第11話 花は咲く

 歩道橋の真ん中で、イヤホンを耳に付けた奈帆斗が、欄干にもたれながら下を見ている。走っている車は、赤や青、黄と色とりどりで、まるで地上の流星のようだ、と思った。そんな感性がまだ自分に残っていたことに動揺し、胸元を指で擦る。

(作家かよ。創作なんてやめちまったのにな)

 片方の口角をうっすらと上げる。皮肉なことを言葉にして表に出そうとしたが、虚しくなってやめた。それは吐息となって空に消えただけであった。

 奈帆斗の灰色の心とは正反対に、空は快晴だった。

 本屋で再会した太田に、過去の出来事について、ただ淡々と話した。

 太田の顔は驚いているようには見えなかった。彼も仕事で編集者をやっているので、自分のように潰れた作家はたくさんみてきたのだろう。

 話が終わった後、太田にしては珍しく何も言葉を発しなかった。

 トラウマを出来事として語ったことで、奈帆斗の中でもなにか整理がついていた。

 片手をあげて、「じゃあまた、ご縁あれば」と背を向けて太田と別れた。

自動ドアを出る瞬間、太田が仕事をしている雑誌に、作品があれば投稿するように、強めの声をかけられたが、それも霞のように溶けて、返事をしなかった。

そっけない別れ方だった。きっともう、二度と会うことはないだろう。

__こんな俺に会いたいと思うやつなんかいるのか?

 純白の雲が薄くうすく重なり、間に覗くあかるい水色と陽のひかりが、今は眩しすぎて目を逸らしたくなる。だが逸らせないあかるさが、頭上を覆っていて、振り払いたくとも振り払えない。空から逃れるためには、部屋に閉じこもって、じっとしているしかないのだ。欄干を引っ張るように腕をぴんと伸ばし、体を支え、空を見上げる。逆にもう今は、このあかるさを全身で受け止めてやろうという皮肉な気持ちになる。そよ風が吹き、奈帆斗の前髪をあげる。まぶたを半分下し、自分のまつげがゆれるのを見ていた。くちびるはうすくひらき、風がくちびるを乾かす。

 ポケットからは、ダークブルーのスマートフォンが覗き、ピンクゴールドのイヤホンで耳と繋がっている。自動再生で勝手に流れる曲を聞いていたが、stingの「English man in new york」が終わると、次に流れてきたのは菅野よう子作曲の「花は咲く」であった。虚ろであった奈帆斗の瞳が、その曲が流れ始めると、鈍い光を灯してゆれ、複雑な色をあらわした。


「真っ白な 雪道に 春風香る わたしはなつかしい あの街を思い出す 叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた 今はただなつかしい あの人を思い出す」


 合唱団のうつくしい歌声が折り重なって聞こえる。空へ、そらへと聞いたひとを導き、なみだを誘う感動的な歌であった。

だが奈帆斗は、うつむいてポケットからスマートフォンを取り出す。画面に曲のシャッフルの表示があり、人差し指で停止ボタンを押す。

「やっぱこの曲、消去しときゃよかったな……」

 イヤホンをしずかに耳から外し、スマートフォンと共にポケットに入れる。右手をあげると顔の前でひらき、切なげにみつめた。てのひらの筋に、陽が当たって白く照っている。こんなに自分の手相をじっと見たことは、もしかしたら初めてであったかもしれなかった。思ったよりも皺が刻まれており、樹が右手に宿り、細い枝を四方に伸ばしているようだった。皮膚と血潮が葉である。やがて意図せず小刻みにふるえはじめた。

ふるえる右手を握りしめるのと同時に、目をきつく閉じる。

「描きたいって思っちゃ、だめだ……!」

 強い力で握りしめたので、右手は白く染まった。

欄干から体を離す。

歩道橋の真ん中に立った。

背に質量のある何かがぶつかり、前へよろめく。

「うおっ」

 倒れて膝をついた。スマートフォンが空を舞い、かしゃりという音を立ててコンクリートの地へぶつかって跳ねる。

画面が表だったので、傷はつかなかったことを横目で確認する。

屈んだ姿勢のまま背を向けると、はしばみ色のやわらかで豊かな長い髪を、青いバレッタでハーフアップにした女性が、尻餅をついていた。丸い袖に少しばかりのレースが付き、白く波打つワンピースの裾のほうに、ピスタチオ色のグラデーションがかかっている。

そこから覗く、細い足首と、つやのある白い肌の色を見てしまい、奈帆斗はなんだか背徳感に襲われ、目を逸らす。

周囲に視線を移せば、彼女が持っていたものであろうか、桜色のプラスチック製の収納ケースから飛び出たB4サイズの紙が、幾枚も散らばっている。

そして奈帆斗の鞄が横倒れになっており、ブルーグレーの表紙に「授業進捗」と書かれた大学ノートが、女性の真横に落ちていた。

 奈帆斗は再び顔をあげると、女性が細い眉を寄せ、髪色と同じ長いまつげを伏せていた。

はっと我に返る。

「だ、大丈夫ですか!?」

 奈帆斗は慌てて起きあがり、女性のからだに腕を回す。

その華奢な上半身に驚くが、壊れ物を扱うようなささやかな腕の力でゆっくりと支えた。

一瞬女性を見ると、彼女の大きな瞳がこちらに向いており、その中に映る自分の顔を見て瞠目(どうもく)した。彼女がまばたきしたのをきっかけに、目を逸らし、からだを離す。

 落ちている紙に何かが描かれていることがわかり、屈んでその紙をかき集め、整える。

その描かれたものが何であるか確認した奈帆斗は、はっと目を見開いた。

「これ……」

 ゆびさきが少し震える。紙には、少し太い黒の線で五、六コマの四角が割られており、その中に、活力のある線とベタ塗りで、大男と殴り合いで戦っている小柄な少年が描かれている。

「少年漫画?」

 奈帆斗は、原稿を凝視した。 

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