第5話 6月の大阪、教室の光 

 6月の光は、教室の校庭に面した曇りガラスの窓から、10歳の奈帆斗の、水分を適度に含んだ柔い黒髪を、光らせていた。

 放課後、一日の後半を向かえた教室は、まだお喋りの物足りない生徒たちが男女問わず数人残っていた。   皆それぞれに、その日の楽しかった出来事や、これから家に帰って行いたいこと、今流行っている少年漫画の今週の展開について、放課後のピロティで隠れ鬼をする約束事など、机に腰を凭れかけさせたり、椅子に座り、手で顎を支えたりしながら、話し合い、楽しんでいた。

 中には図書館から借りてきた児童文学を、一人で静かに読んでいる生徒もいた。そういう生徒は、家に持ち帰って読むよりも、人の気配のある放課後の教室の中で読んだ方がペースが進むのだ。

 奈帆斗もそういったタイプであった。奈帆斗は十歳の頃、父親の仕事の都合で、大阪で暮らしていた。大阪の小学校では、関西弁を話さない者は、きどって見えて壁を作られるということを肌で感じ取っていた。段階を踏んで少しずつ周囲の発音を耳で聞き分けながら、自分の標準語を関西弁に変えていった。それは奈帆斗がこちらの世界で生きる為の術でもあった。その代わり、奈帆斗は必要最低限のことは他の生徒とは話さなかった。それは、父の仕事はいずれまた関東に戻るだろうということと、それほど奈帆斗自体も殻を破って他の生徒と話すことが出来なかったからだ。

 そんな奈帆斗に、太田は土足で踏み込んできた。


「すげえ、河谷……。やっぱ天才やん」

 

 まろやかな少年の声で、奈帆斗は夢中になって描いていた空想の世界から目を覚ました。

 顔を上げると、太田の小麦色の頬と、その上に光る黒い瞳が目の前にあり、少し仰け反る。


「うわっ、見てたんかお前」

 

 奈帆斗の机の上には、表紙にテントウムシが羽を広げて飛び立とうとする写真の載った自由帳が広げられていた。罫線の一つもない、白く美しいそのノートには、削られた鉛筆の細い線で、コマが幾つも割られ、瞳の大きく髪の美しい少女の絵が描かれていた。その隣には、背の低い少年が少女と向き合い、頬を染めている絵が描かれている。少女の頭の右横に、『山田くん、好き……』というセリフが手描きで書かれた吹き出しがあった。

 まだ幼い少年の拙い画力ではあったが、太田には、奈帆斗の絵が持つ力が伝わっていた。そして太田にはそれを感じる良い目が備わっていた。奈帆斗が体を起こしたのと同時に、太田はその自由帳を取り上げ、両手で端を持ち、輝く瞳でじいっと見つめる。


「おい」

 

 奈帆斗は太田から自由帳を取り返そうとはしなかったが、眉を寄せ、鋭い視線を送る。

 太田は奈帆斗の視線に気付きながらも、視線は奈帆斗の描いた漫画に釘付けとなり、細長い首を少し下げながら、ただ一心に描かれた絵を見続けていた。一見スポーツにしか興味が無さそうに見えるほど、健康的な焼けた素肌と、細長く、筋肉の程よくついた腕。

 そんな彼が、素人の描いた漫画、しかも美少女と美少年の淡い恋愛物に惹かれている姿は、描いた本人である奈帆斗が見ても滑稽で、なんだか可笑しくなり、右手を丸めて口元に当てると、その上がった口角を隠した。


 「……すごい。同じクラスにこんな天才おるなんて」


「へっ、褒めてもなんもでんぞ」

 

 奈帆斗は瞳を細め、恥ずかしそうに頬を染めて笑う。

 最終ページまで読み終わると、自由帳をひっくり返し、奈帆斗に返す。

 テントウムシの写真が、先ほどより赤い羽根が艶やかに光り、生命力を放っているように、奈帆斗には見えた。


「おおきに! めっちゃ良かったわ」

 

 太田は一層笑顔の輝きを増すと、片手を自身の頭の後ろに回し、がしがしと掻いた。短く刈った髪が、彼の厚い皮膚を纏った手のひらに触れられているのを見て、奈帆斗は気持ちよさそうだなと何となく思った。


「オレ、普段コロコロコミックと小学五年生しか読んでへんから、なんやお前のマンガ読んで……」

 

 頭に回した片手を元に戻し、胸の前へ軽く置く。

 奈帆斗はそれを見てなんだか嫌な予感がした。


「……胸がこう……、きゅんっとしたわ」


 緩く両こぶしを握り、胸元で合わせて、腰はしなを作る。そのまま恍惚とした表情で自分の体を抱きしめる。

 太田のわざとらしいその動きに、奈帆斗は三白眼になり、唇を引き結ぶと、ふっと視線を一度逸らした。瞳を閉じて眉に皺を作る。


「なんや気持ち悪い」

 

 だが、太田の自分のマンガへの素直な感想が嬉しくて、徐々に眉の皺を緩め、口角を上げる。


「……でもおおきにな。そんなん言ってくれて……嬉しいわ」

 

 奈帆斗は自由帳の表紙を見つめた。赤いテントウムシが、深い緑の森を背景に、青い空へ羽ばたこうとする写真。ぱきぱきとした単色ばかりが使われ、太田のようだった。

視線を太田に映し、口角を上げる。

 太田には、奈帆斗の笑顔が照れているように見えた。嬉しくなり、猫のように瞳を細めてにんまりと笑う。

 奈帆斗は自由帳を指差す。


「これな。少女漫画やねん」


「少女漫画?」


「オレ、幼稚園時から、コロコロコミックじゃなくてちゃおっ子やねん。姉ちゃんがちゃおっ子でな。オレも自然と読んでた」


「ああ、女子たちが昼休みによくきゃあきゃあ今月の胸キュンシーンについて言い合うてるやつか」


「せや」


「へーそうなんや。少女漫画描ける男子なんて日本でそうそうおらんで」


「何や知らんのか。あの『鉄腕アトム』とか『ブラック・ジャック』描いた漫画の神様、手塚治虫先生やって『リボンの騎士』て少女漫画描いてはるで」


「ふえっ?そうなんや! 全然知らんかった」


「そうそう。結構昔から男の漫画家さんも、少女漫画の名作描いとんねん」


「やっぱ河谷も将来『別マ』とかで描かれてる高校生の兄ちゃん姉ちゃんの青春胸キュン描くんやろな~。今からサインもらっとこかな」


 太田は頭の後ろで両手を組んで、少し背を仰け反らせ、更に笑みを深める。

 奈帆斗はしばらく微笑んでいるだけであったが、やがて「してやったり」といったように口角を高く上げると、目を細めて太田を見上げた。

 太田は突然奈帆斗の雰囲気が変わったように見えた。体が放っていた静かな光が、急に熱を帯び、穏やかだが熱い炎へと変わるようだった。それは、夏休みに家族で軽井沢へキャンプをしに行った時に、弟と二人で夜にテントの外で薪を燃やした時に見た、爆ぜた炎に似ていた。突然に燃えだし、後はゆっくりと、だが確実に全ての薪を燃やし尽くす炎の卵。


「いや、オレが将来描きたいんは学園物ちゃうんねん。オレが描きたいのはこれや」

 

 奈帆斗は机の引き出しから「ベルサイユのばら」の単行本を取り出した。表紙にはブロンドの巻き毛のロングの髪の、瞳のきらきらとした美しい髪の女が、赤い唇に真横になるよう、一本の深紅の薔薇を咥えている。彼女の着ている服は、赤のきっちりとしたコートで、肩に金の大きな留め釦のようなものを乗せており、釦を周囲を太い金の糸が幾重にも覆って垂れている。どう見ても男物の服装である。そのしなやかな手には西洋の剣を握り、鞘から少しばかり刃を覗かせている。顔は女性、だがその姿は戦に挑む戦士であった。彼女の右上には、長いクリーム色の髪をつむじで束ね、艶やかに結って、胸元を大きく開いた愛らしい童顔の女性が描かれている。リボンの多くついた赤いドレスを身に纏い、唇はふっくらとしていて、桜色に染まっている。二人の周囲には、赤と白の薔薇が華やかに覆っていた。


「ベルサイユのばら……?」

 

 太田は見たことも無いきらびやかな絵柄のマンガに、目を見開いた。

 奈帆斗はそれを見て、更に口角を上げる。


「こん前、姉ちゃんの本棚にあったから興味持って読んでみた。フランス革命ん時を舞台にした話で、金髪碧眼の男装の麗人オスカル様がヒロインの少女漫画や。オレはこれ読んで、オレが目指すもんはこれやと思った。オレは、将来絶対に平成の池田理代子として少女漫画引っ張る。和製『ベルサイユのばら』を描くんや」


「和製ベルサイユのばら?」


 太田は更に目を見開く。彼の瞳の白い所が、鈍い光を放つ。


「せや。舞台は昔の日本。まあ幕末かな。そこに侍の格好した女の子がおんねん。その子がヒロインや。美しく、そして強く、気高い……。オスカル様みたいな男装の麗人が、日本刀で悪を成敗して大活躍する恋と友情と戦いの話や」

 

 奈帆斗はそう言い切ると、両こぶしを握りしめ、きらきらとした眼差しで前方を見た。彼の向きあった先には、チョークの粉で薄汚れた黒板があった。それを意識しているわけではないだろうが、太田には、奈帆斗が今にでも立ち上がり、教室の広く、自由なキャンバスで、マンガを描き始める姿が目に浮かんだ。


「オレは女の子がかっこいいと思ってくれて、憧れてくれるような、そんなヒロインをこの手で描きたいねん」

 

 太田はうっすらと口を開け、しばらく茫然としていたが、やがて瞳を震わせると、感嘆の息と共に言葉を吐いた。


「すげえ……。そんなん考えてるやつ初めて会うたわ」

 

 太田は頷き、顔を上げると、真剣な表情になる。


「決めた。オレ、将来漫画編集者んなる。そんで、お前とお前の夢叶える」

 

 下した右手をすっと直角に上げると、奈帆斗に差し出した。


「よろしゅうな。河谷せんせ。一緒に少女漫画界の天下取ろうや」

 

 奈帆斗は差し出された手を見て、笑顔になる。その笑顔は太田が彼と出会ってから見たことも無いような晴れやかな笑顔だった。大阪で常に人と距離を保っていた奈帆斗の殻が、今破られた。


「ああ、世話んなるで。太田」


 いつの間にか、外から指す陽の光は、夕焼けの色が深くなり、逆光で彼らの繋がれた手は、教室の床に影を刻んでいた。

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