第12話 描かれたパラパラ漫画
女性は足を折り畳むようにしゃがむと、丁寧に両手でノートを持ち上げた。ブルーグレーのそのノートは、頻繁に使われているのか、うっすらと禿げている。表紙を捲り、1枚目の紙を捲った時に、端に何か絵が描かれていることに気付き、その部分を親指で撫でる。そうして、2、3枚目を捲ると、1枚目の続きと思われる絵が続けて描かれていた。小さいが、細やかだ。女性はそれがパラパラ漫画であることに気付いた。ノートの一番後ろを親指と人差し指で一気に最初のページまで捲る。
長い髪をうなじで束ねた袴姿の少女が、刀を持って居合を行っている漫画であった。少女が腰に帯びた黒い鞘から一振りした刹那を、丁寧に一枚ずつ描写している。女性は感動して、榛色の瞳を震わせた。陽の光に淡い琥珀色に煌めく。
奈帆斗は原稿に釘付けになっていたが、女性の方を見てはっとした。
「あ、そ、それは!」
慌てて漫画原稿を女性に手渡す。
「あ、すみませんこれ! あなたが描かれたんですか?」
女性は薄く唇を開けて茫然と奈帆斗を見ていた。テラコッタ色のリップが、ほどよい厚みを持った唇の上で鈍く光っており、奈帆斗は直感で似合っていると感じた。やがて徐々に瞳を細くさせ、柔らかく微笑む。
「あっ、あう」
女性はそう発言した。伝えたい言葉があるのだという熱は確かに感じるが、声が上手く言葉になっていなかった。
奈帆斗はびっくりし、瞠目する。女性は先ほどよりも深く微笑むと、耳に髪をかけ、人差し指で示す。そこには補聴器がつけられていた。
(この人耳が……)
奈帆斗は悟った。女性はろう者であった。ろう者とは、耳の不自由な人のことを言う。
「ええっと、あの、オレ」
奈帆斗は口をぱくぱくさせながら、ジェスチャーをしようと必死に体を動かし、変なポーズを取った。
「ううっ、うう」
女性は形の良い眉をハの字にして、口に片手を当てて笑う。品の良い笑い方だと奈帆斗は思った。
「ど、どうしようオレ、手話できねえし……」
小学校教師といっても、奈帆斗は手話が出来なかった。クラスに一人でもろう者の子がいれば、懸命に手話を学び、資格等を取得しただろうが、そういった機会に恵まれなかった。ろう者の方と日常生活で出会うことなど稀である。奈帆斗の人生では、初めてと言ってよかった。
奈帆斗は頭を掻く。
(どうすりゃいいんだ……)
女性は鞄からスマホを取り出すと、ライン画面のバーコードを表示し、奈帆斗に見せる。
「あ、今だけラインで会話しましょうってことかな」
奈帆斗も鞄からスマホを取り出すと、女性のバーコードを読み取る。2人はお互いの画面を確認し合う。画面には夢野歌奏絵という彼女の名前と共に、ラインアイコンが載っている。ラインアイコンには、モネの風景画「睡蓮」が貼られていた。
青い水面に、緑の葉が丸く上下に描かれている。その上に小筆で置いたように小さな紅い蓮の花が描かれている。西洋画を見た事など、何年ぶりだろうと奈帆斗は思った。画像でもそれを見たことはなかった。久しく美術館にも足を運んでいなかった。最後に見たのは大学4年生の就職活動の時期に足を運んだ東京国立博物館で行われた「上村松園展」だということをふと思い出した。彼の脳裏に、白い肌に朱の口紅を差した肌の柔らかそうな女の姿が映る。1936年に制作された、「序の舞」という日本画である。この絵を目にした時、着物の裾が彩雲のように金色に薄く光っているのが印象的だった。そして、すっと背筋を伸ばして立った女性が、前を向き、右手に扇を持って手を地面から平行に伸ばしている姿が、神々しく、眩しく、奈帆斗は瞳に薄い虹の靄がかかったように感じた。その靄を手で掴もうと、指を鼻先の前でひらひらと振ったが、虹は奈帆斗の手に絡めとられることはなく、夢から醒めるように消えていった。奈帆斗はその時、手のひらを目の前で開き、自分が今何をしようとしていたのかを考えて、ただぼうっとしていた。自分でも忘れていたような、そんな思い出の切れ端を、歌奏絵のアイコンを見た瞬間に急激に思い出した。
奈帆斗はラインのメッセージに文章を打ち込む。
「さっきはぼーっと突っ立ってて、ほんとにすみませんでした! 大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか? 『ゆめのかなえ』さんっていうお名前なんですか? 素敵なお名前ですね!」
(あ、やべっ! 初対面の女性に変なこと言っちゃったかな)
スマホを持っていない手で、奈帆斗は頭を掻いた。歌奏絵は画面を見ながらくすくすと笑っている。そして細く白い指先で、スマートフォンにメッセージを打ち込む。
「私も前を見ていなくて、ぶつかってしまい、本当に申し訳ありませんでした。私は大丈夫なのですが、河谷さんは? 名前のこと褒めてくださって、ありがとうございます。ダジャレみたいだって笑われてきた名前なのに、そんなこと言ってくれた人、初めてです」
奈帆斗はそれを見て、少し慌てて返信を打ち込む。指の速度が上がる。
「ご無事なら何よりです! いえいえ、そんなことないです! ほんとに夢と希望いっぱいの、素敵なお名前です!」
そこまで打ったところで、客観的にその文章を読み返し、奈帆斗は瞠目する。頬が熱くなる。
「な、何言ってんだ、オレ!」
奈帆斗は一拍置いて照れる。
それを見て歌奏絵は風船が割れたように、ぷっと吹き出して笑い、またメッセージを打ち返す。
「あなたのノート、勝手に見ちゃってごめんなさい。でも、すっごく素敵なパラパラ漫画が描かれていて、びっくりしました。あなたも漫画家目指してるの?」
奈帆斗のスマホを触る指が止まる。逡巡し、再び打つ。
「オレは、趣味で」
歌奏絵はそれを見て、真剣な顔になる。眉を少し寄せ、その眉が少し揺れているのを、奈帆斗は確認した。
「そうなんだ。勘違いしちゃってごめんなさい。私、見られた通り、少年漫画家目指してるんです。今日は出版社への持ち込みの帰りだったの」
奈帆斗はその文章を読み、はっと顔を上げ、歌奏絵を見る。
歌奏絵は真剣な顔でスマートフォンに文章を打っていた。淡い桜色の下唇が上唇によって湿らせられているのを、奈帆斗は見た。その瞳には一筋の鈍い光が宿っていた。黄を纏った熱い灯火であった。
「女で、ろう者で、少年漫画家目指してるなんて、珍しいでしょ? でも本気なんです。本気で、少年漫画家になりたいの」
奈帆斗は真剣な顔になり、片手でスマートフォンを握ると、その文章を読んだ。
「歌奏絵さんの漫画、ちょっと読んだだけですけど、すっごい熱が伝わってきました」
歌奏絵は顔を上げ、奈帆斗を見つめる。
奈帆斗は気付かず、一心にスマートフォンに文章を打ち込んでいた。その瞳には白い光が一筋入っていた。
歌奏絵はそれを見て、大きな瞳を琥珀色に煌めかせ、震わせる。
「絶対なれますよ」
歌奏絵はスマートフォンを見て微笑む。
「ありがとう。私、障害者雇用で、最初に入社した会社で、仕事で上手くいかないことがあって、うつ病で休職したの。25歳の時。何もかも嫌になって、部屋に引きこもってました」
歌奏絵はそう打ち込むと、静かに長い睫毛を持つ瞼を伏せた。彼女の白い頬に睫毛の影が出来る。
奈帆斗は彼女の瞼が下ろされていくのを一コマ一コマの絵コンテを切るように見つめた。何故か歌奏絵の打った文章が、耳に玲瓏な声として届いてきたように感じた。
1年前の歌奏絵の部屋は、今と比べると、とても散らかり、汚れていた。読んだ本はそのまま床のいたるところにバラバラに重なって置かれ、空いた床にはうっすらと白い埃が積もっていた。
歌奏絵は、その部屋の汚れを払おうとすることもなく、部屋の隅で参加座りになり、組んだ腕に顔を伏せ、蹲っている。顔をゆっくりと上げると、元々薄い肉付きをしている彼女の顔の、目の下にくっきりとした半月状の暗い隈が差していた。
茫とした眼差しで、部屋に積まれた紙が黄ばんで焼けのある、古いコミックの単行本をぼうっと見つめている。よろよろと立ち上がり、動き出すと、四つん這いになって積み上げられた単行本に近寄る。ゆっくりと一枚一枚ページを捲ると、やがてその手は止まらなくなり、虚ろな瞳は光を灯し始める。耳にかけていた長い亜麻色の髪が、耳から外れて落ちて漫画のコマを撫でて、落ちていく。
「その時に友達が、桐生正志(きりゅうまさし)先生の「AKITO」を全巻貸してくれたの。これ読むと絶対元気になるからって。最初は漫画なんかでって思ってたんだけど、1巻読み始めたら止まらなくなって。最終巻に辿り着くまでに、何度も何度も、感動して泣きました。72巻あったのに、一週間で一気に、全巻読み終わったの」
歌奏絵の脳裏に、単行本のページに零れ落ちた涙が滲んでいく光景が思い起こされる。印刷されたインクは、彼女の涙では滲まなかったが、彼女の心に積もっていた汚れを流れ落としていく。
その場面は、主人公のアキトが母親を殺した敵を拳で倒すシーンだった。アキトの目からも大粒の涙が流れ、それと共鳴し、歌奏絵の瞳からも涙が流れ、透き通った涙が滑らかな白い頬を流れていった。歌奏絵は「AKITO」の最終巻である72巻を閉じ、抱きしめて涙を流しながら微笑んでいた。深緑色のカーディガンが、柔らかく彼女を包み込んでいた。窓から差す夕陽が、その深緑のうっすらとした毛羽立ちを、金色に染めていた。
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