決意に滲んでいた。

 太田は彼らの横で、2人を見ていた。


(同世代、並ぶ男の少女漫画家か……。ええライバルになりそやで。互いに描き合って、高みへ昇ってくれたら嬉しいな)


 彼が口角を上げたことは、その場の誰も気付かなかった。

 奈帆斗は逡巡したのち、唾を1つ飲み込むと、顔を輝かせて応えた。そこには迷いはもうなかった。


「飛び込みます。オレ、もうとっくに決めてますから。ずっと描き続ける馬鹿になるって。漫画は紙の銀河なんです。オレはその銀河を描く神様になります」


 奈帆斗の曇りない声が、廊下に響く。

 それを聞いた3人は、それぞれの心の琴線に言葉が響く。3人とも唸るように息を漏らす。


「河谷……」


 太田は涙声で奈帆斗の名を呼んだ。


「そうか、わかった。……君みたいな情熱ある若者がいるとは、日本もまだ捨てたもんじゃないな。迷わずこっちの海へ飛び込んで来い!」

 

 犬嶋は力強く奈帆斗を鼓舞した。


「はい!」


 富岡は奈帆斗に右手を差し出す。節くれだった白く長い指が、奈帆斗の胸の前に迫る。この人はこの細い手で、今も現在進行形で漫画を生み出し続けているのだ。戦士の手だ、と奈帆斗は感じた。


「あなたと誌面で会える日を楽しみにしています。一緒に男性少女漫画家として、少女漫画界を引っ張っていきましょう」


「富岡先生……!」


 奈帆斗は微笑むと、左手を差し出す。


「オレは、今遥か後方を走ってるけど、富岡先生の背中に追いついて、速く隣に並ぶ戦友になれるよう、毎日努力します!」


 奈帆斗は富岡の手を取り、固く握手をした。富岡の少し低い温度の手と、奈帆斗の燃えるように熱い手の温度が溶け合い、やがて1つになる。


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