第9話 奈帆斗の異変

 壁にかけられた時計は、午前2時を指している。かちり、かちり、という無機質なその音と、奈帆斗が手に持つGペンが、インクにぽちゃりと付けられる音、真っ白な原稿用紙に描いていくカリカリという音だけが、今の奈帆斗のBGMであった。

普段彼は色々な音楽を聞きながら漫画を描いている。だが、今は何故かそんな心の余裕すら生まれなかった。苦しい、苦しい、心臓に時折きりりと訪れる鈍い痛みをひた隠しにし、一心に右手を動かし続ける。

右手には薄い白の軍手が嵌められていた。それが、奈帆斗が絵を描くごとに、鉛筆の下描きや飛び散ったインクで汚れていく。

 原稿には、日本髪の女性が描かれており、武士の男と話しているシーンだった。吹き出しに「誠十郎様、お気をつけて」と、鉛筆でうっすらと書かれている。

 奈帆斗の瞳は見開き、眼球が少し血走っていた。髪は2、3日洗わず、脂ぎってぼさぼさで、端から見ると何かに取りつかれた者のようである。彼が漫画を描く姿は、漫画を描くというよりも、白い紙をインクでめちゃくちゃに汚していくように感じられた。汚す、といってもそこに嫌な汚さはなかったが、見ている人間がもしもいたら、悲しくなるようなそんな姿であった。


「量産しなきゃ、量産しなきゃ漫画家になれない……。量産しなきゃ、漫画家になれない……」


 奈帆斗の右手は速く動き続ける。原稿を凝視したまま、インク壺にペン先を突っ込む。インク壺からペン先を離した瞬間、勢い余り、インクが原稿に飛び散る。


「あっ!」


 奈帆斗は慌てて原稿を両手で持ち上げる。その時、南野に言われたセリフが頭に響いた。


「全部描き直してください」


「全部描き直しだ……」


 奈帆斗は原稿から手を離した。いつの間にかその手は小刻みに震えていた。鳥が羽を折り畳むように手を下し、ぽつぽつと、本来の線で描かれないところに飛び散ってしまったインクで汚された原稿を見つめたまま、薄く口を開いて茫然としていた。


 小学校の黒板に文字を書く奈帆斗の右手には、昨日と同じ薄い白の軍手が嵌められている。軍手は手のひら側がインクで汚れていた。目には大きな隈が出来ていた。


「先生、大丈夫?」


 奈帆斗は振り返った。

 生徒たちが席につきながら、不思議そうな顔で奈帆斗を見ていた。


「そこ、教科書と書かれてること違うよ」


 蓮があどけない顔で、すっと細い腕を伸ばし、黒板を指差した。


「へ?」


 奈帆斗は黒板を見る。

 黒板には、「宮沢賢治 永訣の朝」と書かれた横に


「けふのうちに とほくへいってしまふ わたくしのまんがよ みぞれがふって おもてはへんに あかるいのだ(かかなきゃ かかなきゃ)」


 と、書かれていた。最初は整った文字で書かれているのだが、徐々にくずし字のような文へと変わっていく。最後は途切れ、チョークの粉でめちゃくちゃになっていた。


「先生、目ぇパンダみてえ!」


「あはははは」


 一人の生徒が奈帆斗を詰ったことにより、教室に笑いの波が起きる。


「え……」


 奈帆斗は自分の瞼を触った。指先には、乾いた睫毛の感触だけが残った。


 便器の前に跪き、荒い息を上げたまま苦し気に奈帆斗は顔を伏せていた。

瞳の端から涙が零れ、唇から零れていた涎と混ざってしまう。頭の中には、南野に言われた言葉がずっと消えずに鳴り響いていた。


『漫画描いてる時間あるんですか?』


 きぃん、という痛みがこめかみに走る。奈帆斗は左手でこめかみを押さえ、右手をトイレの床につけ、頽(くずおれ)れそうになる上半身を支えた。涎と涙の入り混じった自分の口を、腕で拭うと、息を1つ零す。


「……今日も帰宅したら、すぐに原稿描かねえと、そんでまた持ち込み行かねえと。編集さんに、量産できねえなコイツって思われる……」


 奈帆斗はゆらりと立ち上がると、もたれかかるようにしてトイレの出口を開けた。ひやりとした風が頬を撫でる。その冷たさすらも、今の奈帆斗には優しく感じられた。そっと指先で頬を撫でる。思っていたよりも、肌は乾燥していた。


 壁時計が午前3時を示している。

 デスクにだけ灯りがついた暗い部屋で、奈帆斗のペンが、がりがりと原稿を汚していく音だけが静かに鳴っていた。瞳は充血し、あまりにも大きく見開いているせいで、目玉が落ちてきてしまいそうである。 


「終わらねえ。終わらねえ。なんでオレ、こんなに描くの遅いんだ? どうしよう、このままだと編集さんに忘れられる。ただでさえ、年齢的にも遅いのに……。オレより若くてプロになってるやつなんか、いっぱいいるのに……」


 奈帆斗はいつもの薄い白の軍手を嵌めることを忘れていた。手は直に原稿とペンに触れ、小指側から黒く汚れていく。


 壁時計が午前6時を示す。窓から朝日が差し、奈帆斗の部屋を薄蒼く染めていた。

 奈帆斗は死人のような顔で、座ったまま天井を見上げている。目から涙が流れる。手の力が弱まり、握っていた黄色のペン軸が、剥がれるように床に落ちて跳ねる。

 体勢を直すと、虚ろな眼で目の前に置かれた描きかけの原稿を次々破いていく。破いた原稿を天へ投げると、紙片が奈帆斗の周囲を花吹雪の如く舞う。

立ち上がり、黒く汚れた手で机の上に置かれていた漫画制作道具を薙ぎ払う。ばらばらと物が落ちる音がしたが、奈帆斗はそちらを見なかった。

 わなわなと震える。頭を抱え、掻きむしる。吠えるように泣き叫ぶと、体を曲げ、机の上に上半身を凭れかけた。

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