第8話 編集者・南野洋平

「この人は人と違うことをやろうとしているなぁ。でも筆致甘ぇからなぁ。漫画はいつから描いてるんですか?」


 奈帆斗は勇気を出して顔を上げ、南野を見た。本当は目を逸らしたかった。だが、仕事を貰えるかもしれない相手から、目を逸らしてはならない、という本能的なものが、奈帆斗の心の中に生まれていた。

 南野の瞳は薄く氷の張った湖のようで、触れたつま先だけで割れてしまいそうだ。その瞳がじっと奈帆斗を見つめている。蛇に睨まれた蛙、という言葉が奈帆斗の中で生まれていた。怖くて仕方がない。今すぐにでも立ち上がり、この場から去ってしまいたかった。だが、尻が椅子に張り付いたように動かない。それは奈帆斗の心の中央にある、マグマの中に最後に残った氷の粒が、意思を持って彼の動きを止めているからであった。


「小学校から鉛筆で自由帳に描いてて……。Gペンと丸ペンで描き始めたのは高校からで……」


「……河谷さんはそれが遅かったのかな」


「……」


 南野は原稿に描かれている女中と若殿の濡れ場を示す。


「このいやらしいシーンは」


 奈帆斗は、南野の指先が示しているのが、自分が描いた絵であることに急に恥ずかしくなり、頬を朱に染め、照れながら片手を後頭部に回した。


「あ、これは11月にコミティアで他の出版社を3社くらい回った時に、言われたことを踏まえて描き直したシーンで。本当はここ、8ページくらい主人公と若殿が、漢詩の解釈を巡って口論になるってところだったんですけど、これじゃ長すぎるって言われて悩んで……。それでこの若殿がやばい奴だってことを表現する為に、盲目の直宗の目の前で女抱かせるってシーンにして」


「確かにここ気にならなかった」


「ありがとうございます!」


「ただ……11月? 2カ月前ですよね?」


「え」


 奈帆斗は口を丸く開けた。

 南野は腕を組み、俯くと顔を上げ奈帆斗を見る。


「河谷さん、漫画家って、量産出来るかどうかなんですよ」


「……っ」


 奈帆斗は口を開けたまま茫然とする。


(期末テスト準備で全然描けなかったとか言い訳だよな……)


 奈帆斗の受け持つ小学校の期末テストは、毎年11月に行われていた。生徒たちの今後を左右する大切なテスト。それを無碍にしてまで、自分のやりたいことを押し通すわけにはいかなかった。それは、仕事を続けながら、原稿を描き続けると決めた奈帆斗にとっては自分の時間が確保できない大変さであった。

少し俯き、視線をさっと横に逸らす。


「あと、濃いシーン多いんだよなぁ。泣くシーンとかそこまでいらないかな。直宗とおりんの関係も、歳の離れた師弟関係として描くんだったら、直宗がおりんに亡くなった自分の娘と重ねてるシーンとか入れないと。全部描き直してください」


「は、はい……」


「ちなみに今おいくつですか?」


「……今年で25です」


 南野は鼻から息を吐く。


「25歳か……ご職業は?」


「小学校教師です」


「教師……。漫画描いてる時間あるんですか?」


 南野は腕を組みながら眉をしかめる。冷たい言い方だった。


「……」


 奈帆斗は唇を引き結んだ。丸テーブルの下で、彼の握った両拳が大きく震え、やがてぷつんと、こと切れたように開かれた。

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