第10話 漫画を、やめる

「それから、漫画が描けなくなった。自分の絵すら、見るのも嫌になって、今まで描いた原稿、全部棚から引っ張り出して、びりびりに破いて捨てたわ。いやあ、気持ちよかったで」


 奈帆斗は皮肉な薄ら笑いを浮かべる。

 太田は瞠目し、瞳を揺らしていた。

 奈帆斗は言葉を続ける。


「部屋にあったいらんゴミ、全部捨てて、ほんますっきりしたわ。断捨離って、やっぱ効果あるんやね。あんなゴミに囲まれてたかと思うと、恐ろしいで」


 奈帆斗は明るい口調で言い切ると、満面の笑顔になった。

 誰か客が入ってきたのであろうか。本屋の扉が開き、初夏だというのに肌寒い一瞬の風が吹く。


「河谷……」


「せやから、もうオレの前で漫画の話するんやめてくれ。漫画の『ま』の字も聞くだけで吐き気がする。まあ、お前とはもう何の関わりも無くなったわけやし、潰れたオレのことなんて、もう忘れてくれや。今は教師として、結構充実した生活送っとるんや。生徒も可愛いしな。漫画やめてよかったわ」


「オレ今、富岡(とみおか)さら紗(さ)先生の担当やってるんや」


 太田は間髪入れずにそう返した。

 奈帆斗の顔から、さっと笑顔が消える。

 やはり作り笑顔だったのだ、と太田は思い、口角を上げた。


「富岡さら紗……? 18歳でデビューして、去年初連載作『水無月(みなづき)のキリン』で講談社漫画賞少女部門と、小学館漫画賞少女部門、手塚治虫文化賞新生賞、マンガ大賞、主要漫画賞総なめにした25歳の天才少女漫画家か……?」


 太田は奈帆斗の驚いている声を聞いて笑った。


「めっちゃ詳しいやん。やっぱ漫画、大好きなんやな。お前今でも」


「ち、違う……っ!」


「富岡先生はな。ここだけの話やけど」


 太田は奈帆斗に近付き、耳元に顔を寄せる。


「女ちゃうねん。本名は富岡左武郎(とみおかさぶろう)。男の少女漫画家や」


 小声で囁く太田の吐息が、奈帆斗の耳に熱く触れる。

 奈帆斗は瞠目し、太田を両手で押しのける。


「な、なんでそんな話オレにすんねん!」


「お前今、ちょっとでも悔しなったやろ。自分も少女漫画描きたなったやろ」


「は? 何言うてんねん!」


 太田はジャケットの内側から「黒海社 月刊ミルキーウェイ編集部 太田誠」と書かれた名刺を1枚取り出すと、奈帆斗の右手を取り、手のひらに乗せた。

 奈帆斗はその名刺の感触が、刹那、桜の花びらのようだ、と感じた。それほど優しい置かれ方だった。


「河谷、漫画描け」


 先ほどとは打って変わって、真剣な声と表情で、太田は奈帆斗を見つめた。彼の煮詰めた紅茶のような色の瞳の上に一筋の光が走る。

 奈帆斗は一度息を止め、瞳を泳がすと、自分を落ち着かせるように唇を引き結び、瞳を閉じる。そして、かっと瞳を見開くと、太田を睨んだ。


「お前わかっとんのか。漫画編集者が名刺渡すいうことは、そいつの担当編集になるいうことやぞ。編集者にとってそんなに大切な名刺を、オレみたいな一般人の教師に渡してもなんもならんで。バカにしとるんやな」


「オレはお前の漫画をガキん時に読んだ時から、お前の担当編集や」


「……」


「漫画描けたら、この『月刊ミルキーウェイ』に投稿か持ち込みしろ。ただしオレももうプロの編集や。幼馴染やからって贔屓はせん。ちゃんと編集会議でお前の漫画が新人賞取るレべルかどうか厳しくチェックしちゃる。でもお前やったらきっとおもろい漫画出してくれるて、期待して楽しみに待っとるで。黒海社で」


 太田ははにかむ。


「……オレにもう一回死ねって言ってるんか」


 奈帆斗は吐き捨てるように言うと、太田を通り過ぎ、俯きながら出口へ向かった。

 太田は奈帆斗の動きに合わせて静かに彼を見つめていたが、奈帆斗が完全に出口の前へ辿り着くと、踵を返した。


「絶対にお前にしか描けん世界が、キャラが、ストーリーがあるはずなんや! なあ河谷、漫画描くん諦めんでくれ! お前の漫画で救われる人が、絶対この世界にはおるんや!」


 本屋中に太田のよく通る声が鳴り響く。

 店員や、他の客が驚いて奈帆斗と太田の周囲に集まり、2人を見る。

 奈帆斗は出口で一瞬立ち止まると、背を向けたまま出て行った。先ほど吹いた冷たい風は嘘だったのではないかと思うほど、外からの熱く湿った空気が、本屋の中に漂った。

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