第11話 花は咲く
道路橋の真ん中で、イヤホンを耳に付けた奈帆斗が、欄干に凭れながら下を見ている。
走っている車は、赤や青、黄と色とりどりで、地上の流星のようだ。そんな感性がまだ自分に残っていたことに動揺し、胸元を指でかすかに擦る。
(作家かよ。創作なんてやめちまったのにな)
皮肉なことを言葉にして表に出そうとしたが、虚しくなってやめた。それは吐息となって空に消える。片方の口角をわずかに上げた。
奈帆斗の灰色の心とは正反対に、空は快晴だった。
純白の雲が薄くうすく重なり、間に覗くあかるい水色と陽の光が、今は眩しすぎて目を逸らしたくなる。だが逸らせないあかるさが、彼の頭上を覆っていて、振り払いたくとも振り払えない。空から逃れるためには、彼が部屋に閉じこもってじっとしているしかない。
欄干を引っ張るように腕をぴんと伸ばし、体を支え、空を見上げる。逆にもう今はこのあかるさを、全身で受け止めてやろうという皮肉な気持ち。
そよ風が吹き、奈帆斗の前髪を上げる。瞼を半分下し、自分の睫毛が揺れるのを見つめる。唇は薄く開き、風が彼の、かすかに湿った唇を乾かす。
ポケットからはダークブルーのスマートフォンが覗き、ピンクゴールドのイヤホンで耳と繋がっている。自動再生で勝手に流れる曲を聞いていたが、stingの「Inglish man in newyork」が終わると、次に流れてきたのは菅野よう子作曲の「花は咲く」であった。
虚ろであった奈帆斗の瞳が、その曲が流れ始めると、鈍い光をともして揺れ、複雑な色を見せ始める。眉を顰める。眉間によった皺が、若さの上に薄氷のように重なる時間を思わせる。
「真っ白な 雪道に 春風香る わたしはなつかしい あの街を思い出す 叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた 今はただなつかしい あの人を思い出す」
合唱団の透き通った歌声が、折り重なって聞こえる。空へ、そらへと聞いた人を導き、涙を誘う感動的な歌であった。
だが奈帆斗は、俯いてポケットからスマートフォンを取り出した。画面に曲のシャッフルの表示があり、人さし指で停止ボタンを押す。
「やっぱこの曲消去しときゃよかったな……」
イヤホンを静かに耳から外し、スマートフォンと共にポケットに入れる。右手を上げると顔の前で開き、切なげに見つめる。手のひらの筋に陽が当たって白く光っている。こんなに自分の手相をじっと見たことは、もしかしたら初めてだったかもしれない。思ったよりも皺が刻まれている。樹が、自分の右手に宿り、細い枝を四方に伸ばしているようだった。皮膚と血潮が葉である。
やがて彼の意図に反し、その右手は小刻みに震えはじめる。握りしめるのと同時に、まるい瞼ををきつく閉じる。まなうらには、溶けた闇しか見えなかった。
(描きたいって思っちゃ、ダメだ……!)
強い力で握りしめたので、彼の右手は白く染まった。
欄干から体を離す。歩道橋の真ん中に立った。背に質量のある何かがぶつかり、前へよろめく。
「うおっ」
倒れて膝をついた。スマートフォンが空を舞い、かしゃりという音を立ててコンクリートの地へぶつかって跳ねる。画面が表だったので、傷はつかなかったことを横目で確認する。屈んだ姿勢のまま背を向けると、
そして奈帆斗の鞄が横倒れになっており、ブルーグレーの表紙に「授業進捗」と書かれた大学ノートが、女性の真横に落ちていた。
奈帆斗は再び顔を上げる。
女性が細い眉を寄せ、髪色と同じ長い睫毛を伏せているのを見て、はっと我に返る。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて起き上がり、女性の体に腕を回す。
その肉のうすい、華奢な上半身に驚く。壊れ物を扱うような力で、ゆっくりと支える。
一瞬女性を見ると、彼女の大きな瞳がこちらに向いており、その榛の中に映る自分の顔を見やる。自分はこんな顔をしていたのかということを、思い出させてくれた。それほどまでに透明だが、はっきりとした薄茶色の花弁の虹彩が、彼女のアーモンド型の中に広がっている。
彼女がまばたきしたのをきっかけに、目を逸らし、体を離す。
落ちている紙に何かが描かれていることがわかり、屈んでその紙をかき集め、整える。
その描かれたものが何であるか確認した奈帆斗は、はっと目を見開いた。
「これ……」
指先が少し震える。紙には少し太い黒の線で5、6コマの四角が割られており、その中に、活力のある線とベタで、大男と殴り合いで戦っている小柄な少年が描かれている。
「少年漫画?」
奈帆斗は、原稿を凝視した。
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