第7話 綴社への持ち込み

 春の風が吹き、桜の花びらがひらひらと奈帆斗の手の甲を掠める。地に落ちようとするそれは、彼の古びた黒い靴の上に乗ったが、再び風が吹き、一度弧を描くと乾いた地面に舞い降りていく。

下へ下へ。

 彼の両腕には、プラスチック製のA4書類収納ケースが抱かれていた。古く使っているのだろうか、端が少しちりちりと刻まれている。腕の力を緩め、片腕を地に下すと、彼の長い指先が収納ケースの横を掠め、降りていく。


「ここが老舗出版社の綴社(つづりしゃ)。80年代から活躍してる大御所少女漫画家が執筆してる、『月刊ポニー』に今から持ち込みだ……。やべえ、緊張してきた」


 封筒を抱える奈帆斗の腕が、どこからか痺れをもたらされたように震えた。


 綴社のロビーを入った中は、外の空気よりも些(いささ)かひんやりとしていた。つるりとした床は、奈帆斗が歩く度、静かな音を立てる。かっちりとつむじで黒髪を1つに纏めた色の白いポニーテールの女性が黒い瞳を奈帆斗に向けている。1、2分経った頃であろうか、エレベーターが下がる音がし、奈帆斗は抱えていた収納ケースをより強く抱きしめた。扉が開く。息を飲む。中から出てきたのは、グレーのスーツに身を包んだ男であった。


(編集さんだ)


 奈帆斗は直感した。

 先ほど、受付の女性に「月刊ポニー」の編集者を電話で呼んで頂けるよう交渉した。その編集が自分に会いにやってきたのだ。奈帆斗は俯いて下唇を噛みしめた。両腕が震える。

 抱えている収納ケースの中には、彼が懸命にアナログで全て描いた29ページの漫画原稿が入っている。これを今からプロの少女漫画編集者に、目の前で1ページずつ丁寧に読まれるのだ。


(耐えられるか……)


 恥ずかしさと同時に、プロの編集者に自分の原稿を読んでもらえる喜びが胸から沸き上がり、奈帆斗の首筋を薄紅に染めた。

だがその紅は、すぐに青白く色を変えることになる。


 丸テーブルを間に挟み、奈帆斗と編集者が向かい合って座っている。

 編集者は、自分のことを南野洋平と名乗った。彼がエレベーターから降りてこちらにやってきて、緊張して顔が上げられない奈帆斗に優しい声音で話しかけてくれていた。

 だが、奈帆斗はその内容が頭に入ってこないほどに、耳鳴りを感じていた。その耳鳴りは、南野が奈帆斗の腕できつく抱かれた収納ケースから、するりと滑るように漫画原稿を抜き取り、丸テーブルを挟んで、奈帆斗と向かい合って座ってからも消えることはなく、より大きく響いていった。

 南野が自分の漫画のページを捲る音が、耳鳴りに重なって聞こえる。その、しゅるり、という音は、自分の体から発せられる耳鳴りよりも大きかった。南野が原稿を読んでいる間に読んでいるようにと渡された「月刊ポニー」の最新号は、全く内容が入ってこなかった。雑誌を持つ手が震え、手汗が少しその紙をふやけさせる。

 

 

 紙が開かれる音が、終わりを迎えた。

 南野が、奈帆斗の原稿を丸テーブルの上に置く音がした。

 同時に、奈帆斗の額から、いつの間にかかいていた汗が一筋零れ、彼の顎を伝い、雑誌の上に落ちていく。


「ありがとうございました。全て読ませて頂きました」


「あ、ありがとうございます」


 南野は何かを考えるように片手を顎に当て、テーブルに置いた奈帆斗の原稿用紙をじっと見つめる。時間にしては1、2分であったが、奈帆斗にはその沈黙が無限に感じられた。両膝に置いた両手が震える。


「現時点ではいい話描かれる」


 南野は静かに口を開いた。

 奈帆斗は顔を上げた。表情が明るくなる。


「あ、ありがとう、ございます!」


「29ページで時代劇としてよくまとまっている。言葉使いに現代には無い古き良さを感じる」


 南野はすらすらと誉め言葉を語る。

 奈帆斗は嬉しさで頬を熱くする。いつの間にか口角が上がり、唇は震えて歪んでいた。

 瞳を眇めて南野を見る。


「オ、オレ、歴史小説読んだり、時代劇とか見てる影響とか出てるのかもしれないですねっ」


 南野は、奈帆斗の方は見ずに、原稿だけを見続けている。やがて薄く唇を開いた。


「筆致まだまだ甘ぇな」


 奈帆斗はメモを書く手が止まる。

 南野は顔を上げ、鼻で笑いながら言葉を続けた。

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