紙上の銀河を泳ぐ者
木谷日向子
第1話 答案用紙の裏には
【これはまだ、デジタル原稿と電子書籍が対等していなかった90年代の、アナログ原稿と紙書籍と戦い続けた漫画家たちの物語である。】
答案用紙が無造作に置かれた机の上で、河谷奈帆斗(かわたになほと)は自身のクラスの生徒たちの国語のテストの答え合わせをしていた。奈帆斗は小学校教師で、現在六年生の担任を受け持っている。いつも夜の静かな時間を好んで答案に赤いペンで丸や☓を付けていた。
隅に少し埃の溜まった小さな窓が半開きになり、そこから初夏の夜風が部屋に入ってきて、奈帆斗の前髪を揺らす。夜と同じその色は、背伸びすると窓に映って溶けてしまいそうだ。
自分の揺れる髪をうっとおしそうに片手で額の上へ撫で上げると、奈帆斗は再び集中力を取り戻して、生徒たちの答案に向き合うのだった。
「あ~……、あと3人だったか。早くやっつけてやらねえと。あいつらの為に」
奈帆斗は大きく伸びをして、首を1、2回左右に動かす。かくかくと首の骨が鳴り、それが彼の頭をすっきりと元の位置に戻していく。
瞳を薄く開き、気を取り直して再びテスト用紙と向き合う。10歳の生徒が手で書いた言葉は、25歳の自分が書くそれとは違い、拙く、読解することも困難なものすらあるが、指先でその文字を撫でると、彼らに対する愛おしさがふわりと喉の奥から込み上げてくる。
うっすらと口角を上げて答案用紙の横に置かれた赤ペンを取り、背を軽く曲げて眉を寄せ、その拙い文字が問いかけようとしている言葉を拾い集め、理解しようと努める。
「え~っと……。吉沢の答案か。相変わらず汚ぇ字だなあ。……今度きれいな字の書き方一緒に練習してやるか」
頭を掻き、生徒の一人、吉沢蓮(よしざわれん)の笑顔を思い浮かべる。
蓮は夏の太陽が産んだような子どもで、短く刈った黒髪と、そのあかるい笑顔は、幼い頃の親友の顔を彷彿させるものがあった。今はもう連絡を取っていない、過去の人となってしまった友人。
一瞬物思いに耽ると、首を振り、再び赤ペンで〇や☓を付けていく。
――蓮の場合、☓だらけであったが。
奈帆斗はペンが答案用紙の上で立てる音が好きであった。スケートリングを滑る選手のように、つるつると子気味良い。この音が消えてしまうのが切なく、いつも答案用紙の丸付けが終わる最後の一枚になると、次のテストが待ち遠しくなってしまう。誰にも話したことなどなかったが。
「……天職なのかもな」
赤ペンのインクが乾いていくのを見つめながら、皮肉な笑みを浮かべた。彼の瞳に赤い丸や☓が映っては、虚ろに消えていった。
赤ペンを無造作に口に咥える。教師になった時にやめた煙草の代わりにしているのだ。
未だに口寂しいときはあるが、煙草の煙を吸いたいという気持ちはもう起こらなかった。
半開きになった窓からふいに、一際強い風が部屋に入ってきた。
奈帆斗は瞳を閉じ、眉をしかめると、その風を真正面から受け止めた。
「つべてえな」
感想と共に開いた口から赤ペンが落ちる。
答案用紙は舞い上がり、奈帆斗の周囲を花吹雪のように舞ってから、ゆったりとカーペットの床へ落ちていく。
奈帆斗はその一枚が床へ落ちる前に、すっと伸ばした手のひらの上に乗せると、端に折れ目がつくくらいに人差し指と親指で強く摘まんだ。そして自分の目の前に持ってくる。
視線をデスクの上に戻すと、答案用紙が先ほど置かれていた箇所に、黄ばんだ古い紙が一枚置かれていたことに気付いた。
「あれ……。んだこれ」
自分でも置いていたことを忘れていたらしい。整理整頓が出来ていないなど、教師失格だと反省しながら、眉を顰めてその紙に近寄る。
見ると、答案用紙よりも一回り大きく、指で端をつまんで撫でると紙の素材もわずかに違っていることがわかる。
描かれているものを確認しようと顔を寄せた奈帆斗は、驚き、息を止めた。そして、まるで鼠の死骸でも見つけてしまったかのように、すぐに丸めてくしゃくしゃにすると、ゴミ箱の中へ突っ込んだ。水色の缶で出来たゴミ箱は、蓋を閉めるとからんからんと音を立てた。
奈帆斗のこめかみから冷や汗が流れ、ゴミ箱の前で立ち尽くす。瞳孔は開き、ここではない過去を見ている。
やっと呼吸の仕方を思い出したかのように、短く息を吸うと、代わりに額から細かな汗が床に散った。
「はっ……。なんで昔に描いた漫画原稿が、こんなとこからいきなり出てくんだよ……!」
奈帆斗は怒りを足先に籠め、思いきりゴミ箱を蹴った。かたんと床にゴミ箱が倒れ、丸い蓋が開き、中から先ほど丸めて捨てた塵がぽとりと現れる。
奈帆斗の日本人にしては色素の薄い、灰茶色の瞳はその塵を見つめて震えていた。
反動でゆっくりと開いたその塵は、中に漫画のコマが幾つか描かれており、滲んだインクの黒で、大きな瞳でふんわりとしたワンピースを着て、魔法道具を手にした、美少女のキャラクターが描かれていた。
また窓から初夏の夜風が吹いてくる。しかし先ほどよりも穏やかなそれは、丸めて塵にされた奈帆斗の昔の作品を、ゆるく転がして、彼の足先に辿り着かせただけであった。彼はそれを拾おうとして、腰を屈めて手を伸ばしたが、指先を伸ばしたとき、ふいに我に返り、ゆっくりと腕を元の位置に戻した。そうしてしばらく塵を見つめたあと、静かにゴミ箱の中に戻した。ゴミは地へ降り立つと、賞味期限切れの干菓子のように、ほろりと崩れて動かなくなる。
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