第14話 紙の銀河

 歌奏絵は再びスマートフォンに文章を打つ。彼に聞こえるように。直接彼の傍で語り掛けるように。


「私も。私は耳が聞こえないのに、漫画から音が、声が聞こえてきたんです。読み終わって、放心した時に決意しました。私もこんな漫画が描きたい。落ち込んでいる人を元気に出来るような、少年漫画家になるんだって。それで、会社辞めたの。決意の退社だった」


 奈帆斗は驚いて歌奏絵を見る。


「歌奏絵さん……。そうだったんだ」


 歌奏絵はそれに気付き、再び瞳を細めた。

 奈帆斗は声に出した言葉を彼女へ届けるために、文章を打ち始めた。


「そうだったんですね。すごい情熱です」


 歌奏絵はメッセージを返す。


「今は貯金でやりくりしながら、漫画描いては賞に出したり、持ち込みに行ってます。編集さんは私がろう者だからって差別したり贔屓したりしない。ちゃんと私の作品を見てくれる。それが嬉しいの」


 奈帆斗は歌奏絵の口角が上がるのを目をわずかに上げて確認すると、メッセージを返した。


「オレも、今25歳なんですけど……。実は本当は、趣味じゃなくて、本気で漫画家目指してたんです。でも……、漫画家の夢を諦めてしまったんです」


 そこまで打って奈帆斗は、自分の指先が震えるのを感じた。


「ずっと追いかけてきた、夢だったのに」


 歌奏絵はスマートフォンをじっと見つめる。奈帆斗のメッセージに何と返そうか悩んでいるようだった。真顔からやがて切なげな笑顔になる。そして柔らかな指の腹で、そっと文章を打つ。


「『続ける馬鹿になれ』って言葉、知ってる? ここんとこ描けなくて、落ち込んでた時に、YouTubeでリアルゴールドのCM見て励まされたキャッチコピーです。『目指している場所がある限り、自分を信じ続けることが出来るはずだから』って。私も続ける馬鹿になります。もしデビュー出来なくても、死ぬまで描き続ける」


「歌奏絵さん……」


 奈帆斗は掠れた声で、彼女の名を呼んだ。


「私はこの紙の銀河を、ペンっていうかいだけで泳いでいくの。ずっと、ずっと」


 歌奏絵は文字を打ち終わると、顔を上げ、奈帆斗を見た。眉を少し寄せ、微笑む。何故か悲しい笑顔だと感じた。ペンと共に生涯歩んでいくことを決意した女性の顔だった。


「紙の、銀河……」


 奈帆斗は自分にしか聞こえないほどの音量で声を出した。

 紙の銀河――。

 自分の漫画原稿をそんな風に捉えたことはなかった。奈帆斗の頭の中に、真っ暗な闇が広がり、そこに点を穿つように、星々が光を灯す。中央にある赤い星の上で、歌奏絵が真珠色のデスクに向かって、銀の流星のような色のペンで、一心に漫画を描いている姿が映る。奈帆斗は大きな誇りを持って、それを遠くから眺めていた。

 歌奏絵は顔を上げ、奈帆斗を真っ直ぐに見ると、スマートフォンを鞄にしまった。刹那、スマートフォンのピンクゴールドが、燃える星のように光る。そして奈帆斗に近付いた。


「えっ?」


 奈帆斗はそれに気付き、動揺する。

 彼女の履く、オフホワイトのパンプスが地を鳴らす音が、かすかに響く。

 歌奏絵は僅かな膨らみを見せる彼女の胸が、奈帆斗のスマートフォンを持つ指先に触れてしまうのではないかと思うほどの近距離で彼に近寄ると、すっと顔を上げる。

 歌奏絵の榛色はしばみいろの瞳が、奈帆斗の前で琥珀に陽が差したように輝く。

 奈帆斗はその煌めきに思考を奪われる。

 歌奏絵は、奈帆斗のスマートフォンを握っていない方の手を取ると、彼のてのひらに、人さし指を軽く曲げて指の腹を置いた。

 奈帆斗はその柔らかな感触に気付き、俯いて彼女の指を見る。

 歌奏絵はゆったりと墨をつけた筆で描くように、一字ずつひらがなを書いていく。

 彼女の指が動く度に、甘い痺れが走るようだった。

 奈帆斗はその書かれた文字を、瞬きもせずに見つめる。

 そして、彼女が自分に何を伝えようとしているのかを悟ると、うすく唇を開け、震わせた。


「あ、な、た、も、か、き、つ、づ、け、て……」


 奈帆斗は歌奏絵が指であらわした文章を読み上げる。ひとつひとつ吐息で呟くように。

そしてゆっくり顔を上げると、歌奏絵と見つめ合った。互いの瞳に、互いの姿が映る。

 辺りに流れる空気が、先ほどよりも澄んでいるようだった。いつの間にか陽が暮れ、2人の姿が逆光となり、歩道橋に黒い影を伸ばした。

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