第2話 黒板に描かれた美人画
奈帆斗の勤める小学校は、川崎市の登戸にある。
藤子不二雄ミュージアムの前を通り、神が獣の長い爪で小山を切り裂いたような、登坂の長い道路「切通し」を通過する。更にその上の坂を登ると、やっと学校の輪郭が見えてくる。
年月を感じさせる飴色の窓のひさしが、太陽の強い光に照らされている。壁は薄いクリーム色をしており、小さな生徒たちを守っている。薄茶と赤紫のタイルがピロティには散りばめられ、端にヤマモモの苗木とパンジーの花壇が置かれている。そこを通り、下駄箱で靴を履き替え、右に曲がってすぐの「五年二組」が、奈帆斗が担任を受け持つ、二十四人の五年生が所属するクラスである。
この学校の名物である校庭を囲うように広がる銀杏の木々の葉が、クラスの窓から見える。初夏の光をその柔らかなてのひらのような形をした葉で受け止め、深い緑がきらきらと、木漏れ日を表面に宿すように光っている。まだ紅葉していないのに、その葉先は光の加減で黄色く色づいているように見えていた。
窓の近くにいた小柄な生徒が、その銀杏の葉を掴もうと、少し開いた窓から手を伸ばすが、黒板の前に立つ奈帆斗がこちらを向きそうな気配を感じたので、慌ててその小さな手を引っ込めて、国語の教科書に目を落とす。
奈帆斗は黒板に向かい、音を立てて白いチョークで文字を書いていた。上から下へ文字を書く度に、黒板に白い粉が落ち、粉雪のように下へ落ちていく。奈帆斗は手が汚れるのを避けるために、薄い黒の手袋を嵌めていた。初夏なので、中が蒸れるのが気になったが、白い粉がつくよりはましだと思った。
左手に広げた教科書を持ち、右手に短いチョークを持つ。
奈帆斗が書いているのは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」だった。
座っている二十四人の生徒は、今日は誰も欠席することなく、机を前にして椅子に利口そうに座っている。皆飴色の机の上で国語の教科書を開き、賢治の詩のページを開いて呼んでいるが、最後尾に座っている山本涼だけは、不自然に教科書を机に垂直に立て、こそこそとしていた。
「なぁ。山本くん。今月の『魔法少女リオ』の原稿、順調っすか?」
隣の席の吉沢蓮が涼の方へ体を近付け、手を口元に添えて囁く。蓮は髪を短くし、半袖の青いTシャツを着た、夏を体現したかのような爽やかな少年であった。鼻のあたまに少しばかりの朱色のそばかすが、星屑のように散っている。
「ふふふ……。吉沢くん。このぼくを馬鹿にしてくれちゃあ困るよ。将来、令和の手塚治虫と呼ばれる男だよ? 今、神回を描いているからさ」
涼は瞳だけを横に動かし、小声で蓮に返した。
立てた教科書で隠すように自由帳に鉛筆で涼が描いているものは、漫画だった。
小さなコマや、大きく縦に長いコマを白い自由帳の1ページに割り、その枠の中で、ふわふわとしたクラゲのようなドレスを着た、瞳の大きい少女が魔物と敵対して戦っている。着ている服は単色の赤、青、緑を花びらのように重ねたワンピース。もちろん現代人が普段着で着ているようなものではない。彼女の眸は、涼の手の動きと呼応してきらきらと輝く。
漫画を描く手を止めることなく、もう一度連を横目で見やると、ウィンクし、口角を上げる。
蓮はそれを受け止めると、さっと頬を染める。
「や、やべー! めっちゃ楽しみ……! 山本くんのこと、先生って呼んじゃおっかな……! 読者第一号として、期待してますよ。先生!」
蓮は興奮していたが、声は小声にして頑張っていた。
二人だけのこそこそ話が、永遠に続くかに感じられた。
だが、涼の立てられた教科書が、開かれた状態ですっと上がったことで、すぐに終わりを迎えた。
「何をしてる」
天から響く低い声に、涼と蓮は顔を見合わせる。互いに恐ろしい化け物と遭遇してしまったような顔をしていた。
青褪めて、黒い翳り。
ゆっくりと互いから目を離し、びくびくとした動きで顔を上げる。
「先生……」
二人同時にその名を呼ぶ。その声は掠れていた。
涼の教科書を自分の顔の横まで上げ、邪悪な笑顔で二人を見下ろす担任教師・奈帆斗の顔が、ふたりが見上げた先にはあった。
周囲の生徒は国語の教科書を利口に読むふりをしながら、そのページに顔を隠し、にやにやと三人に目を向けている。
「国語の教科書はお前の防壁じゃねえぞ」
奈帆斗の叱りの言葉を受けて、蓮は椅子を鳴らして立ち上がった。
「河谷先生! オレが悪いんです! オレが、山本先生の新作早く読みたいって急かしたから……。オレのせいっす!」
蓮は奈帆斗を見上げ、鬼気迫る表情で大声でそう叫ぶと、体をくの字に曲げて頭を下げた。
涼もそれを受け、椅子を鳴らして立ち上がった。
「いや、ぼくが悪いんだ! ぼくが吉沢君が、ぼくの漫画を面白いって言ってくれてたから早く新しい回読んでほしくって……。ぼく一人の責任です!」
涼は蓮と同様に、体をくの字に曲げて頭を下げた。
顔を青くして謝る二人の様子を見て、奈帆斗は腕を組み、唇を曲げる。自分でも相手に対して大人げない冷たい態度を取っていることは感じていたが、「漫画」関連になると、彼の場合気持ちが安定しなくなる。
「ジャンプの編集と売れっ子漫画家かお前ら。なんだ山本先生って! びっく
りしたわ」
涼は顔を上げる。彼の大きな瞳の端に涙が少し溜まっていた。彼の大事なものを彼なりに守ろうと必死だった。艶やかな橙色の唇は引き結ばれ、震えている。奈帆斗が怖いのだ。
奈帆斗はそれを見て、胸が痛んだが、涼とまっすぐに視線を合わせないようにしてやり過ごした。
「いや、ぼくが描いてるのは少年漫画じゃないです! ときめきいっぱいの少女漫画です!」
「どっちでもいいわ! 今何の時間ですか? 国語の時間だよね? 国語の時間
に何で自由帳で少女漫画描いてるんだよ! はい、これ放課後まで没収ね」
奈帆斗は机の上に広げて置かれていた涼の自由帳の上部を、指で摘まみ上げると、ひらひらと空へ漂わせ、彼らの頭上へ、手が届かない高みへと持ち上げた。
「あっ……!」
涼と蓮は顔を上げ、窓から吹く風を受け、広がるページを見つめる。その透き通った琥珀色の瞳が、陽の光に煌めくのを見ると、奈帆斗は更に罪悪感に胸を押された。
「ま、待ってくれ……! 山本先生の血と汗と涙の結晶を奪わないでくれっ……! 全国の一億人の読者が『魔法少女リオ』の続きを楽しみに待ってるんだ!」
蓮は自由帳を取り返そうと、ジャンプしながら手を伸ばす。
奈帆斗はそれを避け、更に自由帳を持った手を上げた。
「いや知らねえわ! 放課後になったら返すから職員室来いよ」
瞳を揺らす二人の生徒に背を向けると、奈帆斗の罪悪感は更に増した。薄暗い想いが、心を覆いつくす。
奈帆斗は自分のデスクの前に座っていた。指を少し曲げ、とんとんとデスクを叩く。
首を少し後ろに曲げると、視界に神妙な顔で固くなっている二人の少年の姿が目に入った。
少し唇を開け、一瞬二人から目を逸らすと、再び二人を見る。次は桃色に染まって上気した頬が目に入った。緊張しているのだろう。奈帆斗は自分のことを汚れた大人だと感じた。自分と比較して、清らかな二人の生徒と向き合っていることに、しかも自分が教師という立場だということに、何故か更に罪悪感を感じていた。デスクに置いた手に、自然と力が入り、緩く拳を握った。
二人に視線を交互に向けると、そのまま視線を動かさずに、拳を握った手を開き、さっとデスクの引き出しを開いた。
涼と蓮は一瞬信じられないものを見たように、口を丸く開けて固まっていたが、やがて体が意味を悟り、明るい笑顔になった。
「ほいこれ。もう授業中に描くなよ。休み時間か放課後に描け」
奈帆斗はそっけなく言った。だが二人にはそれがこの上なく優しい言葉に聞こえ、更に笑みを深くする。
「あ、ありがとうございます!」
涼は両手を差し出し、自由帳を受け取った。涼の握力の弱さを感じ、奈帆斗は彼の手のひらにきちんと自由帳が乗るように気遣った。
涼は自由帳の表紙を揺れる瞳で確かめると、大事そうに胸に抱き、瞳を閉じた。彼の目の端に涙の雫が浮かぶ。
奈帆斗はその様をポーカーフェイスで見上げる。
蓮は両拳を握りしめ、涼を見た。
「よかったですね先生! さっ、今月回の打ち合わせ、さっそくしましょ!」
涼と蓮は奈帆斗の方を一度も見ずに、職員室の出口まで走って去って行った。
「……ったく。お前は担当編集かっての」
奈帆斗は頭を掻き、呆れ顔で二人を見送るが、ふいに切ない表情になる。
「……」
少年たちの活気あふれる笑顔と輝く瞳に、遠い昔の友人を思い浮かべそうになったが、急いで思考から削除する。
だがそれは無駄な努力であることに数時間後に気付くことになる。
窓から夕陽が差し込み、硝子を金色に色づけている。それを受けた教室の床や机、黒板の端も、同じような色合いに染まっている。
黒板の前に立ち、真剣な表情で奈帆斗はじっとその黒のキャンバスを見つめていた。手には短い白のチョークを持っていた。いつもと違い、黒の薄い手袋はつけておらず、剥きだしの奈帆斗の手が覗いていた。指の爪に夕陽があたり、鈍い金に光って、まるでマニキュアを塗っているようだ。
意を決した表情でチョークを持つと、黒板に繊細な絵柄で長髪の着物姿の美少女を描いていった。
奈帆斗の指先は震えていたが、そこには力が宿り、徐々に確かな重みを持っていく。それが黒板の上を滑り、白い絵の具で絵を描くように、細い線や濃い線でキャラクターの輪郭を描き、衣を描き、瞳を描き、唇を描く。
彼の腕はチョークと一体となっていった。もはや指が汚れるのもかまわない。白に白を重ね、黒いところはそのまま残し、茫とした頭でただ一心に描いたその先に、気付いた時には息遣いすら感じさせる美麗な少女が生まれていた。
ふと瞳を上へ向け、時計を見ると、驚くほどに時間が経過していた。こんなに一つの物事に夢中になって取り組んだのは、初めてかもしれなかった。
チョークを握った手を、目の前に持っていく。指先を緩く回し、手のひらを開くと、白い粉だらけの手が目に映った。奈帆斗はそれをじっと見つめて、自分が何をしていたのかに気付くと、小指から順に指が震えていくのを感じた。それは穏やかな波で、流れる血潮から熱を湧かせていった。
「先生すげえ! 漫画家みてえ!」
後ろからの声に目を見開き、ゆっくりと振り返ると、涼と蓮が奈帆斗から少し離れた位置で横に並び、きらきらした眼差しを自分に送っていた。
その汚れない少年たちの顔を見て、奈帆斗は反吐を出したような暗い顔をした。
「先生、絵、上手かったんですね」
「帰れ。今見たことは忘れろ。誰にも言うんじゃねえぞ。いいな!」
自分でもびっくりするくらいの大声が腹から出た。当たり前だが、涼と蓮もびっくりして雷を直撃されたように全身の毛を逆立て、固まっている。やがてしばしの時が経つと、背後から溜息が二つ聞こえた。
「もったいない。もっと見て参考にしたかった……」
「……山本、帰ろう。河谷先生すげえキレてるし……」
奈帆斗が横目で背後を伺うと、涼と蓮が落ち込んだ表情で俯きながら教室を出て行くのが見えた。
奈帆斗は再び黒板に向き直り、受け皿にチョークを置く。奈帆斗の絵によって更に短くなったチョークは、受け皿に置くと他人が見たらどこに置いたのかわからなくなるほどになっていた。奈帆斗はそのことに今更ながら驚く。
受け皿に置かれた黒板消しの表面に指先をつけ、軽くチョークの白い粉を拭い取ると、そのまま手先を滑らせて取っ手を掴み、黒板消しを手に取る。
「はあ……」
自分にしか聞こえない、か細い溜息を吐くと、夏だというのに、それが冬のように白く漂っていくかに見えた。それも平行に。
姿勢を真っ直ぐに、上から下へ、弧を描いて肩を始点として描いた着物の美少女を消していく。一度目はうっすらと、二度目は線が淀み、三度目は絵の形を残さずに。
消えていく少女の瞳や髪を見つめると、胸の中央に棘が刺さったような鈍い痛みが走る。
(殺した。オレが産んで、オレが殺した)
「ごめんな……」
奈帆斗は車のワイパーのように均一に動かしていた手の速度をゆっくりと落とすと、俯いて唇を噛みしめた。
「くそっ、何が少女漫画だ……。くだらねえ……」
黒板に置いた黒板消しから、チョークの粉が天使の羽のように、奈帆斗の靴の上へと落ちてゆく。
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